天才のひらめきのベールの向こうにあるもの

またまた、マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』からの引用で恐縮ですが。

人間は賢く、創意工夫に富んでいて、機転が利き、粘り強くもある。だが、私たちは複雑な装置はもちろん、単純な装置でさえ、ただ問題点に知性を適用するだけでいきなり発明できてしまうわけではない。私たちはそこまで賢くない。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

これは本当にごもっともなんだけど、僕らはなぜか「そこまで賢くない」にもかかわらず、意外と複雑な発明品を知性の産物だと誤解する傾向があります。

いやいや、昨日の「失敗するための時間」でも書いたとおりで、発明者は失敗を通じて成功にたどりつくというトーマス・エジソンの言葉は正しいと思います。
発明までいかないごくごく普通のデザインでさえ、失敗を通じてはじめて「そこそこ」「まあまあ」にたどり着くくらい。成功にたどり着かないのは
世の中、危険だのリスクだのという言葉に過剰反応を示して異常な防衛体制を敷いてる人が多いんだなって昨日知りましたけど、多少のリスクをとって明日に賭けなきゃ、今大事に守ってるその資源も外から奪われたり破壊されたりする前に、内部で腐ったり賞味期限切れになっちゃうんじゃないですか。抗菌グッズに守られた生活じゃ、身体の免疫力が衰えちゃいますよ。

ほんと、これからは「失敗する時間をください。成功するために」っていえる人が普通になってこないとだめかなって思います。

デザイン論の誘惑

さて、話を戻しましょう。

私たちは複雑なものを前にして、その複雑さの起源にさかのぼる道が見つからないと、デザイン論の圧倒的な魅力に取り込まれてしまうのだ。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

ここで言ってる「デザイン論」ってのは、生物の眼のような複雑なものを人工的な生産物(例えば、時計)と比べつつ、そんな複雑なものが自然淘汰なんて行き当たりばったりの仕組みでできるはずがなく、精巧な時計に優秀な時計職人が欠かせないように、動物の設計にもインテリジェント・デザイン(知性による設計)が行われたはずだというロジックの展開を指してます。

ちなみに、インテリジェント・デザイン(知性による設計)に対して、ダーウィンが言ったのはアパレント・デザイン(設計のように見えるもの)です。

で、「失敗するための時間」でも紹介したヘンリー・ペトロスキーさんというフォークやナイフなどの人工的な道具の進化論を研究している人の論なども引用しつつ、この本で指摘されてるのは、いや、そもそも人が行うデザインだって、決して知性のみの産物じゃないよねってことです。

確かにそのとおり。デザインなんて試行錯誤の過程があってはじめて前に進んでいくもの。道具のデザインなんかまさにそうで、ある目的のためにデザインしたものがその目的を達することで、新しい目的=要求を生み出しちゃうこともざらで、結局、当初の目的を達したのに役に立たないことだって多いのです。それはまさに最初には予想しえなかったことです。

その意味でデザインが知性だけで可能になるなんてことはほとんどありません。
だからこそ、プロトタイピング=つくりながら考えることがデザインプロセスにおいては重視されるんだと思いますし。

天才のひらめきのベールの向こうにあるもの

でも、どういうわけか、ブランバーグさんがいうとおり、僕らはよくできたデザインに出会うと、あたかもそれが熟考とともにある優れた知性の産物なのだと誤解してしまったりします。

ネコが門を開けられる能力をどう説明する?-デザインが模倣行為を通じて表れる。
人間の発明の才をどう説明する?-デザインが理性的な行為を通じて表れる。
人間の目の複雑さをどう説明する?-デザインが神の創造の行為を通じて表れる。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

僕らはこれを読んで馬鹿げていると思うかもしれません。

しかし、実際、僕らはいろんな発明品や優れたデザインを前にして、それが突然のひらめきとともにどこからともなく舞い降りたかのような天才の仕事を想像したりしないでしょうか?
それが著名人への謂れもない妬みなんかにつながっちゃうわけだけど、そうした著名な発明品や優れたデザインを行う著名人だって、決してその手の神がかり的なひらめきとかで創造をしてるわけじゃないと思います。
創造性を特別視して、ひとにぎりの人のみが授かった能力と考えてしまう要因もここにあるんでしょうね。

結局、ISO13407の人間中心デザインプロセスにしても、IDEOのデザインプロセスにしても、奥出直人さんが提案してる創造のプロセスにしても、僕らが勝手に天才のひらめきというベールに隠して見ようともしない発明家やデザイナーが実際にやってるプロセスを明示的に示したものなんだと思うんですよね。
それは『ソフトウェアの達人たち』の第9章でドナルド・ショーンが自身が行ってきたデザイナーの仕事の研究から導き出した共通のパターンとも類似するプロセスだったりもします。

結局、そうした本当は誰でも用いることができるデザインプロセスを、勝手に天才のひらめきというベールに隠して見ようともしない人たちって、自分の手をすこしでも汚すのを恐れる人たちなのかもしれませんね。

んー、失敗や間違いのリスクばっかり計算してたって何にもできないのにな。

あ、だから、できてないのか。

  

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