青い花/ノヴァーリス

世界は夢。夢は世界。
世界は夢となり、夢はまた世界と変じ、
とうに起こったはずのものが、
今かなたからやってくる。
想像がはじめて自在にはばたき、
思うがままに糸を織り、
ここかしこヴェールをかけ帳を掲げ、
やがで魔法のもやに消えうせる。
ノヴァーリス『青い花』

18世紀末ドイツの初期ロマン主義の詩人ノヴァーリスによる未完の小説『青い花』
先に読んだ『サイスの弟子たち』がとても気にいって、ノヴァーリスのことに夢中になり、この『青い花』を手に取ったのはおとといのこと。
ひさしぶりに本を読んで、気持ちが落ち着かない状態にさせられたのだが、そういう意味でとても魅力に満ちた一冊だ。未完なのが、なんとも惜しいが、未完でもなお読む価値がある。

『青い花』は、原題を『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』といい、主人公の名をそのままタイトルにした作品だが、引用した作品中の詩の一節同様に、どこまでが主人公が生きる現実なのか、どこからが他の登場人物が語る物語のなか、あるいは、夢の世界の話なのかが読んでいてわからなくなる作品だ。



しかし、この夢を詩と置き換えて、「世界は詩となり、詩はまた世界と変じ」と読み替えると、この作品における詩というもの、あるいは詩人というものの役割、ノヴァーリスが詩や詩人というものをどう見ているかが感じとれるようになる。
詩人が自分で奇跡におどろいているようでは、とても奇跡を行なうことはできない。
ノヴァーリス『青い花』

と語るのは、ハインリヒが母に連れられて辿り着いた母の故郷であるアウクスブルクで出会った詩の師となるクリングゾールで、ここではあらかじめ「詩人は奇跡を行う者」ということが前提とされている。

なるほど、この作品(小説?)の中では、詩人がうたった詩の内容がそのまま現実になるシーンが何度となく描かれる。
例えば、旅の道連れの商人が語るアトランティスの物語では、王女との結婚の許しを請う若者のうたがその後の父王の許しに即座につながるように。

夢から覚めたところか、眠っているうちにべつの世界へ連れていかれたか

では、詩には予言の力があると、ノヴァーリスが考えていたのかというと、そうではないと感じる。
宝物への執着心なんて、およそ僕には無縁のことだ。だがあの青い花だけは、なんとしても見たい。ずっとあの花が気にかかって、他のことは何ひとつ考えられない。こんな気持になることは一度もなかったのに。まるで今夢から覚めたところとでもいうか、眠っているうちにべつの世界へ連れていかれたかのようだ。
ノヴァーリス『青い花』

冒頭、ハインリヒが夢に見た青い花に強くひきつけられるシーンである。
この青い花を追い求めて、ハインリヒは旅に出ると言ってよい。先のように夢を詩に置き換えると、まさに夢=詩が現実世界に先行しているといってよいが、だからといって、これは予言とか、予感といったものではない。

ハインリヒはこの青い花の花弁のなかに魅力的な少女の面影を見るのだが、それはのちに、アウクスブルクで出会うことになるクリングゾールの娘マティルデにそっくりで、ハインリヒとマティルデは出会ってすぐに恋に落ちることになる。

しかし、これも予言とか予感ではないだろう。
むしろ、これは古代日本の言霊に近いのだろう。

松岡正剛さんは『空海の夢』のなかで、空海が古代の祭祀を司る氏族・佐伯氏の出身であると言っている。
佐伯氏は、文字のないオーラル・コミュニケーションの時代において古言(ふること)を司る力をもった氏族で、この力は例えば、<雄略天皇が葛城山で異様な神に出会って「お前は誰か」と問う>と<相手は「オレは一言主神である」と答えて>、神の名を明かしてしまうことで雄略天皇に葛城山を征服されてしまうといったように、名を口にすることで相手の呪力を縛りあげるというものだったという。

古代において王の言葉(コト)をミコトといったが、このミコトを伝令する者には王の力そのものが与えられた。これが言霊である。

ノヴァーリスの詩に関しても、この言霊と決して無縁ではないはずだ。



万物のありようやそれが因果の法則とどう関連づけられているかを知ろうとする衝動

しかし、この人や世界を動かす詩の力というのは、所謂、情熱によるものでもない。
先に引用したクリングゾールの「詩人が自分で奇跡におどろいているようでは…」の前に発せられる言葉を引用してみる。
これはきみにもぜひ勧めたいことだが、きみの分別、つまり万物のありようやそれが因果の法則とどう関連づけられているかを知ろうとする当然の衝動を、いつまでも持ち続ける努力をおこたらないことだ。詩人にとってなによりも大事なことは、どんな用件でもその性質を見抜き、どの目的にも達する手段を知っておき、時と場合に応じて最適なものを選ぶ沈着さだ。分別に欠けた熱狂は無益で危険なものですらある。
ノヴァーリス『青い花』

