ヒトが使う道具のデザイン:ドーキンスの「延長された表現型」

すこし前に「サーフェスの変形だけが人生である」というエントリーで、『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』からこんな文章を引用しました。

たとえば、化粧や料理はサーフェスにあるもともとの意味を残しながら、その意味を強調するというレイアウトの修正です。強調しすぎれば仮面のようになってしまったり、食べられなくなってしまいます。創造というべきか発見というべきか、われわれは、サーフェスのレイアウトを変形しレイアウトの5種類の性質を使って、サーフェスに新しい意味を作っている。

ヒトは「平坦性」「閉じ具合」「引き延ばされ具合」「サーフェスの結合の仕方」「囲い方」という5種類のレイアウトの性質を使って、新しい意味をつくりだしています。新石器時代から何万年も。
おなじエントリーでは、アメリカの生態心理学者であるエドワード・リードによる、新石器時代からの人類の何万年かの歴史のなかでヒトの周囲にあった14種類のもののリストも紹介しました。

  • 容器
  • スポンジ
  • くし
  • 叩き切るもの
  • 楽器
  • ひも
  • 衣服
  • 装飾品
  • 尖ったもの
  • 縁(へり、edge)のあるもの
  • 顔料
  • 寝床

つまり、これはヒトが何万年ものあいだ、使ってきた道具のリストです。
ヒトはこれら14種類の道具を5種類のレイアウトの性質を使ってひたすらつくりつづけてきたのです。

そして、おそらくそれはいまのようにデザインすべき道具の種類が増えても変わっていないのだと思います。ヒトはあいかわらず5種類のレイアウトの性質を使って道具をデザインし続けている

その際、僕が思い起こすのは、『利己的な遺伝子』などの著書で著名なダーウィン主義進化生物学者、リチャード・ドーキンスの「延長された表現型」という考え方です。

ドーキンスが扱うのは「生物全般の側からみたデザイン」だと思う

このブログでドーキンスを取り上げるのは久しぶりです。以前はこんなエントリーでドーキンスの進化論に関してはよく取り上げていたのですが。


僕がリチャード・ドーキンスの本に惹かれるのはいまも昔もそれがデザインに関わる本であり、しかも、ヒトを含めた生物全般の側からみたデザインに関する話が行われているからです。

延長された表現型

「延長された表現型」という考え方もドーキンスの同名の著書で紹介されているものです。僕は残念ながら『延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子』自体は未読ですが、それがどういうアイデアなのかは『祖先の物語 ドーキンスの生命史 上』のなかで知りました。

ドーキンスはビーバーのつくるダムを例にして「延長された表現型」というコンセプトを説明してくれています。

一方における血と肉と骨でできた尾と、他方におけるダムによってせき止められて谷間にできた止水塊に対して、いったいどうやって同じ言葉を使うことが正当化されるのか。その答えは、どちらもビーバーの遺伝子の顕示であるということだ。どちらも、そうした遺伝子を存続させることが、ますますうまくできるように進化してきた。どちらも、よく似た発生学的な因果の連鎖によって発現される遺伝子と結びついている。

つまり、ドーキンスが「延長された表現型」というコンセプトで言いたいのは、ビーバーの尻尾などの身体も、ビーバーがつくるダム、それによって生まれる小さな湖も、まったく同等の意味でビーバーの遺伝子によって生まれているものだということです。

解剖学的な現象も行動的な現象も遺伝子による表現

「延長された表現型」というのは、まさに身体から延長された表現であるダムや湖も、身体が遺伝子の表現であるのと同じ意味で、ビーバーの行動を通じて生み出される遺伝子による表現であるということです。

こうした説明を聞くと、身体が遺伝子の表現であるというのと、その行動によって外部の物質を使って生まれる表現は別物だろうという考えが必ず頭に浮かんでくるでしょう。
実際、僕自身、この説明を読むまではそうイメージしました。

遺伝子の「直接の」効果を問題にするかぎりでは、解剖学的な構造が行動的な構造を上回る特別な地位をもつことはない。遺伝子は「本当は」あるいは「直接的には」、タンパク質に対する効果か、あるいは他の直接的な生化学的効果しかもっていない。解剖学的な現象であれ、行動的な現象であれ、その他のすべての効果は、間接的である。しかし直接と間接の区別は無意味である。ダーウィン主義的な意味で問題なのは、遺伝子のあいだの違いが表現型における違いに翻訳されることである。それこそ、自然淘汰が関心をもつ唯一の相違なのである。

たしかに身体の表現もしょせん遺伝子の間接的効果でしかありません。もっといえば性格や頭のよさなんてものは間接的効果以外のないものでもないでしょう。じゃあ、それと外部の表現とどう違うのか?
さらにはじめに紹介したヒトが何万年も「14種類の道具を5種類のレイアウトの性質を使ってひたすらつくりつづけてきた」という事実だったり、ビーバーが誰に教えてもらうわけでもなくダムをつくり湖を生み出すことだったりと、身体が同じような表現になったりするのとはどう違うのか?ということです。

おそらく、ドーキンスのいうことは大方正しくて、それは同じように遺伝子の表現型と考えたほうがすっきりします。

人間中心の道具のデザイン

そんな風に考えると、ヒトが生み出す道具のデザイン=表現型ってある程度は決まっているのではないかと考えられます。

でも、完全には表現型は決まっていなくて、というのも、遺伝子は表現の型を完璧に指定するわけではなく、あくまで間接的に関与するだけです。そこには表現型がゆれる分だけのゆとりがある。それがヒトがデザインする余地となっているわけです。

しかし、ヒトに残されたデザインの余地が必ずしもヒトにとって良いデザインに利用できるとはいえません。いや、ほとんど余地は道具を使うヒトにとっては無駄な余地です。
すなわち、使えないもの、使いにくいもののための用意された余地であり、道具を使う立場のヒトにとっては、むしろ選ばれるべき表現型はある程度決まっているのでしょう。その表現が見つかれば、表現された道具は淘汰されずに生き残るし、使えない道具、使いにくい道具は淘汰されて消えていくのでしょう。

ユーザビリティとか、ユーザーエクスペリエンスなどのデザインの課題を考えていく上では、このあたりの進化論的立場でヒトという生物を考える必要があるように思います。

ギブソン=アフォーダンス的な心理学の系譜においては、先にも紹介した生態心理学者のエドワード・リードが『魂(ソウル)から心(マインド)へ―心理学の誕生』のなかでダーウィンからウィリアム・ジェームスに引き継がれたデカルト派心理学とは別の系譜をたどっていたり、数学-物理学的な視点からみた心理学とは異なる生物学的-生態学的心理学という、物質ではなく物質と生物とのインタラクションを扱う科学の分野では、進化論は避けて通れないものでもあったりします。

このあたりはドーキンスのもう1つ別のコンセプトである「累積淘汰」というコンセプトを参照すると、より明確になります。
ただ、ちょっと長くなったので「累積淘汰」についてエントリーをあらためることにします。

   

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