生きていることの科学/郡司ペギオ-幸夫

ずっと前(というのはたぶん今年のはじめ)に読了していたこの本。いまさらながら書評を書く気になったのは、ずっと書評を書く切り口に迷っていたのが、ようやく「情報デザイン」という切り口を見つけられたからであったりします。

世界から受ける受動的な刺激と、私が能動的に創り上げる表象。この二項対立は、モノと言葉、トークン(個物)とタイプ(類)、世界と観測者の対立です。ここにあるのは、もちろん、一方が他方の言葉で置き換えられるような単純な一元論ではないはずです。かといって、まったく無関係で通約不可能な二種類の概念装置が、対を成している、というだけでもない。これら二つの概念装置は、互いにうまい翻訳関係を持たないのに、なんらかの形で関与しあっている-とまぁ、多くの場合、話はここで終わる。それ以上でも以下でもない。
郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』

といった、わかったようなわからないような問題系を対象に展開される、非常に難解(でも、読みやすさはある)本書がどうして「情報デザイン」という切り口で語れるのか?

これまたむずかしい問題をこのエントリーで整理できるかどうかというのが、僕がたったいま関わっている問題です。

部分情報問題

さて、そんなむずかしい問題にかかわろうなんてことを考えてしまったきっかけは、さっき書評を書いた『デザインと感性』の中のこんな一文にあります。

このように問題を定義するならば、これからのインタフェースは「部分情報問題」になるといわざるをえない。なぜならば、インタフェースにかかわる情報はより複雑化して増大する傾向にあり、ユーザーがこれらの多くの知識を個々の機械に対して把握することは容易ではないからである。また、それをユーザーに強要することも不可能であり、それを期待するような設計を、もはや行うべきではない。
土屋雅人「6章 インタフェースデザイン」
『デザインと感性』

ここで言われている部分情報問題というのは、下図左のようなすべての要素(例えば機能要素)が可視化されている状態での問題解決と、一部の要素しか見えていない下図右のような場合とではユーザーの問題解決のための行動は異なってくるという話です。



例えば、昔のような黒電話であれば機能は一目瞭然でユーザーも完全情報問題を解けばよいわけですが、現在の携帯電話のような複雑な機能をもった情報機器では物理的なインターフェイス、ディスプレイ上のインターフェイスのいずれをみてもすべての機能を理解することは不可能な部分情報問題を目の前にすることになるわけです。
つまり、それは「この携帯電話ではいったい何ができるかわからない」といった問題です。

部分情報問題は実は日常的

でもね、この部分情報問題っていうのは実は日常的にいくらでも存在するものなんですよね。

『生きていることの科学』のなかで郡司さんは村上龍の『13歳のハローワーク』を例にあげてこんなことを書いています。
『13歳のハローワーク』というあたかもあらゆる職種がカタログ的に網羅された全体像を提示しているかのような本を前に「どの仕事を選んでいいかわからない」とたじろいでしまう若者を前にこんなことを書いているんです。

本来、選ばれるべき多様な職種は、すべて見渡せるわけではない。その多様性は可能性じゃなくて、潜在性なんだ。選択する主体は、多様性と個物の関係すなわち事前と事後を結ぶ時間を創り出しつつ、同時に時間の中に生きている。事前と事後を結びつけるのは、生身の質量を伴う「わたし」のはずなんだ。でも「わたし」は、観測主体であり、観測の装置なんだよね。「わたし」という装置が質量性を持つことで、事前と事後が必然的に結びつく。
郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』

つまり、カタログ的に網羅された全体情報問題というのは実は潜在性であって、「わたし」という一人称の観測装置からすれば可能性に必ずしも直結した問題ではないわけです。
可能性の側からすれば「わたし」が生きる現実の時間において選択可能な部分があるだけで、実はそこで見えない=潜在的な全体を夢見たところで具体的な行動には結びつくことはないのです。

そうではなく「わたし」という装置にとってはむしろ目の前に見えている選択可能な要素に対して、選択の事前から具体的なアクションによって事後へと移ることで、別の選択肢が見えてくる。実はそういう目の前の選択肢がすべてであり、そこから選び取るという行動が、日常において一般的な人間の行動であることを、網羅的な完全情報問題の提示は忘れさせてしまうわけです。

