知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも

嗚呼、オセロー。何故、あなたはそんなに初心(うぶ)なのか?

シェイクスピアの『オセロー』で、主人公であるオセローは愛する妻を、悪人イアーゴーに吹き込まれた妻の姦通というデマを信じて、愛するが故に殺害してしまう。
その後、妻の姦通がまったくの嘘であったことに知って、みずからも自害するという悲劇なのだが、そもそも、主人公オセローに妻であるデズデモーナを愛を語らせ、姦通の疑いから激昂させ、そして殺人にまで至らせるのが、軍人であるオセローの恋愛に対する初心さであり、それゆえにソネットなどの恋愛詩、恋愛文学の定型そのままに行動させてしまうことだというから悲劇以外の何物でもない。



無知であること。にもかかわらず、誠実でいようとする場合、オセローのような定型=ステレオタイプの罠にはまってしまい、現実とのギャップに空回りをきたし、悲劇的な結末を誘ってしまうことは少なくない。

もちろん、それは恋愛の場合に限らない。

知識が少なければ少ないほど、自分の知識が少ないことに気付きながらそれを補う努力を怠る人ほど、ステレオタイプの型に自らの判断を預けてしまい、さも自分で考え行動しているつもりながら、ほとんどを型に委ねてしまう。そして、多くの型がそれそのものだけでは機能するようできてはいないので、結局、何事もうまくいかず、より面倒な状況に追いやられる。この流れから抜け出すためには、自ら知識をつけ、「知識を元に自ら考える」という編集行為にのりだす必要がある。だが、これをやらない人は多くて、それで不幸な状況から抜け出せずに不満を並べつづけるしかなくなってしまう。

無知であること、定型を迂闊にも信じきってしまうことはその意味で実はおそろしいことなのだが、多くの人はそれに気づかない。
まさに定型っぽい筋書きを書けば、こんな流れが生じる。
  • はじめてのことに動揺する
  • どうしていいかわからないから、型に自分を当てはめようとする
  • 型は必ずしも現実の問題にうまく機能しないから、そのギャップにますます自分を見失う
  • ギャップがあるゆえに周囲の反応は自分の思ったものとは異なり、それゆえに誠実に接してくれる周りのことが信じられなくなる
  • 周囲への不信が状況を必要以上に悪いものだという判断をこれまた定型に従って信じてしまい、悲劇へと進む選択をしはじめる
  • どんどん苦しくなって、何かの拍子にうまくそのループから抜け出せない場合、悲劇的な結果が待ち受ける

妻デズデモーナを前にしたオセローの心の動きもまさにこんな流れとして定型化できる。

思考はすべて、形式によって組織化され媒介されるが、ときにそれがあまりにも自然で無自覚になされるため、知覚した当人さえも形式的知覚、形式による知覚であることに気づかない

わからないから保守的に、みずからが知っている数少ない知識としての定型にすがるという保守的な姿勢については、ひとつ前の「グーテンベルクの銀河系/マーシャル・マクルーハン」という記事でも考えてみたばかりだ。

そこで紹介したマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』自体、シェイクスピアの『リア王』から論を進め始めることからもわかるが、こうした定型的なもの、特に文学の歴史上、形成され蓄積されてきた定型をうまく編集し食い立て直すことで新たな文学形式を生み出した人こそ、シェイクスピアなのである。



そのような観点でシェイクスピアの文学を研究したのがロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』だ。
コリーは、その本で研究の意図をこう記している。
本書における私の主たる関心は、文学の形式に、そして文学が文学外の形式を用いる方法にあるが、私はもちろん、思考はすべて、形式によって組織化され媒介されるものであると考えている。ときにはそれが、あまりにも自然で無自覚になされるため、知覚した当人さえも、それが形式的知覚、形式による知覚であることに気づかないことも少なくない。探す気があれば、「形式」はどこにでも見つけられる。

