どこまで愛されているのかその限界を知りたいの

誇張するなら、限界を超えて、いまだないものを創造するほどに誇張するべきなのかもしれない。
クレオパトラ どこまで愛されているのかその限界を知りたいの。
アントニー それならば新しい天、新しい地を見つけなければなるまい。
シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』1幕1場14-17行

シーザーなきあとのローマ帝国、三頭政治をしく3人の執政官のひとりアントニーこと、マルクス・アントニウスと、エジプト・プトレマイオス朝の女王クレオパトラが、ともに恋に身を滅していく様を描いたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』
その戯曲は、『シェイクスピアの生ける芸術』のロザリー・L・コリーに言わせると「身の程知らずの張喩」が目につく作品だという。



張喩、つまり、誇張表現。

それは先の引用でもみたとおりで、2人の間でも互いに交わされるし、2人を取り巻く人々も良い意味でも、悪い意味でも、2人のことを誇張した調子で表現する。

それゆえ、「アントニーは何をしても、「尺度を超えてしまう」かのように見える」し、クレオパトラを「我々は、彼女が礼儀に背いても、悪ふざけがすぎても、愚かな中年女でも、それでもなお魅力的であると感じさせられる」。
まこと、アントニーとクレオパトラは己れ自身について、また互いについて、誤った印象を抱いていたり創り出していたりしていたかもしれない。だが、彼らは何か別のこと、何かきわめて尊く、きわめて詩的なことを試みていたのである。等身大よりも大きいという己れの自身の確信と感覚を言葉にしようと試みること-するとそこには、ありきたりの人間が用いる表現様式よりもさらに広大な様式が求められる。

「誤った印象を抱いていたり」「創り出していたり」、つまり、ありもしないものをでっちあげているといえるのかもしれない。だが、しかし、それを一つ前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」でみた恋愛に初心なオセローがステレオタイプのありきたりの言葉に動かされ、彼の大事な恋を失う悲しみに落ちていく様を思い出すと、はるかに、このアントニーとクレオパトラは羨ましく感じられものではないだろうか。
二人はそんな並外れた幸福を得るために、「ありきたりの人間が用いる表現様式よりもさらに広大な様式」によって自らを語り、互いを語り、そして、まわりの人たちからもその誇張表現によって語られる。

誇張表現、それはある意味、ありきたりの日常という幻想を突き抜けて、真なるものに至るひとつの方法なのではないかと思えてくる。

彼女は明らかに、一緒にいて面白い相手である

この戯曲で、クレオパトラは大仰なほど、美しく、愛らしく表現される。

彼のクレオパトラには、何よりもまず、年端もいかない娘のようなおてんばな楽しさがある。彼女は明らかに、一緒にいて面白い相手である。彼女は、何であれ一度は試みてみようとする。すばらしい想像力に恵まれ、言葉をすこぶる自在に操る。難局をうまく切り抜けようと努め、ときに成功することもある。(中略)我々は、彼女が礼儀に背いても、悪ふざけがすぎても、愚かな中年女でも、それでもなお魅力的であると感じさせられる。クレオパトラは大地のようにどっしりとしていて、地に足がついている。彼女が突発的に噴出させるリアリズムが、恋人たちのロマンティックな言動や、己れの欲望のはけ口というアントニーの単純化された恋愛観やクレオパトラ観を、点々と穿っている。この女性は、何かそれ以上のものなのである。

あらゆる誇張表現を用いて語られるクレオパトラは「何かそれ以上のものなのである」と感じられるように描かれる。



その魅力は、クレオパトラは忌み嫌うはずのローマ人イノバーバスさえ惑わせる。
さらに眼を惹く例としては、クレオパトラの魅力の源を数えあげるうちに、イノバーバスが世に知られた冷静さを失うことである。彼女の美点について朗々と語る彼の台詞は、それまでの素っ気なく皮肉な語り口とはうってかわって、大仰な言葉をとどろかせている。イノバーバスは、その台詞を語るうちに、われを忘れてクレオパトラにのめりこみ、内面をあらわにしてしまうのである。彼の性格には明らかにそぐわないその反応の熱さから、彼女の魅惑の大きさが感じられる。まこと、誇張表現に身を委ねるイノバーバスは、彼女の前で性的に乱れているかのような印象すらある。エジプトとその生活様式に猜疑の目を光らせていた皮肉屋で老練なローマの戦士も、感極まって女王を称讃する己れの声を抑えることはできないし、そうしようともしないのである。

あまりに大きな魅惑を語らなくてはならない際に用いられる誇張表現が、日常の冷めて凝り固まった見方に風穴をあける。それは日常から何かを滲み出させ、ほとばしらせる。

ありきたりのおとなしい表現のほうが現実か、それとも、ありえないような誇張表現で描かれたもののほうが現実なのか。どうも後者のほうであるような気がしてならなくなる。
では、日常にはびこるおとなしすぎる言葉の数々はいったいなんなのだろう?

