ヒトという生物は、もともと遺伝子によって表現可能な型にある程度制約を受けており、また、表現されたものを使う際にはさらに別の制約があるのだと考えました。つまり、その二重の制約の公約数がいわゆるユーザビリティやユーザーエクスペリエンスの面から見た際のよいデザインになりえるのではないかと考えたわけです。
死んでいる方法は生きている方法よりいろいろある
ここで再び、ドーキンスの著書から引用しましょう。昨日も書きましたが、僕はドーキンスのダーウィン的な進化論に関する著作をつねにデザイン論だと思って読んでいます。飛んだり、泳いだり、樹から樹へ飛び移ったりなどなど、生きるための方法が数多くあるというのはそのとおりである。しかし、たとえ生きていく方法がいろいろあるにしても、死んでいる方法(もしくは生きていない方法)にはもっといろいろあるというのは確かである。あなたが10億年ものあいだ何度も何度も繰り返して細胞をでたらめに寄せ集めても、飛んだり、泳いだり、穴を掘ったり、走ったり、ほかの何かをしたりする大きな塊は一度も得られないだろうし、悪くすると、自らを生きたままに保っておけるとわずかにでも思われる塊すら現れてこないだろう。
「僕らが10ヶ月ものあいだ何度も何度も繰り返して素材をでたらめに寄せ集めても、使って不満のない道具、使い勝手のよい道具は一度も得られないだろうし、悪くすると、これは使えるとわずかにでも思われる道具すら現れてこないだろう」。
幸い、僕らには記憶や学習といった認知科学が扱うような機能が備わっているので、何も既存の成果を参照せず「素材をでたらめに寄せ集め」るようなデザインの仕方はしません。基本的にはすでにあるものを参照しつつ、その悪い面を改善しようとデザインを行います。
しかし、その場合でも元にあるデザインとそれが使われる場面でのインタラクションに関する理解が十分でなければ、改善のつもりのデザインが返って道具を使えなくすることもあるでしょう。
死んでいる方法は生きている方法よりもっといろいろあるのです。
使えないデザインも使えるデザインよりもっといろいろあるのです。
先の二重の制約がなければ、僕らが使えるデザインに出会う確率は異常に低いというか、ほとんどなかったのだと思います。ただ、幸運にも二重の制約が昨日も書いた14種類の道具を僕らに見出させてくれたのでしょう。
遺伝的空間におけるランダムな飛躍
ふたたび別の箇所から同じ指摘がなされている文章を引用します。いろいろな死んでいる方法の数は、いろいろな生きている方法の数よりはるかに多いのだから、遺伝的空間のなかで大きくランダムに跳躍したときに死にいたる見込みはきわめて高い。遺伝的空間におけるランダムな飛躍はたとえ小さくてもやはり死にいたりやすいだろう。
ここでの指摘は先の「でたらめに寄せ集め」るという表現から「ランダムな飛躍」という表現に変わっているのに気づくでしょう。
ここでドーキンスが「ランダムな飛躍」という表現を使っているのには訳があります。ここでのドーキンスはバイオモルフという進化シミュレーションを使って議論を進めているからです。
このシミュレーションでは子の世代は親の世代から1段階だけ常に変化する。そして時々、ランダムに突然変異が起こることもシステムには組み入れられている。とはいえ、どんな突然変異を経ようと親と子の違いは1ステップで可能とされる分岐が1回だけ起こるだけである。その違いは大きくはなく、予測可能な範囲でしかない。
しかし、それが100ステップも繰り返されると最初の世代と100世代後のそれとは大きく異なるし、どんな突然変異が途中で起こったかにより、100ステップ後の世代同士も大きく異なるデザインとなっているのです。
ランダムな跳躍=自殺行為
この100世代後の可能性がどれだけあるかを考えてみてほしい。1ステップ後は2通りで、そのまた1ステップ後は4通り、さらに3ステップ目では8通りの可能性となります。つまり100ステップ後は2の100乗通りのデザインの可能性があるわけです。
この2の100乗通りのデザインのどれか1つに「ランダムな跳躍」による一飛びでたどりつける可能性は0に等しいわけです。