この一文に今回書こうとしていることの前提が要約されていると言ってもよい。

「思考はすべて、形式によって組織化され媒介されるもの」がゆえに、「探す気があれば、「形式」はどこにでも見つけられる」。
だから、先に書いたとおりで、自分自身で考える場合であっても形式を用いるしかない。ステレオタイプを脱して思考を自分自身のものにしたければ、形式というものに対して意識的になり、編集的に形式を裏切るような組み合わせをするしかない。
それを誰よりも上手にやったのがシェイクスピアというのが、コリーの主張するところだ。

だが一方、形式がどこにでもあるのに、「探す気があれば」という前提付きでしか見つかる可能性がないのは、「ときにはそれが、あまりにも自然で無自覚になされるため、知覚した当人さえも、それが形式的知覚、形式による知覚であることに気づかないことも少なくない」からでもある。
つまりは形式に対する無知、いや無知であり好奇心が不足しすぎているがゆえに、形式の存在に気づかないということが往々にしてあるわけだ。

型にはまった恋愛観しかもっていないと、ありのままの現実を見ることができずに、別の人が描いた虚像を真に受けてしまうという罠にはまる

戦いというものに明け暮れすぎてしまい、恋愛というものに無知になってしまったオセローの場合もそれに当てはまる。



それゆえに、このような悲劇の前提が用意されることになる。

公式のロマンティックな恋愛がもつ図式群は、オセローの心理にも深い刻印を残している。型にはまった恋愛観しかもっていないので、オセローは妻のありのままの姿を見ることができず、イアーゴーの描く虚像を真に受けてしまう。デズデモーナは実のところ寛大で、率直で、献身的であり、そうした気質をソネットの定式通りのつれない恋人よりもさらに公然と示している。彼女がロマンティックな類型から逸脱しているというまさにその理由のために、オセローは、そのぶん容易にイアーゴーの見方を受け容れてしまう。つまり、現実の人物のかわりに(まこと、驚くべきことではあるが)、なじみ深い文学上の定型を受け容れてしまうのである。

オセローだって考えていないわけではない。いや、むしろ、愛する妻の不貞を心底悩み、必死に考えているに決まっている。
しかし、その考えが紋切り型に流されるのを避けられないのだ。
自分で考えているつもりが、様々な文学が綴ってきたような紋切り型をなぞるだけの展開に支配されてしまう。

こういうことは、僕らの日常にだって常に起きていることだ。ただ、恋愛以外、たとえば仕事のなかであれば、その紋切り型をなぞる思考は、なにもうまくいかなかったり、なにも起こらなかったりという結果を招くだけで、恋愛のような必死に対象を手に入れようとする欲望がはたらきにくい分、たとえ成功が手に入らなくても、必ずしも精神がダークサイドに落ちてしまうことはない。

だが、強く妻を愛するオセローの場合は別である。うまくいかなければ精神は追い込まれる。その追い込まれた精神を定型の罠がさらにダークサイドへと陥れる。

無知ゆえに形式的にしか考えることのできないオセローは、現実(の妻デズデモーナ)が形式とはかけ離れているがゆえに、かえって、現実を(イアーゴーの提示する)形式によって歪めて、現実においても妻から離れていくことになる。
妻の姦通を疑うオセロー自体が妻を姦通者に仕立てあげてしまうのだ。
もちろん、それは虚像なのだが、その虚像をつくった当の本人であるオセローだけがそれに気づかない。

「ときにはそれが、あまりにも自然で無自覚になされるため、知覚した当人さえも、それが形式的知覚、形式による知覚であることに気づかないことも少なくない」という、あれだ。

世間がいわゆる現実と思い込みがちであるものに適っているものは嘘でも本物らしく見え、逆に理想的すぎるものは、現実にはとてもありそうにないものと見えてしまう

現実を認識することはそもそもむずかしい。
自分自身で現実を観察し、観察した事象から既存の知識も援用しつつ、適切に要素を抽象することに普段から慣れていない、紋切り型のイメージにがんじがらめにされる。
そうなれば、紋切り型も定型で語られることのほうがもっともらしくなり、事実のほうがかえって偽物にみえてくる。