人々は「目に余る」とみなすものだけを、過剰であると認識する

誇張表現に彩られるのはクレオパトラだけではない。
一方のアントニーだって負けていない。
アントニーは何をしても、「尺度を超えてしまう」かのように見える-だがローマ人たちが過剰であると認めることができるのは、アントニーの非ローマ的所業に限られている。それ以外の彼の英雄としての部分は、ローマ人にとっては自然なのだ。とすれば、過剰とは、文化的に条件づけられているものということになる。人々は「目に余る」とみなすものだけを、過剰であると認識する。だから、クレオパトラが法外な快楽を尊ぶのと同じくらい法外な戦歴を尊ぶローマ人は、彼女の恋人であるアントニーに賞賛すべき点を多々見出すことができる。

ローマにあってはアントニーの偉大さは自然なものと映ってしまう。けれど、エジプトにあるアントニーはその本来もつ偉大さを輝かせる。だとすれば、ここでも、その偉大さを自然なものとして懐柔してしまうローマ的日常とはいったいなんなのか?

そして、アントニー本来の偉大さを輝かせるエジプト=アジア的なもの、クレオパトラとはなんなのか。



ローマ的なものに対して、アジア風と特徴付けられるものは「官能的で、放蕩に耽り、放埓で、富裕で、物質主義的で、華美で、柔弱で」あるとされる。
ある意味、アントニーとクレオパトラが愛しあう場所、エジプトははじめから誇張表現を誘発する場=トポスなのだともいえる。

だが、アントニーの偉大さは単なる誇張であるばかりではない。
彼はクレオパトラが死んだという誤った情報を耳にして、自害しようとするのだが、死に至る前にクレオパトラが生きていたことを知って、安堵する。そして、偽りの情報を流したクレオパトラを責めるどころか、彼女の安全を喜ぶ。
死に臨んで、ふつうの人間ならば責めたてているところを、極楽浄土に心を馳せ、二人でアエネエスとディドを凌いでやろうと言う。クレオパトラに身の安全をはかるようにと警告し、偉大な恋人としての最期にふさわしく、接吻を受けて死ぬ。彼女への激しい怒りも、偽りの伝言への非難も、跡形もなく消えうせている。己れの命は惜しみなく捨てても、彼女の命に対しては寛大であったのだ。
それはまさしく、誇張的な文体と即合する身振りであり、ロンギノスが絶賛した振舞いである。それは、作用すべき領域である舞台をはみだすほどの想像力をそなえた、己れの限界を超えようとする男の身振りである。アントニーにとって、二人は「比類ない人間」である。

このアントニーの偉大な身振りによって、クレオパトラは彼の偉大さをあらためて知り、その大きさがまさに「新しい天、新しい地」ほどに大きくなっていくのを感じるのである。
誇張表現が現実と化すのを目の当たりにするにつれて、我々は、はじめから等身大以上のものであった感情が成熟し、自らが創造した空間を支配し、互いの真価を敬い合うことを土台にしているのがわかってくる。

誇張表現こそが日常の誤った幻想から、僕たちを解放し、「はじめから等身大以上のものであった感情」を思い出させてくれ、そして「自らが創造した空間を支配し、互いの真価を敬い合」えるような真実の場所に連れ出してくれるのかもしれない。

たとえ、そこがどんなにあやうく、正気をなくさせる場所だとしても、心が真に動かされる場所はそこなのかもしれない。

ああ幸せな馬、アントニーの重みを身に受けているとは

アントニーとクレオパトラは劇中何度も求め合う。クレオパトラはアントニーがそばにいないとき、
あのかたは立っているのかしら、それとも座っているのかしら。
歩いているのかしら、それとも馬に乗っているのかしら。
シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』1幕5場19-20行

と想像したのち、「ああ幸せな馬、アントニーの重みを身に受けているとは」と性の記憶を湧き上がらせる。
性愛は、彼女にとって、劇冒頭でアントニーがほのめかした彼にとっての性愛、すなわち単なる「快楽」以上の意味をもつ。それは(最終的な印象として)、性愛以上のものとなって、「文学の」見地からも心理的にも定義づけできないような種類の愛に変容する。まこと、文学の見地からすれば、これら二人の恋人たちが互いに極度に求めあうさまは、慣習的な恋愛の言語と、あまりにもとも言えるほどよく響きあっている。

だから、そんなクレオパトラを前にして「アントニーは彼女といると己れが溶解してしまうかのように感じ」てしまう。そして、クレオパトラのほうは「彼がいないと己れが「無」になると感じる」のだ。



だが、そのような溶解、無に帰するベクトルこそが、エジプト=アジア的な豊穣と無縁ではないとしたら、どうだろう。
熟れること、熟れすぎること。たしかにそれは肥沃さのイメージである。とりたけナイル河のイメジャリは、生命を与えること。豊饒、創造、そしてそれらの美質とともに、腐敗や腐っていくことも強調している。行為は人を腐敗させる。行為しないこともまた同じである。

豊穣と腐敗。アントニーとクレオパトラが行ったような本物の行為は人を腐敗させるが、どのみち、人は何もしなくても腐敗していく。

オセローのようにありきたりのステレオタイプの言葉に惑わされて自らの手で腐敗を呼び寄せるのか、あるいは、アントニーとクレオパトラのように肥沃な誇張表現にひたすら彩られながら「はじめから等身大以上のものであった感情が成熟し、自らが創造した空間を支配し、互いの真価を敬い合」いながら熟れすぎて腐敗するのか。

ふたつの戯曲とも最後に待っていたのは、愛する人と自らの死だ。
だが、一方が悲劇であるのに対し、アントニーとクレオパトラのそれはむしろ幸福さえ感じる腐敗なのかもしれない。
そのふたつの戯曲を特徴付ける言葉の形式が、ありふれた紋切り型とありきたりを超える誇張表現という対比的なものであることを知ったとき、僕らはこれからどんな言葉で話していくべきなのだろうか?

 

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