言葉にならないものをイメージで表現するといったりする。もちろん、イメージを使えば言葉と異なる表現ができるのだけど、だからといって、イメージが表現しているものを言葉で説明することを怠ったりするのは、あまり好きじゃない。イメージを表現に使うにしても、その背後には思考があってほしい。とうぜん、それが言葉による思考である必要はないし、思考をイメージで表現するのではなく、イメージによる表現自体が思考であればいいのだけれど、そもそもの思考がないなら、それは好みではない。
むしろ、言葉にならないものを表現しているからこそ、イメージそのものが表すものについては、言葉で表現されたもの以上に言語化する方向で思考を巡らせたほうが面白いはずだ。
田中純『歴史の地震計』中の図版「ムネモシュネ・アトラス」のパネルの1枚
だから、アビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』という971枚の図版が総数63枚の黒いパネルに配置された作品(?)を言語化する田中純さんの試みには、繰り返し惹かれている。
例えば、『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』という本を読んだのは、2008年の7月だから10年弱経っている。そして、つい最近も『歴史の地震計』を読んで、いろいろ興奮させてもらったばかり。
その本で、ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』はこう紹介されている。
まず、『ムネモシュネ・アトラス』の概要を説明しておこう。
「ムネモシュネ」とはギリシア神話における記憶の女神の名である。ヴァールブルクが「図像アトラス」とも呼んだこのプロジェクトは、古代から20世紀にいたるヨーロッパの美術作品をはじめとするさまざまなイメージの図版を、黒いスクリーン上に配置した、数十枚のパネルからなるシリーズである。ただし、パネルそのものは失われ、それを撮影した白黒写真しか残っていない。田中純『歴史の地震計』
と。この説明のとおり、『ムネモシュネ・アトラス』は図版の集積・レイアウトであって、それを説明する言葉はヴァールブルクが生前書き残した断片のみしか存在しない。
上の写真がそのパネルの1枚を写したものだ。
こんなパネル63枚から成るのが『ムネモシュネ・アトラス』というヴァールブルクの作品だ、ということになる。だから、簡単にそれが何を示しているのかはわからない。けれど、わからないといって、それを思考の対象から外すという選択が僕は好きじゃない。
ヴァールブルクはこの『ムネモシュネ・アトラス』を制作中に亡くなっているので、最終版の図版の選定および配置が必ずしも完成形を示してはいないし、果たして完成形なるものがあり得たかどうかさえ定かではない。それゆえ、通常の意味でなら、この971枚の図版、63枚のパネルから成る全体が何を表現しているかは明確にはわかりえない。
けれど、美術史家・文化史家であり、イコノロジー(図像解釈学)の創始者とも言われるヴァールブルクが自ら選定し配置した、この図像群、パネル群が何の思考の裏付けがないはずもない。それはいわゆる展示=エキシビションと同じように、ある思考をイメージによって具現化したものであるはずで、それが直ちには言語化しづらいからといって、そこに意味や思考がないはずはない。
だからこそ、田中純さんがそれを言語化していく作業を読むことができるのはとても刺激になる。
そして、デザインやクリエイティブに関わる仕事をしている僕ら自身がやっている、いや、やらなくてはいけないのは、こうした思考作業にほかならないと、常に思う。
イメージと言語の狭間で思考し、その間をつなぐ動きをつくること。
企図が形になり、形が別の想いを生む。
そうした運動をいかに生成するかがデザインやクリエイティブの仕事であるのだとしたら、イメージと思考&言語を結びつける知的操作は常に欠かせない。
思考・言語化のないただのイメージの操作には何の面白さもないのだし、そういう思考を働かせないのなら、いっったい何をしているのか、その作業の価値を疑ったほうがよい。
「間隔の問題」を思考する
さて、田中さんは『歴史の地震計』のなかの1章を、同じくヴァールブルク研究で知られ、『残存するイメージ―アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』や『アトラス、あるいは不安な悦ばしき知』などの著作で、『ムネモシュネ・アトラス』の考察を行っているジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『ムネモシュネ・アトラス』論についても紹介している。ディディ=ユベルマンの本はまだ読んだことがないので、年末年始の休み中に手にとってみようかと思っている。
