来年前半はゲーテについて、あらためてちゃんと知っていこうと思っているので、その第一歩。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに興味を持っているのは、彼が、詩人、劇作家、小説家という文学の人という側面をもつ一方、色彩論、形態学、生物学、地質学といった広範囲にわたる自然科学者としての側面をもっているからだ(もうひとつ政治家という面もあるが、そこは問わない)。
そして、その両側面にまたがる功績を残したゲーテであるがゆえに、例えば、彼の色彩論研究からは、生理学とという自然科学の分野と、印象派という美術の分野での2つの新しい思索のカテゴリーが生まれている。
ゲーテとショーペンハウアーとが主張した、観察者に新たなる知覚の自律性を与える主観的視覚は、観察者を新しい知や新たなる権力の諸技術の主題=主体にすることと軌を一にしてもいた。19世紀において、これら二つの相互に関連した観察者の形象が浮上してくる領域こそ、生理学という科学だったのだ。ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
19世紀初めのゲーテ、ルンゲ、ターナーらに始まる色彩研究の新たな興隆は、近代絵画史における道標としてあまりにも有名な画家モーリス・ドニの発言−「画面とは、ひとつの逸話である以前に、ある一定の秩序を持つ色彩でおおわれた表面である」(1890年)−を経て抽象絵画成立期に通じる重要な道筋を切り開いた。15、16世紀における西欧の造形思想のひとつの基軸が線遠近法にあったとすれば、近代のそれを色彩論に見出したとしてもそれゆえ不当でない。前田富士男『パウル・クレー 造形の宇宙』
ゲーテが太陽光をみたあとに残る残像から、人は外界の物事をそのままみているのではなく、主観的に像を構成しているのだという視点で、生理学の元となる考えを生むと同時に、主観的な視覚像の生成という観点からその後の抽象絵画にもつながっていくようなリアリズムから離れた印象派的な試みへの道を芸術家に対して開いたのである。
ゲーテの残像のイメージをそのまま絵にしたような作品が、1843年にジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーによって描かれた「光と色彩(ゲーテの理論)-大洪水の翌朝-創世記を書くモーセ」だろう。一見抽象画にさえ見える作品は、まさにゲーテが『色彩論』で提示した残像のイメージそのものだ。そして、ターナーが印象派を30年も先取りした画家といわれる所以でもある。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー「光と色彩(ゲーテの理論)-大洪水の翌朝-創世記を書くモーセ」(1843年)
生理学と印象派という2つが同時に登場していることにもワクワクするが、その自然科学と芸術という無関係そうな2つの分野での創造が、ゲーテという1人の人間から生じていることに驚きを感じないだろうか?
ゲーテの生命形態学と20世紀芸術
色彩論だけではない。彼の形態論として自然をみる見方も、実は、その後に芸術の分野で別の形で花開くのだ。フォルムのエレメントの純粋性に最も意識的だった抽象絵画の開拓者たちが、再現対象はもちろんのこと、遠近法、色価、構図といった旧来の造形概念を否定したときに、彼らのフォルムの世界を生命的形態における必然性・法則性へ近づけようとする方向に進み、その際ゲーテの形態観に出会うという事態は十分に考えられることだ。だが、ゲーテの思想に出逢ったとしても、フォルムの純粋性へむかう彼らの態度からすれば、少なくとも、可視的世界を絶対に離れなかった知覚の現象学者ゲーテ自身の態度は矛盾と感じられたに違いない。それなら、クレーはどうであろうか。(中略)しかしクレーは、こうした現代の画家たちのなかにあっても、決して「第一の自然を必要としない」とは考えていなかった。前田富士男『パウル・クレー 造形の宇宙』
そう。20世紀の画家パウル・クレーを通じて、ゲーテの形態学は造形論へと変形される。
クレーによるパペット。2016年パリ・ポンピドゥーセンターでのパウル・クレー展より
「芸術とは眼にみえるものを再現することではなく、眼にみえるようにすることだ」と考えるクレーにとって、生物の形態生成について考察したゲーテの形態学は重要なリファレンスであったようだ。
クレーが再三要求する運動フォルムとは、「すべての形態、とくに有機体の形態をみるとき、そこに見出せるのは、とどまるもの、静止したままのもの、閉ざされたものでなく、むしろすべてがたえず運動してやまない」(ゲーテ)、そうした有機体の形態としての作品にほかならないのである。有機的形態の場合、部分と全体の関係を論証的に定義することは困難である。有機的形態をとらえるには分析的論証的態度ではなく目的論的態度にたつ高度な観照、ゲーテが直感的判断力と呼んだ独自な思惟が必要である。前田富士男『パウル・クレー 造形の宇宙』
ゲーテは『植物メタモルフォーゼ』で、「これらの分析の努力は、繰り返し行いすぎると、多大な弊害をも生ずる。生物はなるほど諸票素に分解されるが、それをこれらの諸要素からふたたび合成し、生き返らせることはできない。このことはすでに多くの無機物に、まして有機物についてよく当てはまることである」と書いている。当時のリンネに代表される分析的な態度の弊害を指摘し、「生命ある形成物そのものを認識し、それらの外面的に目にみえてに取ることができる諸部分の関連を把握し、これらを内面の暗示的な現象として取り上げ、こうして全体を直観のうちにある程度まで自分のものとしたい」という衝動から「形態学と呼びたいと思う学説を創始し完成しよう」という意図が芽生えたとしている。
ゲーテは、この形態学という「科学的な欲求がいかに密接に芸術運動および模倣衝動と関連しているかはあえて述べるまでもない」と言っている。それがクレーの「芸術は世界創造と類比的な関係にある」という考え方につながっていると考えられる。
そして、このゲーテ的な直感的判断力による思惟を用いた姿勢は、クレーのみならず、20世紀の芸術家に「生命形態(バイオモルフィック)」として用いられていく。
卵型、丸み、ヴォリュームといい、植物の果実といい、「生命形態(バイオモルフィック)」の法則が二十世紀の造形芸術の大きな導き手となった事実は、こうしたアランやアルプの言葉に端的に示されている。実際、一九一〇年代以降に展開した近代美術の変革運動、つまりピカソ、ブラックによるキュビズム、マティスによるフォーヴ、カンディンスキーやモンドリアンによる抽象、デュシャンによるダダ、ドイツ表現主義、シュルレアリスムなどの諸運動において、「生命形態」は「コンストラクション(構成)」、「グリッド(格子)」や「コラージュ」、「ファウンド・オブジェクト」とならぶ最も重要な造形概念の位置をしめるようになった。もはや顔面や額の「模倣」は無意味でしかない。新たな造形の焦点には、かつては表現の要点とされた顔面や額をも「皺」として包括するような大きな局面そのもの、生命形態の力と法則が浮上する。前田富士男『パウル・クレー 造形の宇宙』
模倣によるリアリズムを印象派が超えたのち、何を芸術的な造形の原理とするかを考えた際、コンストラクションやグリッドと同様に、その根本原理として採用されたのが、ゲーテが創始した生命形態の学であったのだ。
ファウストはなぜ悪魔メフィストーフェレスと契約を結ぶのか?
