スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ/ジョルジョ・アガンベン

ヨーロッパ中世というのは実におもしろい時代だと思う。
そのことは1つ前の「中世の秋/ホイジンガ」でも紹介したが、今回紹介するジョルジョ・アガンベンが『スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ』で描く、中世の人々の思想世界もなかなか興味深い。

スタンツェ


例えば、「中世の心理学によれば、愛とは本質的に妄想的な過程であり、人間の内奥に映し出された似像をめぐるたえまない激情へと、想像力と記憶を巻きこむ」とアガンベンは書いている。

場合によっては、中世において愛は病とさえ考えられている。
「アモル・ヘレオス」という愛の病。

モンペリエ大学の教授ベルナール・ゴルドンは、1285年頃の著書『医学の百合』で、「アモル・ヘレオス」を「女性への愛によって惹き起こされるメランコリックな苦悩」であるとし、この病気の原因は、「姿や形に強く印象づけられたことによって、判断力が麻痺してしまう」ことにあるとしている。
「誰かがある女性を愛するようになると、彼は、その女性の姿や形、振舞いに強く動かされ、彼女こそもっとも美しく、もっとも崇敬に値し、肉体も魂も並はずれて優れた女性だと考えるようになる」というのだ。

判断力の低下が、人を欲望にかりたてると考えられていた。
欲望は、記憶と想像力にはたらきかけ、「とり憑かれたかのようにファンタスマへと向かわせる」。
「愛とは本質的に妄想的な過程」といわれる所以である。

そして「こうした愛の発見こそ、中世の心理学が西洋文化に伝えたもっとも豊かな遺産のひとつなのである」とアガンベンは書いている。
どういうことだろう? このあたりをもうすこし見ていきたい。

存在しないものに対する欲望

宮廷風恋愛の技法について論じた中世人アンドレアス・カッペラヌスの著『愛について』は、そうした中世における「新たな愛の概念の模範的な理論化」だと考えられていたそうだ。
彼は、愛を内面の表象像の「際限なき思いめぐらし」であると定義し、「かの情念は、なによりも魂が見たものについて抱く思いから生じるのである」と付け加えている。

明らかに、この引用でわかるのは中世における愛の対象は、現実世界にいる女性ではなく、「内面の表象像」であり「魂が見たもの」という内なるイメージであるということだ。
アガンベンはこう続けている。
中世における愛の発見は、これまで頻繁に論じられてきたが、それは必ずしも的を射ていたとは言えない。愛の発見とはまさしく、愛の非現実性、すなわちその妄想的な性格の発見だったのである。中世の性愛概念の新しさは、この発見にあるのであって、よく言われるように古典世界が性愛の精神に欠けていたからというわけではない。中世は、古典世界がプラトンの『ピレボス』でかろうじて予感していたにすぎない欲望とその幻影の結合を、その極限の帰結にまで推し進めたのである。

欲望が結びつくのは外の現実の女性ではなく、内なる幻影=ファンタスマであるということに、中世の愛の形の特殊さがある。

ただ、この中世の愛の考え方は、その後のルネサンス期においても影響を与えている。だから、アガンベンは「こうした愛の発見こそ、中世の心理学が西洋文化に伝えたもっとも豊かな遺産のひとつ」だというのだろう。

この遺産が引き継がれた例としては、フィレンツェのネオ・プラトニズム、ヘルメス思想の哲学者フィチーノは、「メランコリックなエロスは、愛をむさぼったために、瞑想の対象としてあるものを抱擁の欲望に変えてしまおうとする者によく起こる」と言っていたことなどがあげられる。フィチーノは「メランコリックなエロスに固有の特徴を、転位と過剰の中に求めている」のだとアガンベンはいう。外にある対象は、内なるイメージへと転移され、その内的な似姿が過剰な欲望の対象となる。

そして、ここでもやはり愛はメランコリーと結びつけられる。メランコリーそのものもまた病的性質だと考えられていたのは古代から中世を経てルネサンスにまで引き継がれた考え方である。
このメランコリックな病魔をかりたてるエロティックな性向は、「本来はただ瞑想の対象としてのみ存在するものに触れたい、そしてそれを所有したという性向として示される」のだとアガンベンはいう。内面にある似姿はもはや本来の外的な対象と結びつくことすらやめ、存在しないものが欲望の対象になるのだ。

なぜ木像を愛する?

実際、中世の騎士道物語では、騎士たちが手の届かぬ貴婦人たちに愛を捧げて闘いに赴くというのが典型的なパターンである。
騎士たちはは当の貴婦人たちを愛するというより、自分の心に映った貴婦人たちのイメージを愛しているように見える。時には泉の表面や鏡にその姿を投影して貴婦人たちのことを思ったりもするが、とうぜん、実際に映っているのは自分の姿であるわけで、ギリシャ神話のナルキッソスと変わらない。



「ナルキッソスの物語もピュグマリオンの物語も」とアガンベンは言う。
ともにいわば愛のアレゴリーであり、本質的に鏡像への強迫的な憧憬にとらわれるという愛のプロセスの妄想的な性格を、ある心理理論の図式にしたがって、典型的なかたちで示してくれているのである。その心理理論の図式によれば、本来の意味で恋に落ちることとは、何であれ常に「影を通して」あるいは「形象を通して」「愛すること」なのであり、いかに深いエロス的志向でも、常に「イマージュ」へと偶像崇拝的に向けられているのである。

