知っていることより大事なこと。それは新しいことを知ることができるということ。

常々、思う。
たくさん知識をもっていることより、もっと大事なことがあるって。

もっと大事なこと。
それは新しい知識をどんどん手に入れ、自分でそれを扱えるようになる能力をもつことだ。



知らないことでも聞けば瞬く間に知っている状態に移っていける。
その力さえあれば、いま、どれだけ知識を持ってるかはそんなに関係ない。
だって、必要なときに必要なだけ一気に手に入れ、扱えるようになればいいのだから。

そう。その意味ではどんどん手に入れ、それを扱えるようになる力にはスピードがともなっている必要がある。

だったら、常日頃から知識を徐々に手入れておけばいいじゃないかって?
いつ何の知識が必要かもわからず、闇雲に知識をたくわえておくというのはあまり意味がある気がしない。

もちろん、興味がある知識を常日頃から手に入れるのはもちろん意味がある。
だって、興味があって知りたいのだから、その欲望を満たせばいい。

でも、いつ役に立つかわからない知識を勉強だからといって、詰め込むのは、義務教育の頃だけで十分ではないだろうか。
すくなくとも大人にそんな知識がいらない気がする。
そんないらない知識を学ぶ暇があったら、いますぐ必要な知識を得ることと、何より知識を必要なときに必要なだけ手に入れ、使えるようになるための土台となる理解術や思考法を身につけておいたほうがいい。
だって、いまの時代、必要な知識など、次々と変わるんだからストックしておくことなんて、ほとんど無意味だから。

わからないことをわかるための行動のバリエーション

新しい知識をどんどん手に入れ、自分でそれを扱えるようになる能力をもつには、どうすればよいか。
それにはまず、とにかくわからないことから逃げないことだ。わからないことは知ろうとする姿勢を常にもっていることが大事だ。わからないことが好きになるくらいがちょうどよい。

誰かが何かわからないことを言ったとする。そのとき、わからないで終わりにするのではなく、なんでもいいからわかるための行動ができているだろうか。

自分ですぐに検索して調べるでもよい。
相手に直接どういうことなのか質問してもよい。
話のあと、他の誰かに聞くのでもよい。
いや、言葉の意味とかはわかっているなら、それがどういう意味を持つのかを、自分で考えてみることも必要だろう。
違うものに置き換えてみたらどうだろうと考えてみるのもよい。
相手のいったことと、自分であとから調べた情報を、紙に図式化してみたりしながら、情報の構造、話の文脈を明らかにすることで話の筋を理解しなおしてみるのも効果的だったりするだろう。
具体的なイメージがわかないのだったら見に行ったり、体験しにいくことが必要な場合もあるだろう。
人間という有機体、この思考を恵まれた肉体には2種類の思考をという選択肢などない。ただ1種の思考あるのみで、有機体全体がそれに沿って働く。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

とにかく、わからないことをわかるための行動のバリエーションをどれだけもっていて、どれだけそのバリエーションを使いこなせるか、使いこなしているかだ。
わかるための行動ができなければ、わかるようになるはずはない。
この当たり前のことが本当の意味でわかっているかどうかだ。
頭がいいとか悪いとかは、もっとずっとあとの話なのだと思う。

わかるための行動ができるか、まあ、ありきたりな言い方をすれば好奇心をどれだけ持っているかだ。



わからないものの前にずっと対峙し続ける

わかるための行動という意味では、わからないことの前にどれだけ辛抱強く対峙できるか?ということもある。

例えば、わかりにくい本。どれだけそれを読み続けられるか。一度はやめても、また、チャレンジしてみようという気になるか。
わからないとあきらめてしまったら、わかるようにならないというのは当たり前すぎるほど当たり前だ。だとしたら、あきらめることをせず、どれだけわからないものを相手にし続け、わかるための手がかりを得る姿勢をとり続けられるか。

ずっとわからないものなんて基本的にない。しかも、わかるということは正解を得ることではない。
こんなカリキュラムは、僕らにはもう不要だろう。
カリキュラムとは、伝統的な陸上競技からとられたメタファーである。走路と同じく、カリキュラムは生徒が沿って走らなければならない道筋のことである。
ピーター・バーク『知識の社会史』

自分とわかろうとする相手との関係を築き、その関係をもって、その対象を自分のものにする、自分にとって有益なものにすることができるかどうかだ。

関係性をつくるのだから、相手に向き合い、自分から相手に飛び込まないと、わかりあうという関係になるはずはない。
それは相手が知識や情報でもまったく同じことだ。
人間を相手に本心だとか、考えていることを正確に知ることが相手を知ることではなく、どう自分と相手とのあいだに関係をつくるかというほうが相手をわかるということに近いのと同様、知識や情報だってそういうものだということを案外、わかることが苦手な人はわかっていない。

わかるということは付き合えるということなのだ。



違いを自分でつかんでみる

違いに敏感になるというのも、わかる力をつけるためには大事なことだ。
なんでも、おおざっぱに同じものにくくってしまわないこと。どれもこれも同じ言葉で呼んでしまわないこと。
流行りのせりふを真似してばかりで、自らのボキャブラリを増やすことを怠らないこと。言葉を常に見つけるくらい、いろんな呼び方、いろんな表し方、いろんな言い回し、いろんな説明の仕方を駆使することで、相手にしているものの些細な違いを見つけられるようになること。

違い、それは価値であり、価値こそわかる必要があるものなのだから。
芸術家は常に新たな可能性を示す緊張した現実の証人であり、人間の本質と人間の世界を形成する挫けることなき精神の自由の証人であり、あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者である。この意味でボードレールは特殊なアクセントを置いて〈新しさ〉の機能を顕彰したのだった。〈新しさ〉は驚愕をよびおこし、不安に陥れる、というのもすでに解釈済みのものをもっと遠く地平の向こうへと押しやり、疑問を掻き立て、ファンタジーを刺激するからである。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

何がどう違っているのか考え、それを言葉にしてみる。
並べてみて、比較してみて、見えてきた違いを言葉にしたり、図にしたり、構造化したり、フローにしたり。
その違いが何なのかを表現してみる、動きのなかに入れてみる、生活のなかに、仕事のなかにいれてみる。
違いを動かせるように、役立てられるように、違いを自分でつかんでみる。

そんなことを日々、やってみることで、わからないものたちと付き合えているだろうか?
それとも、そんなことは避けて、とにかく保守的に、守りに入って、自分が信じてるふりしているルーティンに逃げ込んではばかりはいないだろうか?

  

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