ロボットの「痛み=傷み」

しかし、僕たちが「わたし」という質量性をともなう肉体を介して行っている事前における部分と事後において後ろをふりかえった場合にみえる全体の結びつきは、実は事前における一人称的な見方と事後におけるある意味自身の行動を客観視した上での三人称的な見方が混在することが成立しています。
そして、この本来結びつきにくい両者を結び付けているのが「わたし」という質量性をともなう肉体の介在であり、その肉体が事前から事後へ移る過程で感じる「痛み=傷み」という体験だと郡司さんは考えているようです。

そのことを郡司さんはロボットの「痛み=傷み」として考察しています。

具体的には、ロボットが飛んでくるボールを捕球する際の(1)ロボットはカメラを通して空中を飛ぶボールを認識する、(2)ボールの落下位置を推測しそこに移動してボールをグラブにあてる、(3)グラブに収まったボールの衝撃を吸収するようグラブを引き捕球する、という3つの動作を、ロボットが一連の作業として認識できる(意識できる)ためには何が必要かの考察です。

第3の動作は衝撃を緩和するためにグラブを引くことだから、ボールをグラブに当てて、ボールの衝撃を検知することが、第2の動作には要求されるよね。このとき、ロボットは観測をするわけだけど、自分自身が観測装置ってわけだ。観測装置にボールがぶつかってくることで、観測装置自身、ダメージ(傷み)を受けるかもしれない。ダメージを受けちゃったら、何を計測しているかわからないし、正しい値を測定したかどうかも怪しくなる。
郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』

このため、ロボットは衝撃を感知しつつ、自分自身に衝撃のダメージがないかをチェックすることが必要となります。
しかし、それはむずかしい。ボール、観測主体、その間の衝撃という内包的な考察と自分自身という内面の全体における傷みのチェックという外延的な考察は同時には行えないはずです。しかし、ロボットはそれをやってしまうと仮定するしかない。僕ら人間がふつうにそれをやっているのと同様にロボットにもその不可能を期待する以外に、第2の動作と第3の動作をつなぎあわせることはむずかしいのだから。

「痛み=傷み」を感じるから、おのずと次の動作に入っていけるわけで、それがないと第2の動作と、第3の動作は分断される。もちろんいま痛みを無視するとき、内包(観測)と齟齬をきたす外延(マテリアルとしての記憶)も無視されるから、第2の動作は、第1の動作とも分断されることになる。
郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』

「ボールの捕捉の例では、痛いから、思わず手を引いてしまったという、その動作自体が、未来でしなければならない動作だったわけだよね」。ここでは郡司さん自身が言及しているようにギブソンのアフォーダンス理論との接点があります。

予期としての知覚

ここにおいて最初の引用における「これら二つの概念装置は、互いにうまい翻訳関係を持たないのに、なんらかの形で関与しあっている」という話が終わらずに先に進むことになります。

環境の意味は、全面的に世界に備わっているわけでも、全面的に知覚する者が探索するわけでもなく、ゆるくつながっている、ってことを意味する。その世界の知覚の仕方って、予期なんだと思う。
郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』

携帯電話などの複雑なシステムにおいて部分情報問題が問題になるのは、この予期としての知覚をインターフェイスが誘発しないことに起因するのでしょう。そして、それは「痛み=傷み」のような主体にとって価値のある経験をあたえる情報の欠如があるからだと考えられます。
『13歳のハローワーク』をみた若者は、みずから「痛み=傷み」をともなう行動を起こさない限り、未来の予期につながる選択を享受できないのです。これは「ペルソナは一人では歩かない。」でも触れているような体感をともなう学習の話でも同様ですね。

情報デザインをこの肉体性=質量性から切り離してしまうことにこそ問題が生じるのだと思います。
僕らに必要とされてているのは、「痛み=傷み」を感じないロボットをつくることではなく、「痛み=傷み」を感じさせるインタラクションシステムをつくることなのですから。

このことは情報デザインを考える上で非常に大事なことではないでしょうか?
僕らは単に情報だけをデザインするのではなく、僕ら自身との関係においてしか情報をデザインすることなんてできないはずですから。



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