そこで『ファウスト』の話に戻りたい。ゲーテは、その「前狂言」において、詩人の役割をこんな風に登場人物である「座付詩人」に語らせている。
そもそも詩人は何によって鬼神をも感ぜしむるのですか。
詩人は何によって四大に打勝つのですか。
それは調和というものによってでしょう。
胸から流れ出て、全世界を再びその胸の中へ手繰り込むその調和ではないでしょうか。
自然が果てしもなく長い糸を冷ややかに紡ぎ出して、
無理やりに糸巻きに巻きつけて、
また生きとし生けるものの雑然たる群が
おぞましくも騒々しい音を立てている時-
このいつも同じに流れて行く線を、リズムを持って動くように、
活きいきと区切ってやるのは、一体誰でしょう。
一つひとつのものを厳かな秩序に組み入れて、
すばらしい和音を奏でさせるのは誰でしょうか。
盲目の嵐を情熱に浄化させるのは誰です。
夕映えを意味深遠な色に燃え立たせるのは。
恋人同士の歩む小道に、春の美しい花という花を
撒いてやるのは一体誰ですか。
ありふれた緑の葉を編んで、
いろいろな功業への誉れの冠とするのは誰か。
オリュンポスを護って、神々を集わせるのは誰だ。
詩人のうちに示顕する人間の力ではないのか。ゲーテ『ファウスト』
詩人は、自然のうちに調和=リズムを読みとって示顕する。
このゲーテによる詩人観は、ゲーテによる形態学の試みをオウィディウスの『変身物語』と比べながら語られる、エリザベス・シューエルの『オルフェウスの声』のなかの次のようなゲーテ自身の評にぴったりと重なり合うように思う。
変化と過程、変形がこの作品ではマインドの内なる働きを自然の営みと直結させる手段となっている。このテーマをみずからの『植物変態論』という作品で取り上げるのがゲーテであるはずで、自然にあって固定して見えるいかなる形式も、実は絶え間なく変化し止まぬ、そして我々がそれを十全に理解しようとすれば我々の思考方法のモデルとなってもらわねばならない現実が、単に一時的に結晶化したものに過ぎないのだと主張する。我々の思考方法は自然に倣って「しなやか、かつ造形的」でなければならない、と。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』
そんな風に詩人の役割をとらえ、それが科学が見落としがちな「しなやか、かつ造形的」な自然に倣った思考方法をもっているということ自体、なぜ、『ファウスト』という作品で、主人公ファウスト博士が、悪魔メフィストーフェレスと契約を結ぶことになるのかを示しているように思う。
自然は真っ昼間でも神秘深く、
その薄衣を脱いで見せてはくれぬ。
自然が己の心に見せようとしないものは、梃子や捻子を使ったところでどうにもならぬ。ゲーテ『ファウスト』
と、どんなに学を追求しても、決して近づくことができる自然に悩んでいた科学者ファウストに対して、悪魔メフィストーフェレスがする助言はこうしたものだからだ。
詩人と結託するんですな。
そして詩人にいろいろなことを考えさせて、
あるとあらゆる貴い性質を
あなたの頭の上に積み上げてもらうのです。ゲーテ『ファウスト』
科学と詩の結託。それがまさに悪魔と結ぶ契約なのかもしれない。
この契約。シューエルがこんな風に語る言葉が、その契約の内実を示しているのかもしれないと思う。
ゲーテはどうかと言えば、時に自然を占卜の言語とみなし、なんとも素晴らしい「人間とは自然が神と発した最初の言葉である」という言葉を残している。この言語は科学のしての言語ではない、暗号ではない。それはここで暗喩の形象、そして神話を思いきり詰め込まれる。自然が言語だとするなら、それは詩としての言語である。みずからも発話の能力に恵まれた人間の精神が理解し、解釈しなければならない発話がこれである。人間自身の言語が詩的なものである限り、それはこうして言語という形象の下に眺められる自然の働きと一致する。こうして詩人はみずから発見しようとしている相手に似るのである。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』
と。
こんな風にゲーテは謎めいていて、深い。
けれど、このゲーテ的な統合的で、直感的な見方こそ、いまから必要になってくるアンチ・ディシプリナリーな態度で物事を考え、創造するために必要な思考スタイルだと思うのだ。
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