エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ

以前に紹介した本、『形象の力』の冒頭、エルネスト・グラッシはこんな謎めいた言葉を綴っている。
人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

ここで綴られていることは、今回、紹介する『エロティシズムの歴史』でジョルジュ・バタイユが「人間とは、自然を否定する動物である」というのと同じだ。

エロティシズムの歴史


しかし、人間がどんなに自然を否定しようと、グラッシも気づいているように「目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいる」。
そして、人間が一度は切り捨て、闇に葬り去ったはずの、自然との紐帯が何度も人間のもとに闇のなかから回帰してくるからこそ、本書の主題であるエロティシズムも成立する。

エロティシズムとは一言でいえば、自然あるいは獣性と見えないほどの糸でつながっていることに気づいた人間の拒絶と欲望の入り混じった両義的な有り様だといえるだろう。

闇に葬られた3つのもの

原始的な時代からすでに、人間が禁止をし、自分たちの社会から日常から遠ざけ、夜の闇のなかに隠していたものが3つある。
それが性行為であり、排泄行為であり、もう1つが死である。
禁止の対象となる自然領域とは、性と汚物の領域にとどまるものではなく、死の領域をも包含する。
(中略)
排泄物や近親婚や経血や猥褻を対象とする禁止と同じく、屍体や殺人に向けられる禁止は、たえず広い範囲で観察されてきた。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

これらはいずれもドロドロと不定形であるが、その粘着性のある感触、臭いをともなう発酵性の存在こそ、自然の本来の姿にほかならない。



「臭いに関して動物は不快感を示さない」。人間だけが悪臭を嫌う。性に関しても同様で、動物は人間のようには裸体に欲望を燃え上がらせたりしない。死に関しても同様で、バタイユは『内的体験』でも「死は人間を動物性へと投げ返すけれども、動物は死を知らない」と書いている。

つまり、それらの自然を嫌悪し、それを自らの社会から排除するのは動物にとって当たり前の行為なのではなく、人間だけが行うきわめて人間的な行いなのだ。それら3つを自分たちの側から遠ざけ、闇に葬ること自体が人間化そのものだと考えてよい。
人間は労働によって自然を否定し、これを破壊して人工的な世界に変える。人間が自然を否定するのは、生の創造的活動の側面においてであり、また、死の側面においてである。近親婚の禁止とは、人間になりつつある動物が自己の獣的な条件に対し抱いた嘔吐感の結果のひとつである。動物的なものの取るさまざまな形態は、人間性という意義を帯びた、光に満ちた世界からは排除された。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

動物性を遠ざけることで、人間は動物と自然とのあいだにあったつながりを失い、自らあらためて世界の意味を自分たち自身でつくりあげなくてはいけない動物となった。
それがグラッシが『形象の力』で指摘していることにほかならない。
動物は自分の環境に生きる。自分の行動様式は自分が使用する意味指示に生れながらに規定されているのだ。〈自分を形成する〉のは、動物には該当しない。それに対し人間の方は〈世界未決〉である、あるいは-別のまとめ方をすると-世界を持たない。人間は自らを〈形成〉しなければならないのだ。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

「人間は労働によって自然を否定」する。この人間がする労働こそが人間が「自らを〈形成〉」する活動にほかならないだろう。人間は自らの意味を自らの労働によって作りあげ続けている。そこに自然なものは何もない。すべてが人工の世界なのだ。

禁止したものの回帰

「ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか」。
グラッシ=ぼくが気づくように、人間はつねに性や汚物、死を暗い夜の闇のなかに遠ざけようと、決して自然からは逃げきれない。



禁止したものが再び浮かび上がってくるとき、人間は獣に回帰してしまうのではなく、きわめて人間化された仕方で禁止に対処する。そのひとつが怖れの対象を聖化することであり、その近接しえないものとして聖化された対象を侵犯しようと欲望することである。
実際、われわれがやがて見るとおり、エロティシズムが形成されるためには、怖れと魅惑との交互作用、否定とそれに続く肯定という交互作用が起こるということが、論理的に当然なものとして含まれているのである。そういう肯定は、それが人間的であり(エロティシズムであり)、ただ単に性欲的でなく、動物的でないという点で、直接=無媒介的な前者(すなわち否定)とは異なっている。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

禁止され近接不可能なものとして捉えることで、否定的な侵犯は可能となり、それ自体が欲望の対象となる。
そのエロティシズムな欲望から生じる活動は、通常の労働のような生産性とは異なる活動となる。
労働が獲得のためのものであるとすれば、エロティシズムな活動はただただ蕩尽する活動である。
しかしながら愛がふたりの愛人たちを結び合うのはただ蕩尽するためだけなのであり、快楽から快楽へと、歓喜から歓喜へと進んでいくためだけなのである。彼らの共同体は消尽の共同体なのであって、獲得の共同体である国家とは正反対なのである。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

この蕩尽の活動を社会のなかにしっかりと保持していたのが、贈与社会におけるポトラッチのような風習であり、中世〜ルネサンス初期まではみられた祝祭である。

祝祭的な侵犯

これも以前に紹介した本だが、『シェイクスピア・カーニヴァル』でヤン・コットはこう書いている。
農人祭から中世、ルネサンスのカーニヴァルや祝祭まで通して、人間精神の高尚英邁な性質は片はしから-バフチーンが説得力豊かに示してくれたように-(特に排泄、放尿、性交、出山といった「下層原理」に力点が置かれた)肉体的諸機能に取って代わられる。カーニヴァル的知においてはそれらこそが生命力の精髄である。生命の持続を保証してくれるものだからだ。
ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』

