形式知と暗黙知(っていうか直接話をきいてやれ)

確かにWebとかで遠く離れた人とか、なかなか直接話ができない人と文章情報などの共有には便利になりました。
でも時々、その便利さを勘違いしてる人がいるように思います。

形式知と暗黙知

あのね、文書にできる情報、言葉に書き出せる情報ってごくごく限られてるわけですよ。
なんでもかんでもWeb上で情報共有できると思ったら大間違いです。
(ごめんなさいね、今日はちょっとキレたモードですので、言葉が強すぎるところもあるかもしれません。そのあたりはごめんなさい。)

よく形式知と暗黙知っていう区別がされますよね。言葉として形式化できる知識と身体で覚えているために形式化がむずかしい知識があるわけです。

で、当然ながらWeb上に情報として載せられるのは形式知のほうだけです。それは暗黙知が言葉にだせないというよりもコンピュータの計算的思考では表現できない生物特有の記憶の仕方がされているからで、その記憶のされ方はまだ解明されていない。とうぜん、解明されていないものがコンピュータ上で動くわけがない。それくらい、わかりますよね?

Web上で情報共有とか言う前に、近くの人なら直接話をきいてやれ

でさ、それでも、はじめに書いたとおり、遠く離れた人とか、なかなか直接話ができない人なんかと近況をやりとりしたり、たがいの知識を交換したりする上で、たとえそれが形式知のみのいわゆる情報共有に限られたとしてもないよりはずいぶんいいので、Webってのは価値があると思います。

でも、その便利さになれたからといって、目の前にいる相手と直接話をしようとせず、Web上での情報共有とかを重視する姿勢ってどうよ?って思いませんか。

いや、Web上で形式知をログとして残すことは必要ですよ。Wikiとかブログとかあるといろんな人に情報の共有ができて便利ですよ。それを否定する気なんてさらさらありません。

そういうことを言ってんじゃなくて、なんで目の前の人と話をしないんですか? 話を聞いてあげようという姿勢を見せないんですか? ってことです。
そういう便利な情報共有の前にやることありますよね。便利さの前には、便利さを共有するための人間関係を相手とのあいだに築くってことが前提として行われてないと、せっかくの便利さだって無駄ですよね?

Wikiとかブログとかがダメだって話じゃなくて、まずは目の前にいる人と話をする場を持ちましょうということです。話をすることが重要であって、むしろ、中身なんてなくてもいいくらいです。気持ちがちゃんと入っていれば。

いや、そんなにむずかしい話じゃなくて直接話をすることで、言葉以外に伝わる情報や価値ってあるわけじゃないですか。なんでそういう直接のコミュニケーションをとろうとせずに、Web上に情報を掲載することばっかりを他人に要求するのかってことです。

情報共有の前に、雰囲気の共有、場の共有

もちろん、僕自身だってこんなにえらそうに書くほど、ちゃんとそういうことができてるかっていうと自信はありません。でも、できるだけ、まわりの人に話しかけてあげてそこから直接的な情報共有以外の雰囲気の共有ができればって思って、そうすることを心がけてます。具体的な情報の共有の前に、普段いっしょのオフィスで仕事をする上での基本的な場の共有ができればって思うんです。
でも、それはえらそうに言うことじゃなくて、当たり前にやれればいいなと思うことです。

そりゃ、若い新入社員がなかなか上司に話せなくて、ついメールとかだけで済ませちゃおうとかいうのはわかりますよ。
でも、ある程度、キャリアをもった人が自分のまわりに対してそんな態度じゃ、まわりは疑問を抱きますよね。
だって、人としてヘンですもの、その姿勢は。

身体が知るもの、感じるもの、覚えるもの

で、ここからはちょっと小難しい話にするので、読み飛ばしてくれても結構です。

そもそも、なんで人間中心のデザインの分野、ユーザビリティが問われるインタラクション・システムのデザインの分野で、そのデザイン・プロセスの上流工程にフィールドワーク的手法、観察重視のユーザーの利用状況やニーズの理解が必要とされているかって話です。
なぜアンケート調査やグループインタビューなどのテキストベース、会話ベースの調査法ではなく、観察重視の調査法を行うことが重視されるかってことです。

