2007年07月23日

教えてもらう? それとも、学ぶ?

昨日も「失敗するための時間」というエントリーでちょっと紹介した、マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』という本を読んでいて、発達心理生物学(行動の生物学的な基盤を発達という観点から研究する学問分野)で行われている、研究のための行動観察ってすごいなって感じました。

動物の行動観察

普段、人間中心デザインプロセスにおけるユーザー調査やユーザビリティ評価の場面で、ユーザーの声を聞かずにユーザーの行動観察を重視した調査が重要だとか言ってますし、実際、そういう調査をやってるわけですが、相手がラットとかだったりする動物の行動観察の話を読むと、僕なんかの調査なんてまだまだ甘いななんて思っちゃいます。

言い換えれば、発達とはアンケート調査に「はい・いいえ」で答えるだけでは実情をつかみきれない複雑な過程なのである。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

だって、僕なんかの調査であれば、ユーザーの声を聞かないと言いつつ観察だけじゃ分からない点は質問はします。でも、ラットが相手じゃそうはいきません。ラットは質問しても答えてくれませんから。

動物の行動観察の場合、本当に観察のみに頼らざるをえない点ですごいな、と思ったんです。

わからないことは教わるのではなく学ぶ

で、同時に思ったのは、わからなかったらすぐ聞けばいいって考えは、自分の勉強という意味ではちょっと安易すぎるよねってことです。

わからないことは人に教えてもらうという姿勢は、学習という意味ではあまりよろしくない態度だと思います。どうよろしくないかというと、それじゃあ、結局、学べないと思うから。

いや、どっかへ行く道を人に聞いたり、何かしら事務的な仕事の手順なんかを教わったりするのはいいですよ。それらは単に情報を暗記すればよい類いのものですから。
でも、情報を暗記すればよい類いのものじゃないものを学習する場合は、わからないことを他人に聞くという学習法は効果的じゃないと思うのです。その場合は教わるのではなく、自分で学ぶという取り組みをしないと身につかないと思います。

本を読むとき、講義を聴くときの学び

それは本を読むのでも、セミナーや講義などで講師の話を聞く場合でも、実は同じだと思います。

本を読むとき、講師の話を聞くとき、そこに提示される話を聞いて知らないことを教えてもらおうと思っているなら、それはあんまり役立たないのではないでしょうか? もちろん、知らない知識が新しく記憶されるという意味ではまるで役に立たないわけではありません。でも、それって単に知識が増えただけで行動にはつながりにくいですよね。それをすぐに何かに生かすってことはしにくい学習だと思います。

そうではなく、本に書かれたこと、講師が話していることから、何かを学びとろうとする姿勢が学習には効果的だと思います。

例えば、本を読んだり講義を聴いたあとに、むずかしくてわからなかったとか、○○のことについてよくわからなかったとかいう人がいます。
そのわからなかったことを自分が発見した問題としてちゃんととらえているならOK。そうじゃなく、講師の説明不足や自分の単なる知識不足としてとらえているとしたら、それはそもそも姿勢として間違ってると思います。

学び=発見

学ぶという姿勢は、言葉を話さないラットの行動を観察して、そこから自分に有意なものを発見することと同じだと思います。学びは発見という経験をするためのものじゃないかと僕は考えます。

本を読んだり、講義を聴いたりして、何がしかの疑問を発見することこそが学びだと思います。もちろん、疑問に思ったことをほったらかしたらダメですけど。

だから、疑問に思ったことは、本や講師に問うのではなく、疑問を発見したのと同じように答えも自分で発見しようとする姿勢が大事だと思います。

その発見の方法が講義のあとに講師に質問するという行動として現れるのはOK。でも、その行動が単に講師に自分の疑問の答えを聞くつもりなら×。
講師に質問したとしてもその答えが自分の疑問に対する自分の発見になったかどうかを問う姿勢が学びには大事なのではないか、と。

学ぶというのは単に情報として知識を取得することではなくて、もっと腹に落ちるような納得だったり、自分の行動に落とし込めるようなカタチで身につけることなんじゃないかと思うからです。
そのためには外から何かを与えられるのではなく、自分の中で何かを生成する過程が必要だと思います。

教えは突然に

教わるより学ぶ姿勢が大事とは書いていますが、学ぶことが大事じゃないと思っているわけではありません。

ただ、僕は自分の経験上からも、教えてもらうっていうのは実はこちら側からの働きかけだけではコントロールできないものではないかと思っているのです。

もちろん、さっきも書いたように道を教えてもらうとか、何かの手順を教えてもらうとか、そういう<アンケート調査に「はい・いいえ」で答える>類いのことは、自分からの働きかけ=質問で答えもらうことは可能です。
でも、自分が学びたいと思っているようなことを教えてもらうのは、質問や講義を聴くだけではむずかしいんじゃないかと思うんです。

僕は、役に立つ教えというのは、実は自分が予測もしていなかったところに突然与えられるものなんじゃないかという気がしています。なんか自分の過去をふりかえってみても、そんな気がします。

でも、これも結局は自分の中に元からあるものに、外からの教えが誘引となり気づかされるだけなのかもしれません。元からあるものというのにも2種類あって、本当に存在するものとしてある場合と、自分の中の不在としてあるものの場合の2つがあると思います。前者は気づかされた時点でOKですけど、後者はその後に学びモードへの移行が必要なんでしょうね。

お手軽で安易な答えに抵抗しなければならない

話は元に戻しますが、それにしても、発達という観点からの動物の行動観察という研究は実はすごく新しい思考の仕方なんじゃないかと思います。

研究者は先入観を捨て、厳密な実験を重視し、名前をつけたからといって説明がついたことにはならないと認め、お手軽で安易な答えに抵抗しなければならない。これほどの複雑さを前にすれば、そうするほかに真の科学的進歩は得られないはずである。
マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

人間中心デザインにおける観察も同じだと思いました。

観察者は先入観を捨て、厳密な調査を重視し、話を聞いたからといって説明がついたことにはならないと認め、お手軽で安易な答えに抵抗しなければならない、と思います。

だって、人間の行動とその経験価値の関係の複雑さを前にすれば、そうするほかに真のデザイン的進歩は得られないはずであるから。



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posted by HIROKI tanahashi at 07:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 進化論、生物学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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