複数人の議論だけではなく、個人の思考においても、全体を見ずに、断片的に切り取った部分の集積だけで云々すると、訳のわからない妄想が生まれがちだ。もちろん、それをあえて文脈を外してスペキュラティブな問いを生み出そうとしているなどの意思があれば全然別の話なのであるが。
そんなことをロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』のこんな記述を読みながら思いだした。
文脈から切り離すことは、文脈を消滅させることと同じく、秩序正しい真実あれこれを壊すのに有効である。ロザリー・L・コリー『シェイクスピアの生ける芸術』
これは、シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』を評した一節で、「トロイラスにとって、クレシダはその両方をなしたのである」と続く。
『トロイラスとクレシダ』はトロイ戦争末期を描いた劇で、トロイの王のトロイラスは自分の恋人だと信じていたクレシダが、敵であるギリシャの将軍ダイオミーディーズの元に走ったことで、恋愛の文脈においても、戦争の文脈においても、その事実を認めることができず「これはクレシダであり、クレシダではない」と口走ったあと、「女の忠節のかえらが、愛情の残飯が、大盤振舞いした誓言の、はんぱ物、屑、細切れ、脂っこいお余りが、ダイオミーディーズのものになったのだ」という台詞で切り刻んで断片化する様を指しての評である。
クレシダは恋愛と戦争の両方でトロイラスの信じていた文脈を外れて彼を混乱させたのであり、秩序正しい真実とは何かを完全に見失わせたのである。
対象をバラバラに切り刻んで、元の文脈から切り離してみることは既存の解釈をいったんなかったものにして、別の解釈を生み出すのには有効だ。つまり、それはリフレーミングによるアイデア出しの方法として認識した上で行うのであれば、意味もある。
トロイラスに起こったことはまさにリフレーミングである、もちろん、彼が望んだものではなかったのだけれど。
だから、彼は言ったのだ、「これはクレシダであり、クレシダではない」と。
断片化しようとする情熱のネガティブさ
断片化によるリフレーミングは、その技法の意味を理解してはじめて有益である。ただただ切り刻んで、文脈を無効化したのでは、トロイラスが経験したような破滅が残るだけだ。物事を断片的にしかとらえず、そのバラバラの断片からネガティヴに思考してナンセンスな解を導く人が少なくない。
日常においては、多くの場合、技法としての断片化の意味は理解されないまま、そもそも全体感が把握できないと理由だけで、断片化が行われてしまう。そして、かろうじて理解可能な部分だけをとりあげ、全体のわからなさを不問にするか、わかりにくさ自体だけを批判する方向に思考してことが横行しているのでタチが悪い。
もちろん、全体なんてものはないのだから、どこまで把握していればよいのかという疑問は残る。
けれど、その疑問を維持しながら、常により大きな文脈を意識しながら思考することに意味があるのであって、とりあえず、自分が理解できることだけを取り上げ、あたかも全体を批判するような態度をするネガティブな発想ばかりが出回っているのは、ちょっと考えものだ。
だが、往々にして起こるのは、わからないことを理解することへのあまりに早すぎる諦めと、それでも、自分の尊厳を維持しようとしてか、わからないことがあることへの不安をわかっている断片だけ取り上げ、すべてを破滅させようかとするように否定的な言動に走るしか、とるべきアクションを知らない人が少なからずいることである。
シェイクスピアは『オセロー』でも断片化する思考を悲劇と結びつけている。
ロバート・ハイルマンらは、オセローの壮麗な言語が放埓で激烈で断片的で悪意ある言語−イアーゴーが好んで用いる統語法や語彙とますます似通ってくるような言語−に堕していくさまを考察している。興味深いことに、このように堕落してさえも、文学的な恋愛の慣習の痕跡をうかがえるのである。オセローはデズデモーナを全人格的に捉えるのをやめてしまう。ふしだらな女に見えてくるにつれて、彼女は断片としてしか認識されなくなる−そして、それよりはるかに重要なことであるが、オセローは情熱のあまり彼女を八つ裂きにしてやりたいと思うのである。ロザリー・L・コリー『シェイクスピアの生ける芸術』
「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」でも取り上げたが、『オセロー』の主人公、オセローは恋愛に初心で、恋愛に関するノウハウがなさすぎるがゆえに、あくどいイアーゴーの嘘に騙されて、愛するデズデモーナが自分を裏切ったと信じてしまい、彼女の行動の断片に疑惑を抱き、結局、彼女を自分の手で殺してしまう。
断片のあやしさだけをみて、文脈すべてを理解できないがゆえの、誤読が生じ、そして、自ら、愛するものとの物語に悲劇的な末路を選びとってしまう。なんという非生産的なリフレーミングだろう。
言葉が世界を無意味へと解体する、それがどんな強固なものであっても
オセローはイアーゴーに言われるがまま、愛するデズデモーナの言動の断片を間違った文脈で捉えて、ありもしない彼女の浮気という物語をつくりだし、自ら破滅の道へと進んでいくのだが、現代の日常でもよく起こっているのもこれと同じだろう、と思う。無知ゆえに部分だけを妙に捻じ曲げてネガティブにとり、そこで勝手なリスクをつくりだしてしまう。そんなことがよく起こっていないだろうか。いや、そんな他人事な話ではなく、自らのネガティブで、怠惰な思考で、自分自身の、そして、まわりの可能性をつぶしてばかりはいないかということだ。
話の流れがよくわからないからといって、断片だけ抜き取って、おかしな物語を勝手に仕立て上げてしまう。
