だから、システムに沿って受動的に動いてもらうより、何らかの概念を理解してもらい、その概念の存在を信じて受け入れてもらったほうが人は主体的に動くようになる。その概念があまりに当たり前になって普段は意識することもないくらいに自然なものになれば、その概念に関連した行動はもはや自動的なものにすらなるだろう。
例えば、喫煙は他人の迷惑のかからない喫煙エリアで行うとか、性的指向は多様なのだから性的少数者の権利も認めるのは当然であるとか、それらはルールやシステムの問題である以上に、考え方、どのようなコンセプトをどう信じて行動する上での判断基準として用いているかという問題である。もちろん、人が信じる判断基準と現実のルールやシステムに乖離があれば、現行のルールやシステムを改編する必要があるが、その逆にルールやシステムの側から変えようとすると、一部の人には心理的な違和感が生じてしまうこともあるはずだ。
いくつか前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」で、シェイクスピアの戯曲『オセロー』の主人公が恋愛に対して初心すぎて恋愛については紋切り型の瑣末な知識しか持たなかったがゆえに、自分を憎む部下に欺かれて、愛する妻の浮気を疑い、怒りのあまり殺してしまうという痛ましい結末に至る際の、言葉=知識のもつ力の怖さについて触れていたが、それも同じことだ。浮気は裏切りであるという考えと、悪どい部下の吹きこむ偽りの言葉があまりに安易に結びついてしまい、ありもしない浮気を疑い、愛する妻の殺害へというどう考えても高いエネルギーを必要とする行動へと主人公の思考を動かしてしまう。
そういう観点からみれば、組織やコミュニティにおいても、単にルールやシステム、やり方などだけを共有しているものよりも、価値観だとか文化とかを共有しているもののほうが、組織や集団としての行動力は強くなるはずである。
強烈に価値観が共有できていれば、その組織やコミュニティがもつ力は強力なものになるだろう。
頭脳的な性的活動としてのエロティシズム
そんなことを最近考えているなか、ジョルジュ・バタイユの『エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』を読み始めた。バタイユは、その本で、動物における性的活動と人間的な性的活動の違いに触れ、人間の場合にのみ、動物的性的活動に加える形で存在する「頭脳的な活動」をエロティシズムとして扱っている。
頭脳的な活動ということによってなにを指しているかと言えば、つまりそれ自体としてはなんら性的な意味を持たず、また性活動に対立する意味もまったく持たないような諸々の事情や存在たち、場所や時間などに、性的な資質を付与する傾向を持つ連合作用とか判断の働きなどである。たとえば裸体の意味とか、近親婚の禁制などがそうであるように。こうして純潔ということ自体もエロティシズムの諸々の様相のうちのひとつであり、つまりは本来人間的な性活動のひとつのアスペクトなのである。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』
このエロティシズムの例などは概念というものがどれほど、人を激しく行動に突き進ませるかということを示してくれるものはないのではと思ったりする。
人を行動に促す「頭脳的な活動」としてのエロティシズム。
それは先ほど紹介した『オセロー』における紋切り型の拙い知識や、「どこまで愛されているのかその限界を知りたいの」で取り扱った同じくシェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』における誇張表現における言葉というものが、いかに人の心を動かし、行動へと誘うかという点から、そのうち、バタイユを読もうと思わせたからだが、もう1つ、バタイユを読みたかった理由がある。
それは、この『エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』という本のサブタイトルにもなっているように、これがエロティシズムというものを「普遍経済論の試み」として扱ったものだからだ。
バタイユに私淑する
バタイユは『エロティシズム』という別の本(書評記事)でこう書いている。自分の姉妹を贈与する兄弟は、自分の近親の女との性的結合の価値を否定するというよりはむしろ、この女を他の男と結びつけ、また彼ら自身を他の女と結びつける結婚のより大きな価値を肯定しているのである。気前のよさを基底にした交換には、直接的な享楽よりももっと広汎で強烈な交流がある。より正確に言えば、祝祭性は、運動の導入を、自己閉塞への否定を前提にしているということだ。(中略)性の関係は、それ自体、交流であり運動である。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』
性の関係を、交流、運動、そして、何より贈与経済(ギフト・エコノミー)における非等価交換的なものに結びつける視点がバタイユにはある。