前に「わかっていることから逃げろ」という記事を書いた通りだ。
当たり前と思っている現実じみた幻想をみずから撥ね退けないかぎり、真の現実には到達できないように世界はできている。
ゆえに「知力とは、わからないことをどれだけ考えられるかという度合い」なのである。



そのことにとうとうオセローは気づかなかった。
自らの手で愛する妻を手にかけてしまうまでは。
デズデモーナの振舞いはあまりにもロマンティックで理想的すぎるので、現実にはとてもありそうにないものと見えてしまう。イアーゴーの世界観は安っぽく辛辣であるが、世間がいわゆる現実と思い込みがちであるものに適っている−あるいは、イアーゴーの解釈が、紋切り型のリアリズムを最も説得的に提示しているとも言える。

「世間がいわゆる現実と思い込みがちであるものに適っている」紋切り型の定型、それが愛する妻を殺してしまうほどの怒りをオセローに植えつける。
逆に真実である「デズデモーナの振舞いはあまりにもロマンティックで理想的すぎるので、現実にはとてもありそうにないものと見えてしまう」のだから、無知ゆえに自分で考えることができない状態というのは何とも恐ろしい。
ロバート・ハイルマンらは、オセローの壮麗な言語が放埓で激烈で断片的で悪意ある言語−イアーゴーが好んで用いる統語法や語彙とますます似通ってくるような言語−に堕していくさまを考察している。興味深いことに、このように堕落してさえも、文学的な恋愛の慣習の痕跡をうかがえるのである。オセローはデズデモーナを全人格的に捉えるのをやめてしまう。ふしだらな女に見えてくるにつれて、彼女は断片としてしか認識されなくなる−そして、それよりはるかに重要なことであるが、オセローは情熱のあまり彼女を八つ裂きにしてやりたいと思うのである。

全人格的に捉えられなくなり断片としてしか認識されなくなるような定型の罠に落ちたとき、愛する対象は「八つ裂きにしてやりたい」対象に見えてしまうようになる。

知識をもたない初心な者は機械的な形式にエモーションを操作される

問題は、こうした紋切り型の定型のものに心動かされる様をエモーショナルだとか、言って肯定してしまう姿勢だろう。
2つ前の記事「変化には2種類ある、だから、区別して対処したい」で、こんなことを書いた。
エモくなるためにはベーコン的な自然との対峙は必要ない。
むしろ機械化された、テキスト化されたわかりやすい象徴=シンボルのほうがエモさを生じさせる。
それはエロティックな衝動が機械的なものによって生じるのと同様である。エモさは実のところ、機械的でまったくエモくはないわけだ。

自身で既存の形式を再編集して自らの思考、言説を組み立てられないことを、言葉ににならない何かを表現するなどといって言語化を避ける態度は、まさにイアーゴーに欺かれるオセローそのものだ。

それが悲劇に至らないのは、先にも書いたとおり、日常望まれる、そのエモさなど、オセローの強烈な欲望に比べれば、何の望みでもないともいえるような弱い欲求でしかないからだろう。
手に入らなくてもいいものなら、それは方法をもたない初心な者にも悲劇はもたらさない。ただ、そのエモさは「倫理が現実を茶番にする」という記事で紹介したような中世ヨーロッパの残酷なおなぐさみに通じるくらい、機械的なものであるというだけだ。
1488年、マキシミリアンがブリュージュで捕虜になっていたときにこと、この捕われの王の居室からよくみとおせる広場に、足場を高く組んだ拷問台が設けられ、裏切りの疑いをかけられた市参事会員たちが、なんどもなんども拷問にかけられた。民衆はなかなか満足せず、早く処刑してくれとの参事会員たちの懇願にもかかわらず、さらにかれらの苦しみをみて楽しもうと、処刑してしまうことをゆるさなかったという。
ホイジンガ『中世の秋』

