「いき」の構造/九鬼周造

訳あって九鬼周造の『「いき」の構造』を読み返した。

本というものは面白いもので、どんなタイミングで読むかによって印象が大きく変わる。
今回はひとつ前で紹介したジョルジュ・バタイユの『エロティシズムの歴史』『内的体験』、あるいは、シェイクスピアの『オセロー』『アントニーとクレオパトラ』などを読んだばかりだったこともあって、ヨーロッパと日本における恋愛観や性の問題の捉え方、あるいは、自然観(人工観)の違いについて考えることができたように思う。

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この本のテーマは、江戸期に生まれた日本人の美意識である「いき(意気)」であり、著者はそれを日本独特の美意識として捉え、哲学的な分析を行っている。
結論からいえば、著者は「いき」をこう定義している。
運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。

ようは男女の間(まあ、人によっては同性間のこともある)での「媚態」に関するひとつの姿勢に関する美意識が「いき」だというわけだ。つまり、エロティシズムに関するものといってよい。

これまた、結論からいえば、上の引用で「諦め」とあるように、このエロティシズムは結局、男女間の交わりという観点からいえば、すんでのところで目的を果たさずに足踏みをする。目的を果たすのは、むしろ、いきとは反対の野暮であるという美意識だ。
ひとつ前の「エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ」で紹介したように、バタイユはエロティシズムを獣的な性行為の禁止がエロティシズムを誘発する条件であると考えたが、性行為そのものから距離を置く点では、九鬼が分析した日本における「いき」と、バタイユが分析した「エロティシズム」には共通点がある。

けれど、似たことろはあっても、やはり九鬼がいうように「いき」はエロティシズムとは異なる日本独特の美意識であるように思う。

「武士は食わねど高楊枝」の媚態版

バタイユが言うように、西洋のエロティシズムの根元に「禁止」があるのだとすれば、日本の媚態には「諦め」がともなうことで「いき」となる。
「粋な浮世を恋ゆえに野暮にくらすも心から」というときも、恋の現実的必然性と、「いき」の超越的可能性との対峙が明示されている。

恋は成就することを願うが、現実となったら野暮だというのが江戸の人々の考えだったようだ。恋の成就の可能性を「諦め」とともに超越するところに「いき」はあるという。



これは日本の文化にあった仏教的精神性、色即是空や諸行無常というように、自然を、世界を、すべて無常なもの、非-全体的なものとして諦めるところからくるのだという。それが「武士は食わねど高楊枝」だとか「宵越しの銭は持たぬ」といった江戸の精神性とあいまって「いき」の背景をなす。
「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳の俠骨」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべかざる気品・気格がなければならない。「野暮は垣根の外がまへ、三千桜の色競べ、意気地くらべや張競べ」というように「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強みをもった意識である。
九鬼周造/『「いき」の構造』

というわけで、媚態でありながら、対象となる異性に対して、完全には接近しきらない反抗心をあわせもつのだという。
「媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである」というわけで、まさに「武士は食わねど高楊枝」の媚態版である。

西洋と日本の自然観の違い

この「いき」の感覚は、まさに日本人の自然観を反映しているように思う。諸行無常な自然を受け入れ、西洋のように永遠を望んだ石の建築を築き上げるのではなく、時とともに朽ち果て、やがて自然にかえっていく木と紙の家屋をつくる日本だからこそのエロティシズム。

1人の絶対的な手の届かぬ神という形の背後に近寄りがたい自然への畏怖を隠してしまい、それでいてカーニヴァルなどでは神への冒涜を通じてエロティシズムを解放する西洋に対し、八百万の神という親しみやすい日常的な神=自然とともに、里山という自然と人工が混ざり合ったような社会で、複式夢幻能のようにあの世とこの世が簡単に混ざり合うような演劇の果てに、「いき」を体現するひとつの芸としての歌舞伎などを生む日本の「いき」な媚態。



自然に対して完璧なまでに距離をとり、自然と人工という二項対立の罠にみずからかかったまま、現代の社会を築き上げてきた西洋的なものに対して、どこまでも自然と人工との差をあいまいにしたまま、本質的には過去からのつながりを断ち切れずに、いつまでも人工の技に自然の力を沁み渡らせたまま、ここまで来た日本の姿勢の違いがなんとなく、バタイユのいうエロティシズムと、九鬼周造のいう「いき」の違いにあらわれているように感じる。
そうして異性間の尋常ならざる交渉は媚態の皆無を前提としては成立を想像することができない。すなわち「いきな事」の必然的制約は何らかの意味の媚態である。しからば媚態とは何であるか。媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いわゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示している。

自然を完全に切り離し、自己という一元性に過度に固執するから苦しくなったのがいまの西洋的発展ではないだろうか。
それに比べて自身と他者としての自然とのあいだに常に付かず離れずの色っぽい距離を保ちながら、しっぽりやってきた二元的な日本。

そんな日本的なあり方が、いまの微生物学などの観点からあらためて自然と人間の境のあいまいさが問われてる時代に求められる姿勢であるようにも思う。

「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心。はて、いまの日本にも残ってる?

ただし、その日本的なものの発見も、この九鬼周造の「いき」を理解しただけではなしえなくて、やはり、あの強烈なバタイユのエロティシズム観との対比ではじめて見えてくるものだろう。
人間とは、自然を否定する動物である。人間は労働によって自然を否定し、これを破壊して人工的な世界に変える。人間が自然を否定するのは、生の創造的活動の側面においてであり、また、死の側面においてである。近親婚の禁止とは、人間になりつつある動物が自己の獣的な条件に対し抱いた嘔吐感の結果のひとつである。動物的なものの取るさまざまな形態は、人間性という意義を帯びた、光に満ちた世界からは排除された。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者、「無窮に」追跡して仆れないアキレウス、この種の人間だけが本当の媚態を知っているのである。そうして、かような媚態が「いき」の基調たる「色っぽさ」を規定している。

自然の全面的な否定する西洋と、自然とも付かず離れずの付き合いができる日本。
それ故に、「いき」は媚態の「粋」である。「いき」は安価なる現実の提立を無視し、実生活に大胆なる括弧を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。一言にしていえば、媚態のための媚態である。恋の真剣と妄執とは、その現実性とその非可能性によって「いき」の存在に悖る。「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。

さて、野暮な浮気の話題が尽きぬ、いまの日本に「恋の束縛に超越した自由なる浮気心」としての「いき」がはたして残っているかどうかはあやしいところだ。
武士は食わねど高楊枝ができるかどうか。



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