その結果、生じるのは、意味をなくすパラドキシカルな状況だけだというのに、なぜ創造性が求められる仕事の場でも、そういう創造性と真逆の破滅型の思考の形ばかりが生じえるのかと感じることは少なくない。
さて、もう一度、コリーによる『トロイラスとクレシダ』評に戻ると、コリーはこの劇全体がパラドックスのかたまりで、「世界が知るなかで最も偉大な文学伝統において称揚されている価値観ですら解体できる」ことを示した作品であると書いている。
パラドキシカルな様式に連動しているのが、事物、主題、人物を断片化したり微細化したりすることによって、慣習的な形姿や慣習的な文脈を破壊し、価値を測る通常の物差しを役立たずにすることである。(中略)そしてしまいに、同語反復への容赦ない還元が(痴愚神の痴愚礼讃と比較せよ)、断片化がなすよりもさらに激しく文脈を無効化する。だから、規範的な型が肯定されるにしても、それが文法的にも論理的にもいかにも馬鹿げたかたちで肯定されるので、それが愚かしいものであるとたちどころにわかるのである。規範的な型が失われることによって、期待が挫かれ、ついには期待そのものが消え失せ、なんであれ、物事を判断することが不可能になる。ロザリー・L・コリー『シェイクスピアの生ける芸術』
断片化、そして、考えなしの同語反復。それらがあらゆる語りを無意味化する働きをする。
議論や提案、説明やプレゼンテーション。そうしたものが何かを語り、何かを綴っているはずなのに空っぽの器のような様子を示すのは、そんなときだろう。
バラバラに切り刻みこまれた言説が意味が空っぽの器をつくってしまう
それが『トロイラスとクレシダ』のようなスペキュラティブに言葉の扱い方自体を問うスペキュラティブな作品であれば、その批評的な問い自体が意味をなす。けれど、ビジネスの現場などの日常的なシーンにおいて、この意味を無意味化する断片化や同語反復が横行してしまうような議論、プレゼンテーション、ドキュメンテーションは、まさに「期待が挫かれ、ついには期待そのものが消え失せ、なんであれ、物事を判断することが不可能になる」という意味で本来避けたいものであるはずだ。
しかし、実際にはオセローのように、まわりの人やメディアが吹き込むネガティブな情報だったりを自分の漠とした不安に重ねて、現実の事案に関わる全体をみずからの思考で統合的に理解しようとする努力を怠って間違った選択ばかりをしてしまうことは少なくない。
単に「思考停止」といった表現では言い表しきれないほどの怠惰さ。
コリーは別の著書『パラドクシア・エピデミカ』で、パラドックスについて、こんな風にも書いている。
パラドックスは「思考」と「言語」の間の、「思考」と「感情」の間の、「論理」と「修辞」の間の、「論理」「修辞」と「詩学」の間の、そしてこれら全てと「経験」との間の区別を拒否するために存在する。ロザリー・L・コリー『パラドクシア・エピデミカ』
つまりは、これら人間が思考し行動する際の判断の糧になるものがいつでも曖昧模糊なものにできることを示すのが、パラドックスの技法であるということであって、もしそれと同じことを訳も分からないまま、日常使いしてたら、意味のある会話や行動ができるはずはないということを示している。
なのに、実際、ろくに考えないままに起こってしまっている自体というのはこういうことなのだ。
何が「思考」で何が「言語」であり、何が自分の「感情」なのか誰かの「言葉」なのか、そして、何が実際の「経験」なのかさえわからないまま、それをわかろうともせずに、ただただ否定的な修辞を並べて、あらゆる可能性を破滅に追いやってしまう。そんな思考や言動ばかりがはびこってしまっている。
何かを理解するというのは本当にむずかしい。
だからこそ、そのむずかしさを避けて、断片だけで間違った選択をしてしまったりすることが起きがちなのだろう。
けれど、むずかしいからといって、考えることをやめる必要はない。理解しようとする努力をやめる必要はない。
やめたら、それこそ、言葉の罠にはまってしまうのだから。
言葉は現実をあらわしてはいない。だからこそ、現実を言葉にしつづける必要がある。たとえ、どうやっても現実を言葉で写しきるのは無理だとしても、それでも現実が言葉の断片に堕してしまわないように、言葉をつないで全体を描こうとする姿勢をとり続ける必要があうのではないかと思う。
シェイクスピアはこの劇において、言葉がはらむ危険を、言葉が「うわべだけのもの」に堕し、真の応答や献身に自動的に取って替わる危険を、そして言葉の幻惑的な大言壮語に潜む危険を、我々に示している-言葉が彼の生活の資であり人生だから、たじろぐことなく。パラドクシーからわかるように、言葉とは、操りようで何でもさせることができるものだ-これこそが、プラトンがパラドクシーの名手たるソフィストたちを難詰した原因である。ロザリー・L・コリー『シェイクスピアの生ける芸術』
言葉がはらむ危険。言葉が「うわべだけのもの」に堕し、真の応答や献身に自動的に取って替わる危険。言葉の幻惑的な大言壮語に潜む危険。
「集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの」で、言葉が人を動かすものであることを書いたが、それは人が言葉を理解するからという意味であった。けれど、言葉は人が無理解である場合にも悪い意味で人を動かす。そう。文脈を無視して自動的に動くという形で。
バラバラに切り刻みこまれた言説が意味が空っぽの器をつくってしまう。
この危険を避けようとすれば言葉に対してちゃんと向き合い、ひたすら言葉を紡ぎ続けるしかない。
そう。シェイクスピアがそうしたように。
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