そう。この残酷さも、現代のエモさも、決して、人間本来の感情をあぶりだしているものではない。
それは定型に誘発されて動く機械的な反応でしかないのだ。倫理的禁止が人工的なものであるのと同様に、何かに喜びを見出し、それに感情を動かされることも人工的な形式によるものでしかない。
そのことを的確に見出していたのがマルキ・ド・サドの作品なのだけれど、そこに踏み込むと話が複雑すぎることになるのは、今回はやめておこう。

そう、愛は文字通り死んでしまう

オセローは、文学がそれまで描いてきた様々な形式をなぞるように行動する。
その形式のひとつがソネットなのだが、コリーはここでシェイクスピアがこの悲劇を書くにあたって、行った形式の編集を見事に指摘している。
ソネットの物語において、嫉妬はまこと、愛の死を招くこともある。だが、それはせいぜい比喩的な死でしかない。ソネットの恋人たちはたいていは死なないで、誤解が晴れて愛をより深めるか、恋人をあるまじき妄想から自由にする。もちろん、実人生において、そうした結末はまれである。本物の誤解、本物の嫉妬、本物の理不尽は、愛を衰えさせ消滅させる。日常生活において、恋愛がそのように終わるのは、たとえ二人が偉大な男女であろうとも、英雄的でないし、悲劇的であることもめったになく、ただ虚しくて悲しいだけだ。この劇では、ソネットの常套的な終わり方のひとつが示されているー比喩的な死がまさに脱比喩化されたかたちで。そう、愛は文字通り死んでしまう。

ソネットの物語において、嫉妬は愛の死という比喩で語られる。しかし、ソネットの物語をなぞるオセローは自らの手で文字通り愛を死に至らしめる。
これがシェイクスピアがソネットという形式に施した工夫である。



では、その工夫でシェイクスピアが何を描き出したのだろう。
シェイクスピアが明らかにしたのは、ソネットの物語の比喩的な死と違い、「実人生において」は、「本物の誤解、本物の嫉妬、本物の理不尽は、愛を衰えさせ消滅させる」ということである。そして、その結果は「英雄的でないし、悲劇的であることもめったに」ないということである。

それは「ただ虚しくて悲しいだけ」だということを、シェイクスピアは、オセローの物語というソネットの転換により明らかにしたのである。
しかも、この「虚しくて悲しい」結果を生んでしまうのが、現実から目をそらさせる「世間がいわゆる現実と思い込みがちであるものに適っているもの」としての紋切り型の形式であるということをシェイクスピアは僕らの前に提示した。

シェイクスピアは、オセロー自身には、愛する妻デズデモーナを自らの手で殺してしまったあと、彼女が不貞などはたらいてなどいなかったという真実に気づき、自らの命をたつことで、この物語を「ただ虚しくて悲しいだけ」のものから悲劇へと昇華させる道を与えた。

けれど、当然ながら「もちろん、実人生において、そうした結末はまれである」。
「本物の誤解、本物の嫉妬、本物の理不尽は」、人の精神をダークサイドに陥れ、どんなに大切なものであろうと「愛を衰えさせ消滅させる」。

いや、問題は愛だけではない。

知識をもたない初心な者は機械的な形式にエモーションを操作され続けることで、あらゆる豊かさを衰えさせ消滅させてしまうということこそが、問題なのだと思う。
それがひとつ前の記事で書いたみずからの感覚とみずからが用いる方法のズレに気づかないという保守的態度と同じものであるということがさらに輪をかけて問題なのだ。

保守的なもの、機械的な反応、そうしたものに対して、抗い続けるために、形式を疑う知的ファイティングポーズをとり続けることをしない理由は僕にはとうてい思いつかないのだが。

考えすぎなのだろうか?

   

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