偶像崇拝としての愛。対象そのものではなく、その似姿、イメージ像に向けられる愛。
先に示した中世の愛のあり方がそのまま騎士道物語にも反映されていることがわかる。

中世の秋/ホイジンガ」で「1240年よりまえに書きはじめられ、1280年よりまえに完成された、ギヨーム・ド・ロリスとジャン・クロピネル、ないしショピネル・ド・マン両人の手になる」とされる『薔薇物語』という騎士道物語がある。
この物語は「実に2世紀ものあいだ、貴族たちの恋愛作法を完全に支配したばかりか、およそ考えられうるかぎり、ありとあらゆる分野にふれての、まさに百科全書を想わせる題材のゆたかさによって、読み書きのできる一般の俗人に対し、知識の宝庫を提供し、生きいきとした精神の糧をそこからひきだすことを、かれらにゆるした」大ヒット作なのだが、この人気を博した物語で驚くべきことは、主人公が幾多の闘いの末、手に入れるのは、貴婦人そのものではなく、女性の姿をした木像であるということだ。



まさにギリシャ神話に登場する、自らの理想の女性を彫刻した像に恋をしてしまうキプロスの王ピュグマリオンさながら、愛は「存在しないものに対する欲望」として現れる。それが中世における愛の形なのだ。

目を眩ませて怯えながら後退りする者の犯す罪

この「存在しないものに対する欲望」としての愛というものを考えるにあたって、そもそも中世において最大の罪とされた「怠惰」というものを理解しておく必要がある。

この中世における怠惰という概念は、いま僕らが考える怠惰とはだいぶ異なるものだ。いまの怠惰をベースに考えると、なぜ、それが中世における最大の罪であったかがわからない。
「教会博士たちが怠惰の本質に与えた解釈を検討してみるなら、それが怠慢のしるしのもとに置かれているのではなく、苦悩と絶望のしるしのもとに置かれていることがわかる」とアガンベンはいう。
教父たちの観察を厳密かつ網羅的に集めて『神学大全』に統合した聖トマスによれば、怠惰とはまさしく「陰鬱の形象」であり、より正確に言えば、人間に本質的な精神性にかかわる苦悩、つまり神から授けられた特殊な尊厳にかかわる苦悩なのである。怠惰な者を苦しめるのはそれゆえ、悪の意識ではなくて逆に、善の中でもっとも偉大なものへの配慮である。

聖トマス・アクィナスが網羅的な視点でまとめた中世における怠惰は、陰鬱=メランコリーの形象とされる。また、メランコリーである。
アガンベンによれば、アクィナスら中世の教会博士たちが考えた怠惰とは、
神の前で人間が立ち止まるという義務に直面して、目を眩ませて怯えながら「後退りすること」である。

つまり、怠惰とは神の現前に際して「恐怖のあまり逃走」してしまうという罪なのだ。

だからこそ怠惰な者の後退りは中世においては、こんな風に捉えられたのだ。
心理学の用語を使うなら、怠惰な者の後退りとは、欲望の喪失を暴露しているのではなく、達成できないにもかかわらず、むしろその欲望の対象になろうとしているということなのである。

神の前で後退りし、ある意味で神を手にすることを手放した者が、それにもかかわらず、というよりも、そうであるがゆえに神を手にすることを欲望するということ。それが怠惰が罪である理由である。


ブリューゲルの「怠惰」


そして、ここにおいて、愛の対象として現実世界の女性を選ぶのではなく、似姿として内なるイメージを欲望する「アモル・ヘレオス」という愛の形がなぜ病であるのかも見えてくるだろう。そして、それがメランコリーを誘発するということも。
つまりそこでは、1度も所有されたこのがないために失うこともないものが、あたかも失われたのように思われ、おそらく決して現実的でないために所有できないものが、あたかも失われた対象として同化されたかのように思われるのである。

そして、こうした性格をもった中世におけるメランコリーは、次のような意味で芸術とのつながりをもつ。中世からルネサンスにかけては、芸術家は誰よりメランコリー気質をもつものとされていたということもある。
メランコリーと芸術的行為との間の伝統的な連想は、まさしくますます募る幻想の経験としてここで正当化されている。この経験が両者に共通する特徴だからである。。どちらもが「想像の精気」という繊細な物体のしるしのもとに置かれる。それは、夢、愛、そして魔術的影響の媒介物となるばかりでなく、人間の文化のより高次の創造にもまた、不可解ながら密接に結びついているのである。

こうした芸術を結びついたメランコリーが、ルネサンス以降の世界において「人間の文化のより高次の創造にもまた、不可解ながら密接に結びついている」という形で、魔術的・錬金術的な文化を創出していくことになるのだろう。

その意味では、一見、中世から大きく社会的・文化的な革新をもたらしたかのようにみえるルネサンスの文化とは、まぎれもなく中世の文化の上に成り立っているのだろう。

そんなことを気づかせてくれた、最高におもしろかったアガンベンの『スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ』
これが彼の処女作というのはなんとも驚きである。この分厚い考察が処女作で実現されたとは。アガンベンの著作を読むのは『事物のしるし 方法について』に続いて2冊目だったけど、もっと読んでみたいと思わせてくれる好きなタイプの作家だった。



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