2007年07月29日

学習や経験の力をなめてはいけない

あいかわらずマーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』を読んでます(もうすぐ読み終わります)。

すでに、


といったエントリーで紹介してきたこの本ですが、人間を含めた生物の発達と学習、そして、本能や生得的性質、行動とそれぞれの種に特有な環境との複雑で相互作用しあう関係性についてとても興味深い示唆をしてくれます。

特に、人の行動の観察からデザインを考える、という人間中心設計について日々考えている僕にとっては、この行動主義的な生物学の研究にはすごく得るものが大きいのです。

特有の環境における体験が特有の性向を生じさせる

この本を読んでいて、何より学ばされるのは本能だとか生得的だとかいう言葉で僕らがイメージしてしまうものが、実はまったく本能的でも、生得的でもないということです。
それらは生まれたときからすでにもっているものではなく、むしろ発達段階における環境や自分以外の生物との係わり合い、そして、自分自身の行動を通じて学習していることが多いということです。

たとえば、ラットがほかの種の匂いよりも同じラットの匂いを好むという性質。
これは単純に考えてしまうと、

ラットの子が無事に生きていくためには、子としての必要な好みを発達させ、自分と同じ種の仲間を見分けられなければならない。生後15日のラットの子を観察したならば、ラットの子がすでに仲間に対して明白な好みを示しているのがわかるだろう。アレチネズミのような別の種の同じような大きさのげっ歯類といっしょにさせようとしても、ラットの子はアレチネズミを相手にせず、ラットのほうに行く。(中略)当然ながら、これを見て、自然選択がこのような好みを確実に引き出すようにしているのだろうと思う人もいるかもしれない。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

しかし、実際にはこれは遺伝子に組み込まれた本能がそうさせているわけではないのだそうです。

たとえば、生後10日までのラットの子はほかの種の子ねずみでも熱を帯びた円筒でも、ぬくもりを得るために近寄っていくそうです。さらにラットの母親に出産後二週間にわたって人工的な匂いを塗りつけおく実験をしたところ、生後15日に達したラットの子は自然なラットの匂いよりも人工的な匂いを好むようになることがわかったそうです。

このように、ほとんど苦もなくこの好みを人工的な匂いに向けなおせるということは、「ラットが種に特有の好みを示すのは、ラットが種に特有の環境のなかで育てられるからである」ことを実証している。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

しかも、こうした特有の環境における体験が特有の性向を生じさせるのは何も生まれたあとに限ったことではありません。

生まれる前の学習、経験の影響力

子ガモが生まれながらにして母鳥の呼び声を好むという発見が、生まれながらの本能を重視する生得論者には有利な事実のように考えられます。

しかし、行動発生学者のギルバート・ゴットリーブという人は、それが本能であることに疑問を感じ、一連の実験を行いました。
まず、ゴットリーブは「子ガモが生まれながらにして母鳥の呼び声を好む」のは、鳥はまだ卵のなかにいる胚のときから母鳥の呼び声を聞いているからではないかと考え、卵を母鳥から隔離して人工孵化する実験を行いました。卵のなかのヒナに母鳥の声を聞かせなければ、自分の種の鳴き声を聴覚的に好むようにはならないだろうと考えたからです。

ところが予想に反して、卵のなかで母鳥の声を聞く機会を奪われたヒナたちもやはり自分と同じ種の母鳥の声を好んだのだそうです。ふつうならこれで子ガモが示すのは、あらかじめ遺伝子によってプログラムされた本能だと考えるでしょう。

しかし、ゴットリーブはさらに違う実験をしたのです。卵のなかの胚を無性化した上で、母鳥を含むほかの同種からも隔離したのです。ゴットリーブの仮説はヒナは卵のなかで自分の声を聞き、それが同種の鳴き声への好みにつながるのではないかというものだったのです。

実験の結果は、ゴットリーブの仮説どおり、無性化されたヒナはマガモの母鳥の声とニワトリの声を聞き分けることができなかったそうです。しかも、それだけではなく、通常の聴覚経験を失ったヒナたちは成長しても、近くの発達がほとんど阻害されてしまったそうです。

学習や経験の力をなめてはいけない

ここに紹介した2つの例以外にも、この本にはこれまで本能だとか、生得的な性質と考えられていたものが、いかに種ごとに特有の環境における学習や経験によって発達の早い段階で形成されるものであり、それゆえに生まれつきもっていたかのように誤解されがちであるかという事例が数多く紹介されています。

あらゆる複雑な行動は下位行動からなっていて、その下位行動はそれぞれ発達の各段階で、しばしば見えにくい形で引き起こされる。つまり、DNA、細胞、行動、そして私たちの身体的、社会的、文化的環境が、絶え間なく、能動的に、リアルタイムで相互作用して、多くの人の目には神や遺伝子のデザインの産物と映るような行動を生み出すのである。もちろん進化は複雑な行動の出現に重要な役割を果たしているが、それは遺伝子に働きかけることによってではなく、発達の多様体まるごとを選択することによって影響を及ぼしている。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

自然選択説による進化のしくみを組み立てたダーウィンにとっては何らかの遺伝があるだけでよかったわけですが、どういうわけか今では遺伝子だけが遺伝をつかさどる唯一のものであるかのように誤解されています。

ハツカネズミやアレチネズミのオス/メスの産み分けの例では、母親の懐胎期間中の環境がオスかメスのどちらを多く生むかという性質を次世代に受け継いでいく、遺伝子によらない遺伝の例も紹介されています。

そして、当然、本能だとか生得的な性質がこれほどまでに当てにならず、「結局のところ、私たちは種に特有の特徴と行動をさまざまに備えた独特の種である」とすれば、

もし人間の本質を探すなら、私たちは幼児のときには這い、その後は直立して歩き、ほかの指と向かい合わせにできる親指をもち、毛皮はなく、比較的大きな脳をもち、ふつうは一度に一人の子を生み、咽頭がのどの非常に低い位置にあることもあって声を出すことができ、体系は独特で、優れた視覚と比較的弱い嗅覚をもち、作動記憶におよそ7つのことを同時に記憶でき、記号の扱いに熟達し、言葉を使うといった、種々のことがらを考慮しなければならない。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

そして、そうした特有の性質を発達に応じて獲得する人間は、同時に自分たちでも環境を大きく激変させる力をもっており、そのことでさらに環境から影響を受け続けている種であるということも。

こんな本なので、いままでも考慮していた人間とモノ、そして、外部環境のもたらす相互作用というものを、より考慮してデザインなども考えていく必要があるなと感じずにはいられません。
新たにデザインされたモノが新たなニーズを引き出すのも、こうした相互作用があり、人間もほかの生物同様、非常に学習能力が高い生き物なのだからだと思います。

学習や経験の力をなめてはいけない。
人がもつ高い学習能力や経験の力が、いまのデザインの評価を決定づけ、また学習や経験の考察が新しいデザインを生み出す力になるのだと思います。

ちょっと話はずれますが、学習嫌いの人や、新しい経験をすることにおじけづいてなかなか行動をしない人が多い気もします(「ふつうの山の登り方」)。
学習すること、経験することこそ、生物である人としての力なのにね。



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posted by HIROKI tanahashi at 01:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 進化論、生物学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
人間で実験してみたいですね。
例えば、父親を無償残業で「子供が経験を得る時期に育児放棄」させるのです。
国を挙げて大々的に。
どんな自分本位な子供たちが育ち、それらが親になる頃、どんな国になるか興味があります。

……ああ、今の奇形国ニッポンがそうでしたか……。
Posted by デュランダル at 2007年07月31日 08:28
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