この『エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』の目的としてバタイユ自ら、"「普遍経済論」の第2巻である本書が追求しようとしてるものがなにであるかというと、それは人間たちの活動を、自らの諸資源の無益な消尽という目的以外の他の諸目的へと服従させるようなさまざまなイデーを全般的に批判することである"と書いて、生産性や合理性、有用性を重視する現在の資本主義経済に慣れきった僕らからみれば、あきらかに非合理な贈与経済がもつ「資源の無益な消尽」という、きわめてバタイユ的なテーマを扱うことを宣言している。
あらためていえば、僕自身がいまのように考えることができ、その考えの根幹を成す作法を教えてくれた私淑の師ともいえる人は何人かいるが、バタイユはそのなかでも大きな存在のひとりだと思っている。
例えば、バタイユのいう「非-知」。この閉じた知に対する開かれた姿勢を問うコンセプトなどは常に僕の知的活動、考えを巡らす際の底流を成している。
無知ではなく、非知。
酒井健さんは『バタイユ』でこう書いている。
知の衣を脱がす、あるいは切り裂くことこそが、非-知の第一の働きである。そうなると、人は不安に駆られるが、その不安を笑い飛ばすというのも、非-知の働きにほかならない。そしてさらに非-知は恍惚を伝達する。恍惚とは、西洋語の原義では脱自つまり自分の外に出ていくことである。酒井健『バタイユ』
僕がわからないことの不安に向きあうこと、自分のわかっていることの外に出ることを事あるごとに推奨するのも、バタイユが教えてくれた、こういう非知というものの価値がすっかり染みついているからだと思う。
そして、この非知における「脱自つまり自分の外に出ていく」というオープン性は、先の贈与経済における外部との交流に重なることがポイントだ。しかも、それは非等価交換的な関係性である限りにおいて、等価交換のような共通のシステム=共通言語を有しない関係、つまり、相手のことにかんして知らないことがあるという状態であるというのが重要なのだと思う。
天の底が開いたような感覚を伴うそれらの瞬間の代わりに、空虚な思考をすえてしまう
そんな事前のバタイユに関する知識があって、価値観が人をどう動かしうるか、そして、それらが今後の組織やコミュニティのあり方にどのような影響を与えうるか?という観点から、この『エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』を読み始めたのだが、のっけから心をぞわぞわさせる、こんな一文にぶち当たって動揺した。人間存在は、たとえ最もつつましやかで、教養を身につける機会に恵まれなかったような存在であっても、可能なるものの経験を有しており、さらには可能なるものの総体の経験さえも有している-そしてそういう経験は、その深淵さと激烈さという点で、偉大な神秘家たちの経験に近づいているのである。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』
ぞっとした。
バタイユの思考というのは基本的に残酷だ。容赦がない。ヒューマニズム的な温かさのかけらどころか、痕跡さえない。
どこまでもサディスティックで、そのへんも僕は思考のスタンスとして学んでいると思う。
そんな感じは衝動的に受けるのだが、この一文だけだと「可能なるものの経験」が何かがイメージできない。
でも、バタイユが何かすごく本質的なものを抉りだそうとしていることだけは、バタイユを読み慣れていると一瞬にして感じとれるから、ぞっとする。
それが、もうすこし読むと、この「可能なるもの」が何かという輪郭くらいは見えてくる。
こんな一文から。
エロティシズムに関わる生活が問題とされるとき、大多数の人々はこのうえもなく通俗的な考えをもって対処することで満足してしまう。一見するとそれが卑猥な外観を呈しているというところに罠があるのであって、彼らがその罠に落ち込まない場合は稀れである。そうしてそのことが平静さを保ちつつ、生のエロティックな側面を侮蔑する理由となる。さもなければ彼らはこの醜悪な外観を否定してしまおうとする。それでこんどは侮るのではなく、陳腐な俗っぽさに移行する-「自然のなかには穢れたものは何もない」と断言するわけだ。いずれにせよわれわれはうまく都合をつけて、ほんとうはわれわれにとって天の底が開いたような感覚を伴うそれらの瞬間の代わりに、空虚な思考をすえてしまうのである。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』
僕らはほんと常にすぐに「空虚な思考」ばかりにまみれたがる。
バタイユは「空虚な思考をすえてしまう」と書いているが、もっとひどいのはそれさえせず、すえることすらせず、誰かが先にすえた「陳腐な俗っぽさ」にたよることだ。
そうすることで失ってしまっているのは「われわれにとって天の底が開いたような感覚を伴うそれらの瞬間」という大切なものであるというのに。
コミュニティに、そして、社会に、いかにして「消尽」を再導入するか?