その中にこんな一節がある。
時間を不連続にする亀裂、言葉とイメージのあいだの隔たり、そしてイメージ内部の両極性といったものすべてがひとつの間隔である以上、ヴァールブルクのあらゆる思考はいわば間隔の問題なのだ、とディディ=ユベルマンは大胆に総括する。田中純『歴史の地震計』
ここに1つの選択がある。いかにして思考するか?という選択が。
個々の要素そのものを思考するか、要素間の間隔そのものを思考の対象にするか。
あるいは、それはこんな風に言い換えることもできるかもしれない。静止した、固定化された対象を思考するか、それとも、動的な変化そのものを思考の対象にするか。
さらに言い換えれば、1つの定義された正解にこだわるか、あるいは、複数あるさまざまな視点での正解のあいだの類似性と相違性のようなズレにこだわって思考を展開するか。
いずれの選択においても、後者のほうには曖昧さがある。
潜在的イメージはただ曖昧なだけではない
19世紀後半から20世紀初頭に起こった美術界の変化を対象とした『潜在的イメージ―モダン・アートの曖昧性と不確定性』で著者のダリオ・ガンボーニは、"「観る者の精神状態」に関わるイメージ、作者の意図に呼応しながらも、観る者の介在によってはじめて完全に存在しうるイメージ"としての「潜在的イメージ」というものを考察しており、それらのイメージがもつ「一般的に曖昧で、不確定的で、多義的である」性質と、20世紀前後のイメージ生成の変化そのものについての考察を行っている。その本のなかでガンボーニは、こう書いている。
観る者が(物質的対象としてではなく生成プロセスとしての)芸術作品の生成に貢献している事実を重視するとき、「潜在的イメージ」という概念は、視覚芸術という範疇を超えて、コミュニケーションと意味作用に関わる重要な問題を引き起こすことが明らかとなろう。じっさい、こうした場合には、イメージに本来的な根本的曖昧性がしばしば指摘されてきた。ダリオ・ガンボーニ『潜在的イメージ―モダン・アートの曖昧性と不確定性』
ガンボーニもここで、「生成プロセスとしての芸術作品」をいうことを前提としているのだが、「潜在的イメージ」のもつ曖昧で多義な性質は、その生成プロセスという観点からみたときにはじめて、それはより広い「コミュニケーションと意味作用」という領域における問題を明らかにすることが指摘される。
ガンボーニが「イメージに本来的な根本的曖昧性がしばしば指摘されてきた」ことの例としてあげるのは、こうしたものである。
またマーティン・ジョリーは、イメージの記号学的分析について論じた最近の研究において、多義性が、ある特定のイメージに特有のものではなく、あらゆる複合的なイメージ表現に見出しうる特徴であると主張している。ジョリーによれば、イメージには断定的能力が欠如しているがゆえに(すなわちイメージは言語に頼ることなしには断定も定義もできないがゆえに、)必然的に多義的な性質が与えられるのだという。一方、ある種のイメージにおいて多義的な印象が強調される場合があるが、それは観る者など多様な要素が介入した結果であり、意図的に隠されたイメージのように、計算ずくで非具象的イメージを作り出した場合が多いのだという。ダリオ・ガンボーニ『潜在的イメージ―モダン・アートの曖昧性と不確定性』
イメージは言語のように断定や定義もしない、ゆえに多義的な性質をもつ、という、この主張をミス・リーディングしてはいけないと思う。
言葉も、活版印刷が普及する以前の音声言語が中心の社会であれば、いまよりももっと曖昧で多義的な性格をもっていたことは、ずっと前に高山宏さんが『近代文化史入門 超英文学講義』で指摘していることを書評記事で紹介しているとおり。
エリザベス朝の時代のシェイクスピアを中心として隆盛をはくした英国ルネサンス演劇は、清教徒たちによって1642年にすべて閉鎖されることになる。この閉鎖の背景には、1660年に正式に設立されることになる英国王立協会の中心的な役割をになた数学者や科学者たちが、言葉の曖昧さを嫌い、曖昧さのない普遍言語を模索したことと無関係ではないと高山さんは指摘している。ルネサンス演劇の舞台で俳優の声を通じて発話される台詞が含まずにはいられなかった両義的・多義的な意味が曖昧さを嫌う数学者や科学者たちの目の敵にされたのだと。
だから、そもそも、言語が曖昧でなく、イメージは曖昧ではないという短絡的な話ではない。
引用中においても、ある種のイメージが多義的と感じられることがあるとすれば、それはそのイメージ制作者の「計算ずくで」なされることが多いと指摘されている。イメージそのものはどんなに曖昧さ・多義性はあったとしても、意味をもっていることに変わりはない。
