周囲の影響を受けない堂々とした人間とかいいますけど、そんなの嘘っぱちだと僕は思っていて、実はそういう人は臆病な自分を知っているから、まわりの影響を受けそうな場には石橋を何度も叩いても出て行かず、自分の安心できるフィールドの堅牢な壁のなかでだけ発言、行動をしているからそう見えるだけです。
そういう自分をもった人がよいみたいな風潮は昔からありますが、それがよいのは自分の安心できるフィールドで他人から影響を受けにくい形で行動を起こしたほうが成功しやすいというだけで、実はヒトというものはそもそも他の動物同様に生きるために周囲の変化に敏感で多感な生き物であることを理解した上で、外のフィールドで成功をつかむ方法を確立できる人が増えれば、そんな風潮もなくなるのでは、と思ったりします。
ヒトは繊細で多感な生き物だから
そんな風に、ヒトは繊細で多感な生き物だから、最初は他人事のように思える事柄でも、その状況に長く晒されていたりするといつしか他人事の見えた状況に影響され、そこでの自分の立ち位置がほかでもない自分自身の問題として意識されてきます。そして、傍目で見ていた他人事の状況がしばらく経って変化したとき、すでに自分の問題にもなっているその変化で、最初はただの「まわりの人」だった人さえその変化に激しく動揺を覚えるようになります。
だから、組織のなかではたったひとりの問題でも放置しておく時間が長くなればなるほど、影響を受ける範囲が広がっていき、気づくと組織の多くの部分をゆるがす問題にさえなりえます。
そういう繊細で多感な生き物であるヒトを知っていないと、小さな変化のはずがとんでもない影響をもたらす変化を起こすことにもなってしまいます。
時間が長引けば長引くほど影響範囲は広がります。
すこしの変化をまわりのいろんな人がそれを受け入れるために自身やまわりの人の行動を調整します。
そのたくさんの人の調整が新たな環境をつくりあげ、しばらく変化がなければその新しい環境に安住する。そこで最初の人の問題解決のために、1ヵ月後、2ヵ月後に最初より大きな変化をしようものなら、新たにつくりだした環境を壊された人々の不快さはとてつもなく大きくなるでしょう。
外界の変化とヒトの認知
外界の変化にヒトは繊細で、かつ多大な影響を受けながら生きています。外界の情報に多感でなければきっとサバンナでは生き残れなかったからなんでしょう。だからこそ、ヒトは外界の情報をうまく使って生きる術を身につけたのでしょう。
認知科学の研究で「創造活動支援」に関する研究があるそうです。
一般の人工知能研究では、なんらかの知能モデルをつくりコンピュータ上で実現することでモデルの正当性を検証するという手法をとります。
しかし、この方法では外界の情報そのものに新しいモデルを見出し、知能モデルそのものを変化させるヒトの認知方法を理解することができません。
創造活動支援の研究は、それとは一線を画することになる。なぜなら、この仮説は、創造的認知プロセスというものが先にあって、それをまねしたり支援したりするツールを作る、という人工知能研究と同じような研究方法が不可能であることを意味するからである。ツールを作って使ったとたん、認知プロセスそのものが変化してしまうのである。したがって、先にプロセスを作って、それに合ったツールを提案する、という方法は取れないことになり、ツールを作って使ってみては、認知プロセスの変化を観察し、その結果を受けて、またツールを作り直してみる、という試行錯誤のループを繰り返さざるをえないことになる。理想的には、それらの繰り返しの結果、人間の認知プロセスとツール使用の効果の全体を包含したモデルの構築をめざす、ということになるであろう。堀浩一「創造性」
大津由紀雄、波多野誼余夫 編『認知科学への招待―心の研究のおもしろさに迫る』
ここで引用されているようなツールを使った創造における場面以外でも、外界の変化とその認知によりヒトは「試行錯誤のループを繰り返さざるをえない」。
最初の小さな変化は徐々にまわりに波及していき、長い時間をかければかけるほど、最初に意図していたようなことを実現する可能性は低くなります。
最初に意図したときと状況は大きく変わってしまうから、そこでは意図の前提となった考えそのものが成り立たなくなるから。
繊細で多感な生き物であるヒトを相手にしているとそういうところは無視できません。
ユーザーテストにおけるアイトラッキングの位置づけ
ユーザーテスト時にアイトラッキングツールを利用する企業が増えてきているようですが、アイトラッキングツールの利用にも一長一短があります。そもそもユーザーテストとは別にアイトラッキング法なるものがあるかのように誤解している人までいたりします。
そうではなく、ユーザーテスト法があってのアイトラッキングツールです。
もちろん、アイトラッキングという道具の使い道は他にもあるでしょうけど、それはそのベースとなる手法のなかでアイトラッキングという道具をどう使うかという話であって、道具であるそれを極端に独立させてものを言うのはどうかと思います。
まぁ、電子レンジ調理法みたいなもんですね。っていうか、その前に料理だろ、と。うまいものをつくれなきゃ意味ないでしょって話。
で、アイトラッキングツールを無闇に使ってしまう障害は、調査をする人が本来存在しないものを本当にあるかのように誤解してしまうことです。
アイトラッキングツールを用いて計測したユーザーの視点の動きなど実際には存在しません。アイトラッキングツールはユーザーの注視点だけを拾っているわけで、でも、実際のユーザーは注視点だけを見ているわけではないということです。注視点だけ見るなんて器用な真似ができるヒトなんてどこにも存在しません。
もうひとつの障害はそのどこにも存在しない注視点データだけを見て、本来のユーザーテストでは当然見ているはずのユーザーの行動とWebのインターフェイスなり、製品のプロトタイプなりとのインタラクションが見えなくなってしまうことです。アイトラッキングツールで視線の動きのデータがとれていることに安心してしまって、そのほかのユーザーの行動、文脈にフォーカスすることができなくなってしまったりします。
まったく本末転倒ですよね。ユーザー行動とデザインされたもののインタラクションにフォーカスせずにいったい何のデザイン評価をユーザーにわざわざやってもらっていることになるのでしょう?
それもヒトという生き物が外部の環境の変化に影響を与えられやすい生き物だからでしょう。調査を行う人も気をつけないとアイトラッキングツールが見せる仮のユーザー視線の軌跡に簡単にまどわされてしまうのですから。
ヒトをちゃんと見ないと
だから、ユーザビリティやユーザーエクスペリエンスに関わっている人にはぜひともツールや手法ばかりこだわるのではなく、ちゃんとヒトを見てくださいと言いたいです。極端な話、ヒトは繊細で多感な生き物なんだと理解してさえいれば、実は特にユーザビリティに関する手法やツールなど知らなくたって、問題は見えてきます。
いかにヒトに対する思い込みを捨てて、生物としてのヒト、動物としてのヒト、身体をもった人、外界との関係性のなかで生きるヒト、社会や歴史、個人の生い立ちという文脈のなかで生きるヒトそのものを見ることができるかです。
それには何よりまず自分がいかに何も見えていないかを知ることです。アイトラッキングなんて機械を頼りにしてしか見えていないもののもっと向こうに実際のヒトの行動はあるのだということを知らなくてはいけないのだと思います。
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