詳しくは書きませんが、「ふつうでいられるってすごい幸せなことなんだな」と感じられた出来事がありました。
何を「ふつう」というかはものすごく定義がむずかしいと思いますし、そもそも定義なんてできないことかもしれません。たぶん、そうなのでしょう。
でも、僕はそのとき、普段はどちらかというとつまらないもの、退屈なものと感じていたであろう「ふつう」が実はすごいことで、それを維持するむずかしさを感じたのでした。
「ふつう」の価値
そう。「ふつう」という言葉はどちらかというと否定的な言葉として用いられることが多い。「あれってふつうだよね」「わたしはふつうのひとですから」と個性がないことを指し示す言葉として使われたりします。マーケティングやブランディングにおいては「差別化」が重視されます。その反対に個性のない「ふつう」は価値のないものと考えられがちです。確かにマーケティングやブランディングで差別化は商品が売れるための大事なファクターです。
でも、売りやすいかどうかをいったんおいとくと、差別化されたものが必ずしも使う際にもよいかどうかはまた別の問題だという気がします。気に入って買ったはずのものがしばらくするとアクが強すぎて飽きてしまうなんてこともあるでしょう。
そういう意味ではアク抜きされた「ふつう」のもののほうが使うという意味では長く使えたりする。長く使うことで逆に愛着が生まれてきたりもします。
毎日食べる白いご飯が実はいちばん価値があるとかそういうことです。白いご飯に納豆とか。そういう「ふつう」の組み合わせが実はうれしかったりします。
「ふつう」はむずかしい
でも、「ふつう」に価値を見出すのはなかなかむずかしいんです。さっきも書いたように、なにかモノを買うときにはなかなか「ふつう」のモノを選べなかったりします。つい見栄えのするモノに目を奪われて、それに手を伸ばしてしまうこともあるでしょう。普段の生活において常に「ふつう」のもつ価値を自分のなかで維持できるかどうかはむずかしいものです。
生きていく上でも「ふつう」を維持するほど、むずかしいことはありません。
むずかしいのはサバイバルだのなんだの口にしていきむことではなくて、そうした状況をちゃんと見据えながらもいかに力を抜くかなんじゃないかと思ったりします。瞬間的に特別な力を出してもそれが長く続かなければ、なかなか形には残る結果を出すことはできません。そうではなく「ふつう」に力を抜いて続けられることをがんばることのほうが大事なんだと思います。
環境と向き合い続けるためのバランス
なにか派手に目立つことでもしなければダメだと思ってるとどこかで足元をすくわれるだけです。いきんで身体のどこかに力が入ってる人ほど、外からのちょっとした力が加わっただけで簡単にバランスを崩します。バランスを崩さないまでも、それにもちこたえようとする力が今度はその人自身のバランスを崩すでしょう。1ヶ月前、僕自身、そのバランスを崩しかけていたので感覚としてわかります。でも、自分がバランスをくずしてしまったことに気付いて、かつ「ふつう」でいることのすばらしさに気付ければバランスを取り戻すことだってできます。別にヘンに力を入れなくたって「ふつう」にしてれば危機的な状況もなんとか乗り越えられるんだと思いました。
いや、「ふつう」にしようって思わなければ、危機はますます危機になります。バランスを欠いたまま、自分の置かれた環境に向き合うことほど、周囲で起こっている出来事の目測を誤ってしまうことはありません。自分を「ふつう」に保たなければ、周囲の環境がおかしなものに見えてしまうんだと思います。そして、周囲の環境までバランスを失っていく。
専門性、戦略ではなく「ふつう」の積み重ね
自分がバランスを崩してしまうと、周囲にもよくない影響を与えます。誰かが何かにヘンにこだわりをもって「ふつう」さのバランスを崩すようなふるまいをすれば、流れの一部に淀みができ、また他方であまりよろしくない激流ができます。たとえば、それは誰が何かの専門家であると名乗る場合とかでもそうなんだと思う。それは実は「ふつう」じゃない。誰かが何かを独占しようとするから、淀みと激流ができてしまいます。
何かとんがったところがないとなんて思って何か自分に専門性をつくろうなんて考える必要はないんです。もっと「ふつう」にしてれば、いわゆるつくられた個性とは別のあなた自身の味がでてくるはずです。
何か1つだけつくられた専門性をもって、自分はそれについてはよく知っているけど、それ以外のことは専門外だからよくわかりませんなんて状態より、もっと「ふつう」に自分の日々の暮らしのなかでいろんなものを学び、いろんなスキルを身につけてその結果、自然に生まれたものをあなたの色にしたほうがまわりとも自然な感じでやっていけるはずです。
余分をなくす、必然のかたち
特別なことをする必要なんてないんです。「ふつう」に気になったことをがんばればいいんです。大事なのはその積み重ねなんだと思います。確かに「ふつう」のものはなかなか買ってもらいにくい。でも、「ふつう」のもののほうが使ってみて良さがわかるから長く使ってもらえます。マーケティングでも実はそう。新規の顧客の獲得には既存の顧客の5倍のコストがかかるといわれます。だったら、派手な差別化で新規顧客の気を惹くより、本当は使ってみてよさを感じる「ふつう」さを目指したほうが本当はいいはずなんです。もちろん、その「ふつう」さを目指すのがむずかしんですが。これは商品のマーケティングだけでなく、個人の魅力をいかに生み出すかという点でも同じなんだと思います。だから、戦略とかじゃなく、もっと「ふつう」に自分自身を信じてあげることが大事なんじゃないかと思うんです。
「ふつう」を定義するのはむずかしいと言いましたが、あえて僕なりに定義するなら、それは「余分をなくすこと」「必然の形を見つけること」だったりします。奇をてらった振る舞いや必然性のない行動を極力避けた絶妙のバランスを見つけることなのかと思います。とはいえ、何が余分で何が必然化を見つけるのは容易ではない。それゆえ「ふつう」はむずかしい。どこに余計な力が入っていて、自分がいかにまわりが見えておらずその場の必然とは異質な行動をしてしまっているかはなかなか気付かなかったりしますから。
外と内の力がきれいに均衡している状態。そのかたちが「ふつう」なんだと思います。
ふつう:付加しないことの価値
誰かが自分ひとりのサバイバルを考えたとき、流れのバランスが崩れます。それはある程度仕方がないことだし、それを回避するために人それぞれが「ふつう」を維持することはさっきも書いたように非常にむずかしいことだと思います。でもね。やっぱり「ふつう」のよさを見失っちゃいけないと思うんです。
日々をいきんで暮らすのではなく、「ふつう」にできる範囲の力の入れようで日々をすごさないとどこかで身体やこころにひずみができてしまうんだと思います。それは自分自身だけじゃなくて、その周囲の人にも。
山口:デザインが付加価値だと思われている。
深澤:付加しないことが価値なんです。
山口:付加されたものが価値だという誤解がありますね。深澤直人『デザインの輪郭』
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