クリングゾールは「熱狂」を「無益で危険」と評し、「沈着さ」をもって「どんな用件でもその性質を見抜き、どの目的にも達する手段を知っておき、時と場合に応じて最適なものを選ぶ」ことが詩人にとって大事なことだと言っている。

冒頭、青い花の夢をみて以来、「いったんあの花がはっきり目に浮かばなくなってくるともういてもたってもいられない」状態いなった、ハインリヒはこんな風に言っている。
あの時からというもの、すべてがずっと身近に感じられだした。以前に太古の話を聞いたことがあるが、なんでも動物も樹木も岩石も、人間と話せたという。ところが今の今にも、その物言わぬものたちがぼくに語りかけようとしているし、ぼくの方でも以心伝心でそれが読みとれるような気がする。思うに、僕が知らないさまざまな言葉がまだ存在するのだ。もしそれを習い覚えたら、いろんなことがはるかに深く理解できることだろうに。前は踊りが好きだったが、このところむしろ音楽に惹かれる。
ノヴァーリス『青い花』

ここ最近、何度も書いているが、これはフランシス・ベーコンのいう"Homo nature minister et interpres"=「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」である。動物の言葉、樹木の言葉、岩石の言葉を解することができれば、言霊が人を動かすことができるように、そうした自然の対象も動かすことができるだろう。

ベーコンのいう「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」というのは、そうした状態にほかならない。ベーコンは、『大革新』の「序」で自分自身のことを指して「地にある何物より、少なくとも地に属す何物より尊い人間精神と事物の自然との交渉が何としても元の完全な状態にされ得るものか、あらゆることをやってみなければならないと考える人間」と述べているが、このベーコンの考え方は、しっかりノヴァーリスにも引き継がれている。

それが「きみの分別、つまり万物のありようやそれが因果の法則とどう関連づけられているかを知ろうとする当然の衝動を、いつまでも持ち続ける努力をおこたらない」ということだろう。



青い花は見つかったのか?

さて、この未完の作品は、あの神話に似ていて、ハインリヒの旅はあの太古の詩人に重なる。
そう、オルフェウスの神話にである。

マティルデという婚約者を得たハインリヒであるが、残念ながら、その幸せな時間は第2部のはじまりではすでに終わっていて、ハインリヒは巡礼者として彷徨うことになる。その姿がまるでオルフェウスそのものなのだ。
巡礼は竪琴をとってうたった。
ノヴァーリス『青い花』

とうぜん、亡きマティルデの幻影を追うハインリヒの姿は、冥界に亡き妻エウリュディケーを追っていくオルフェウスの姿そのものだ。第2部でハインリヒが少女に連れられてくぐる門の先にある庭はこの世なのかあの世のかも区別がつかない世界である。
そこで出会う老人との会話において、天上界、現実界、そして、その庭に重なる冥界という3つの世界が詩との関係で語りはじめられるとき、この物語はぷつりと終わってしまう。
だが、このまま、ノヴァーリスが書き続けていれば、ハインリヒもオルフェウス同様、冥府くだりの後に、探検にでかけ、その後は嫉妬から殺害され、星になったのかもしれない。

それにしても、なぜ詩人には、こうした愛する人との別れがつきものなのだろうか?
オルフェウスの物語を真ん中においたオウィディウスの『変身物語』もそうであったように、詩人が詩人らしくうたいはじめるのは、むしろ、愛する人が失われて以降だといってもよい。
ペトラルカを代表とするソネット詩人たちが、どれほど手の届かない恋人への思いをうたいつづけたことか?
世界を夢に、夢を世界に変えるほどの力をもった詩人ながら、自らの恋の花を咲かせることはできないのか。
しかし、だからこそ、詩人は詩によって、人の心を動かすことができるのかもしれない。

実際、この『青い花』は僕自身の気持ちをなんとも落ち着かないものにさせた。



さて、ハインリヒは青い花を見つけられたのだろうか?



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