だからこそ、バタイユは安易にエロティシズムの問題を安易な知へと回収しようとはしない。むしろ、「知の衣を脱がす、あるいは切り裂く」非知とつながるものとしてエロティシズムの問題を扱っている。だからこそ、エロティシズムは「教養を身につける機会に恵まれなかったような存在であっても」それを有するような「可能なるものの経験」としてあるのである。
そして、ここが実ははじめに書いた、コンセプトや価値観を共有する組織やコミュニティは強いといった場合の組織やコミュニティのあり方をさらに2分するポイントになる。
つまり、
- 言語化されたヴィジョンや哲学などによってまとまった組織・コミュニティ
- エロティシズムがそうであるような非知によってつなった組織・コミュニティ
という2つの区別があるのだと思う。
あえて、いじわるな形で言い換えればこうだ。
「空虚な思考をすえて」「陳腐な俗っぽさ」によってまとまる組織・コミュニティと、「天の底が開いたような感覚を伴う瞬間」を共有するコミュニティだと。
かつては一切が一部の人々の利益に奉仕していた。そこでついにわれわれは、いっさいがすべての人々の利益に奉仕するような決意を定めたのである。ところが実際に適用されるとすれば、この後者の体系のほうが、その奉仕のシステムがより完璧であるという点において、はるかに不吉なのだ。だからといって前者の体系に復帰するという理由にはならない。しかしもしわれわれが消尽をわれわれの活動の至高の原理としないならば、われわれはあの途轍もない破産の混乱のなかで滅びる以外にないだろう-そうした大混乱によるのでなければ、われわれは自分たちが手にするエネルギーを消尽するすべを知らないからである。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』
経済格差などの問題を前にして、そして、さまざまなものの消費などに関するエシカルな観点からも、より包括的な視点で幸福とは何かを問い、暮らしのあり方を問い直す方向へのシフトが社会的な方向性としてみられるが、このバタイユの言葉をみると、そのきわめてエシカルで、吝嗇的な考え方にこそ、実は破産への危機が潜んでいるのではないかとも感じる。
人間のなかのエネルギー、そして、人間ときわめて深く結びついた微生物たちのエネルギーも含め、あまりに吝嗇的な視点で知的にコントロールしようとすれば、行き場をなくしたエネルギーがいつ突然、不幸な形での爆発を起こさないとは限らない。
われわれは人間存在を-その意味するところを-捕捉しようとすると誤りやすい様態でそうする以外にはないように思える。なぜなら人間は絶え間なく自己に矛盾するふるまいを行なうからであり、善意から卑劣な残酷さへと、深い恥じらいから極端な淫らさへと、このうえなく魅惑的な一面から最も醜悪な面へと突然移行するからである。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』
バタイユがいうように「人間は絶え間なく自己に矛盾するふるまいを行なう」ものだと思う。
けれど、そうはいっても社会的な流れは、この矛盾する人間のうち「善意」の面、「深い恥じらい」をもった面、「このうえなく魅惑的な一面」だけを見ようとする傾向に加速し、これらに関連したコンセプトを元に、組織やコミュニティを再編しようとする方向性をもっている。
それは「自然のなかには穢れたものは何もない」と信じてしまうようなもので、あきらかにいつ起こるかもしれない「天の底が開いたような感覚を伴う瞬間」のことを軽視しすぎているのではないかと心配になる。
だとすれば、いかにして「われわれは自分たちが手にするエネルギーを消尽するすべを知」り、それを社会へと再導入することができるだろうか?
いま、そのことにすごく関心がある。
だからこそのバタイユへの再私淑である。
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