それはね。人が普段は自分でも意識せずに行っている行動、いわゆる記憶の分類における身体に染み込んだ記憶である「手続き記憶」に関することが、使いやすさのデザイン、不満を感じさせないデザインを行う上では、理解することが必要だからです。
プロスポーツ選手がなぜ何度も同じフォームを繰り返し練習するのか。頭ではわかっていても身につかないものを反復練習によって会得しようとしているのですよね。実際のゲームの最中に頭で考えてから動くのでは完全にタイミングを逃してしまうのですから、それは身体に覚えさせておかないとどうにもならないのでしょう。

わからないこと、言葉にしにくいものにフォーカスする

そして、プロのスポーツ選手ではなく僕らだって、普段の生活をスムーズにするにはいちいち当たり前の行動をするのに頭で考えてから行動するのではややこしくてしょうがありません。そんなんじゃ、道具の使い勝手以前に自分の身体の使い勝手そのものが悪くて生きていけません。

先のエントリー「ヒトが使う道具のデザイン:ドーキンスの「延長された表現型」」「ヒトが使う道具のデザイン2:ドーキンスの「累積淘汰」」で、道具を身体の延長線上にあるものとして捉え、そのデザインにおいて進化論がたどった累積的淘汰を参照することを提案したのも、ユーザビリティを考える上ではそうしたわかりにくく、言葉にならない身体知、暗黙知にそれがどんなにわかりにくく、言葉にしづらくてもフォーカスをあてないかぎり、どうにもならないからです。

あなたのために、まわりのために

それにはテキスト情報だけに期待し、ごくごく身近な人にさえ話しかけられないような姿勢じゃまったく話になりません。自分が話しかけてもらうことばかりを期待していたらまったくお門違い。

っていうか、普段目の前にいる人に話しかけることもできないなんて、どんだけビビリやねんって話かな。
いや、そうじゃなくて本当にびびってるなら、自分のためにならないから今すぐに臆病さに打ち勝って、目の前の人に話しかけるべきです。
プライドとかそんなの、その場合、なんの価値もないし、まわりがそんな完璧なあなたを期待しているわけがないんですから、もっと気軽に話をすればいいんです。
それが結局、あなたのためですし、まわりの人のためです。
それができないとあなた自身が大切にしてるものまで失ってしまうかもしれません。そんなことになるような馬鹿なことはしないでほしいと本心で思うのです。

いや、これは冗談抜きでこれからビジネスの世界においてはとても大事になってくるスキルなんだと思います。

これからのビジネスにおける身体知や暗黙知の価値

これまでのテキストベース、ドキュメントベースの世界から明らかにビジネスの世界も身体知や暗黙知の価値が重視されてきます。
だって、そりゃ当たり前だよね。テキストベース、ドキュメントベースの知識は逆にWeb上でいつでも検索可能になり、その相対的な価値はどんどん下がるわけですから。
そんなコンビニエンスなものより、なかなか手に入れにくい希少性のある身体知や暗黙知の価値が高まるのは経済的に当たり前のことですよね。

そのとき、Web上のスペースのみでのコミュニケーションしかできないならアウトですよ。ましてや、形式知と暗黙知の違いそのものがわからず「情報共有」なんてものが本当に可能であるなんてことを信じているなら、もう無理です。
Webの業界で働く人こそ、このあたりの危機感はもっている必要があるでしょうね。

 

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この記事へのコメント

  • p-nix

    いまさらコメントですみません。暗黙知に関して抱いている疑問は正しいと思います。本来マイケル・ポランニーが暗黙知の対象としたのは歴史的な発見をする科学者などの脳内で何が起きているのかを明らかにしよう、という方向性なので決して巷で言われている業務フロー、制作フローを「見える化」しましょう的なものとは異なります。日本語に翻訳され広まるうちにねじ曲がったんでしょうか。
    さらにポランニーは発見には感覚、技術などが必要と言っています。上述のプロスポーツ選手の話に通じるものがあると感じました。ですからかなり筋の通った主張だと感じました。ポランニーに関しては、
    http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1042.html
    が詳しいかと。
    2007年07月21日 02:00

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  • Weblog: My Image Ltd.
  • Tracked: 2007-08-01 20:17