排泄、放尿、性交といった人間が原初に闇へと葬った獣的で肉体的な諸機能が回帰してくるのがさまざまな祝祭である。



この祝祭の場においては、通常の社会における価値が転倒される。価値のあるものを生むための労働は、破壊的に価値を蕩尽・浪費する活動に座を奪われ、生活の必需品である財に代わって、ただただ浪費されるための財が場を彩ることになる。
例えば、バタイユはレヴィ=ストロースの紹介するシャンパンの例を挙げる。
というのもそうした財は祝祭という性質をおびており、その財がその場にあるということだけでもう他と異なる時間を、つまりありふれたどうでもよい時間とはまったく異なった時間なのだということを提示するからである。そしてそもそもそういう財は、ある深い期待に応えるために、まさしく無際限になみなみとつがれ、溢れるべきであり、また当然溢れるはずだからである。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

溢れて、消尽されるための財としてのシャンパン。
このシャンパン同様、エロティシズムとつながる性行為は生殖行為とはかけ離れている。それは獲得のためではなく、蕩尽のためのものだといえる。

人間自らが、自分たちのためにつくりあげた価値を消尽しつくすための活動としての祝祭、そんな祝祭の色を帯びたエロティシズムが帰結するところは、マルキ・ド・サドが描き出した世界にほかならない。
つまり、エロティシズムには攻撃的な憎悪の運動があり、裏切りの運動がある。(中略)この点に関して、サドのシステムはエロティックな活動の首尾一貫した形態であるに過ぎず、それも最も贅沢な形態である、モラルに関する意味で孤絶していることは、さまざまな制度の拘束から解除されることを意味するのであり、そもそもそれこそが消尽の意味を与える。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

サディスティックなエロティシズムは、意味のあるものを無慈悲に消尽しつくすことで、他者の意味、そして、自分自身の意味から、自分を他者を解放する。
それはいかなる既知からも身を引き離そうとする非知のためのバタイユの内的体験と重なる(前回の記事「征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する」を参照)。

機械的な獣

だからこそ、生殖行為から離れていながら社会的に手名付けられた現代における性欲ほど、この本でバタイユが説明するエロティシズムから遠いものはない。
AVをはじめとする性的産業によってきちんと教育されきった性欲は、ひとつ前の記事「征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する」で言及したルーティンから外れると思考停止になることと同じ類のものである。
それは考えがないという意味では獣的ではあるが、自然からも切り離されているという意味では機械的な獣ではないか。



バタイユはこの本の意図をこう説明している。
「普遍経済論」の第2巻である本書が追求しようとしてるものがなにであるかというと、それは人間たちの活動を、自らの諸資源の無益な消尽という目的以外の他の諸目的へと服従させるようなさまざまなイデーを全般的に批判することである。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

「自らの諸資源の無益な消尽という目的以外の他の諸目的へと服従させるようなさまざまなイデー」。これこそが人間を機械的な獣にして、獲得ばかりを企図した労働の奴隷へと陥れるイデーにほかならない。

留保なしに自己を喪失する欲望

その反対に、バタイユは「自らの諸資源の無益な消尽」を目的とした活動の重要性を置く。

有益と思われる知を破壊すること、いつも使っているやり方を疑い捨て去ること、知っているつもりから自らを解放し、安易に知ってる状態に満たされることを断固拒否すること。そうした否定にこそ、次のものの生成はある。そんな性や排泄、死がもつ生成の側面にこそ、バタイユは目を向ける。
死とは間違いなく世界の青春である。われわれにそれがわからないのは、わかろうとしないのは、次のようなかなり悲しい理由による-われわれは若々しい感受性をも持ち合わせているかもしれないが、それで知性がいっそう目覚めることはない。そうでなければ、死が、死だけが、たえず生の若返りを保証するという事実を、どうして知らずにいられようか。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

いまあるものを消尽しない限り、若返りは果たせない。ルーティンを破壊しない限り、新たな活動はなしえない。それは知に関することでも同様であるからこそ、バタイユはあらゆる知を、機械的で人工的な知の体系を破壊しようとする。そうした機械的で人工的な知によって形作られた、ありもしない〈私〉というものを捨て去るよう、僕らに警告する。

〈私〉を捨てるためには、外部との交流が必要だ。外から征服され、〈私〉を外のものとのあいだに融解させていく。もちろん、そのとき、外から来たものも元の姿を保ってはいない。それが交流であり、バタイユがこの本で取り上げた贈与社会における交換であろう。
そして、何よりそれはエロティシズムの領域で生じることにほかならない。
2つの世界の間のこれほどに際立った差異を感知させるのに、エロティックな生の領域ほど好個の実例はない。そこでは、対象が主体と別の次元に位置することは稀れであるから。官能的欲望の対象となるのは、本質からして、もうひとつの欲望である。官能の欲望とは、自己破壊とは言わぬまでも、少なくとも燃焼する欲望、そして留保なしに自己を喪失する欲望である。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

自己破壊の欲望、留保なしに自己を喪失する欲望。
自己というものの死からしか、自己の若返りは計れない。それなのに、凝り固まった思考を積極的に破壊せずに、その場に安住することに満足してしまうのは、いったいどういうつもりなのだろうか。

なぜ、もっと積極的にルーティンを離れ、自らを消失させる不安の闇のなかへと自らを融解させようとしないのだろうか?
そんな虚しい思いにつぶされそうな気持ちになるとき、バタイユの放つ言葉は普通とは逆の意味で心を生かしてくれる気がする。



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