バイオモルフというシミュレーション生物であれば無駄であるとはわかっていても何度も繰り返し「ランダムな跳躍」をしても害はありませんが、これが本当の生物であればそんなことは不可能です。一気に「ランダムな跳躍」で大きな進化を遂げようとすれば、ほとんど成功の見込みがないだけでなく、生きている方法よりはるかに多い数だけ存在する死んでいる方法にたどり着く可能性が大きいからです。つまりそれは自殺行為以外のなにものでもないわけです。
デザインの歴史における累積淘汰
ランダムな跳躍は自殺行為でも、1ステップごとに小さな進化を累積していく形での累積淘汰でなら、100ステップを経た後に優位なデザインの違いにたどり着け、かつうまく生きている方法を維持できている可能性は非常に高いわけです。なぜなら1ステップごとの変化では親の世代と子供の世代では大きな違いはない。親が生きていられるなら子供も生きていられる可能性は「ランダムな跳躍」の場合と異なり、とても高いわけです。
それでも進化の仕方によっては死んでいる方法を選ぶような変化が起こることもあるでしょう。しかし、「ランダムな跳躍」によってほぼ確実に死んでいる方法を選ぶしかない場合と比較すればはるかに安全なリデザイン手法と呼べるでしょう。
ここで道具のデザインの話に話題を変えます。
既存の道具のデザインを改良するのはバイオモルフを1ステップ進ませることに近い。つまり累積淘汰の手法です。この場合、淘汰圧は既存の道具に対する利用者の評価がそれとして機能するでしょう。
一方でこれまでなかった道具を既存の道具を参照することなく、0からつくりあげようとしたらそれは「ランダムな跳躍」を行うことに等しく、その方法で使える道具ができる可能性はかなり低いでしょう。
仮にデザインした人にとってはある用途に使えるまったく新しい道具をデザインすることができたとしても、その用途が何かも知らず、かつまったく見たこともない道具を他の人が使えるかどうかはわかりません。
もちろん、物理的な道具にはそれなりのアフォーダンスが自然に生まれる可能性はありますから、単純な道具であればなんとか使えるかもしれません。しかし、それがなにかしらの電子機器のような複雑さをもったものであればほぼ使える可能性は0でしょう。
パンの歴史を見ることからトースターのデザインをはじめる
以上のような意味で、僕は道具のデザインも累積淘汰的でなければ使えるものにならないと考えています。それは使える道具には、生態学的な意味でのアフォーダンス、道具そのものの歴史、そして、社会的なコンテキストにおける道具の位置づけが必要であるということです。普段、僕らが何かをデザインしようというとき、このような意味で自分たちがデザインしようとする道具に対する理解からはじめることは稀なのではないでしょうか?
でも、だからロクなデザインができないんですよ。
「僕たち、普段、デザインしてないんじゃない?(デザイン・プロセスのデザイン2)」でも引用しましたが、IDEOのデヴィッド・ケリーは言ってました。
ある企業がやってきて、「新しいトースターをデザインしてもらいたい」と言ったとします。私は「パンがどうカリカリになっていくかを研究しましょう」と答えるでしょう。相手は「いや、トースターのデザインをお願いしているんです。さあ、始めて下さい」とくる。トースターが何であり得るかという彼らの想像の世界は、狭いのです。しかしわれわれは、「われわれの仕事は、パンの歴史を見ることから始まるんです」と返事をする。デヴィッド・ケリー「第8章 デザイナーのスタンス」
テリー・ウィノグラード『ソフトウェアの達人たち―認知科学からのアプローチ』
成功するデザインはごくほんのわずかでしかありません。失敗するデザインはそれこそ無数にあります。そんな状況でデザインを成功に導きたければ、パンの歴史を見ることからトースターのデザインをはじめる必要があるんですよね。
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