だから、潜在的イメージとは、だから、曖昧で多義的ではあっても、決して、無意味ではないし、どんな解釈も自由というようなものではない。
いや、潜在的であろうと、より具体性を感じられるものであろうと、イメージには意味があるし、それは思考の道具として使うことができる。
それゆえ、そのイメージの意味を無視して、何の思考もないままにイメージを無意味に扱うのだとすれば、それはイメージの側の問題ではなく、それを扱う者自体に思考が欠けているというだけにすぎないのだ。
考えることを怠る言い訳をイメージに押し付けるのはあまりに失礼すぎるだろう、特に、イメージを仕事の道具にしている人であれば、なおさらに。
すべてのものは絶えず揺れ動いている
イメージを短絡的に曖昧なものだと考えてしまうこと。まさに、そこで起こる1つのことがイメージを思考の外に置いてしまう姿勢だ。
そして、その姿勢にも2つあり、1つはお決まりの「私にはイメージがわからない」とする態度であり、もう1つがイメージと思考=言語化を断絶させて、イメージをイメージのみで思考と結びつかない形でレイアウトし続ける姿勢だ。
いずれの姿勢にも「生成」というものが感じられない。
そこから、何かが生まれてくる、創造される感じがしない。
それよりもやはり「古代から20世紀にいたるヨーロッパの美術作品をはじめとするさまざまなイメージの図版を、黒いスクリーン上に配置した」ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』のような時間の隔たり、イメージと言葉の隔たり、そして、971枚の図版それぞれの間の、そして、63枚の黒いパネル同士の間の隔たりを思考する姿勢のほうに、生成や創造は感じられる。
実際、そのヴァールブルクの思考からはイコノロジーという学問的姿勢が現に生まれていたり、多くの影響を受けた哲学者、美術史家、文化史家が登場している。
ゲーテがなぜ形態学などというもので有機体の変形に惹かれ、研究を行ったか、そのゲーテの末裔としてパウル・クレーがなぜ自身の造形論を形成の謎を解く試みとして考えたか。先にガンボーニも「生成プロセスとしての芸術作品」という視点で捉えていたことを紹介したばかりだ。
それら変形・形成の問題が、常に間隔の問題であるということを考えれば、イメージの配置の試みを言語化の試みと結びつけて思考しないなんて愚行は、あまりにもったいなさすぎはしないだろうか。
ドイツ人は、実在する物の複雑な在り方に対して形態(ゲシュタルト)という言葉をもっている。この表現は動的なものを捨象し、ある関連しているものが確認され、完結し、その性格において固定されていると見なす。
しかし、すべての形態、とくに有機物の形態をよく眺めると、どこにも持続するもの、静止するもの、完結したものが生じてこないことに気がつく。むしろ、すべてのものは絶えず揺れ動いているのである。それゆえドイツ語は、形成という言葉を適切にも、すでに生み出されたものについても、また現に生み出されつつあるものについても使うことにしているのである。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ゲーテ形態学論集・植物篇』
フォルムの運動としての発生が芸術作品の本質である。まず最初にあるのは、モティーフ、エネルギーの注入、精液。物質的な意味でのフォルム形成としての作品は、原女性的といえよう。フォルムを規定する精液としての作品は、原男性的といえよう。パウル・クレー『造形思考』
こうした形成の動き、ある形が別の形へと変形していく様を描き出すのは、言葉だけでもむずかしいし、静止した形態としてのイメージで描き出すのもむずかしい。
でも、言葉とイメージの狭間、複数のイメージの狭間をうまく使いながら、2つの時間の狭間に生じる生成の動きについて考え、それを表現することは可能だ。
いや、まさに生成や創造に考えようとする場合にこそ、イメージだけでもなく、言葉だけでもなく、その両方をうまく行き来しながら思考をすることに価値があるのだと思う。
こうした思考を行うためにも、僕らはもっとイメージを使った思考を積極的に行っていく必要があるように感じる。
ヴァールブルクのようにイメージの選択・配置によって、時を超えた狭間やイメージ同士の狭間、そして、思考とイメージの間の大きな狭間について新たな発見をし続けること。
そうした思考にこそ、イメージの選択とレイアウトという操作を有効に活用したいものだ。
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