そのデザインリサーチをしていると往々にして起こる問題がある。
それはリサーチに関わっていない外部から、リサーチの結果をみて「それはリサーチをしなくてもわかった普通のことでないか」という反応があがるということである。

問題の要因は2つあると思う。
- デザインリサーチをしたことがない人には、デザインリサーチによって何が変わったかがそもそもわかりにくい
- デザインリサーチをした側が、そうした前提に立って、やってない人に自分たちが得たものを伝える努力を怠ってしまう(もしくは、その前提自体の認識がない)
「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」
量子力学の研究で知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉だ。
デザインリサーチがリサーチを行う際の立場もこれと似ている。
デザインリサーチの対象となるのは「誰もが見ている」日常的なものであることが多い。それをわざわざリサーチの対象にしようというのだから、「まだ誰も見ていないものを見る」の目的であるはずがなく、「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ことのほうが目的になるのは当然である。
デザインというアクションにつながる気づきをリサーチをした人自体が得ることが目的で、それだけが評価基準
ただ、シュレーディンガーの研究=リサーチと異なるのは、シュレーディンガーが物理学一般に適用されるようなことを考えることが目的だったのに対して、デザインリサーチの目的としてのデザイン自体が対象をそんなに広く定めることは稀で、ある特定の領域での特定の課題の解決を目指すほうが多いという点だろう。だから、「誰も考えたことのないことを考える」にしても、それは一般に通用することを考えるというのではなく、ある特定の領域においてそれを考えればよい。
ようするに、デザインリサーチは、その特定の領域における特定の課題を定義し、その解決のための仮説を導き出すことが目的なのである。
この目的を達成すること自体が大事なのであって、そのリサーチの結果をあとから外部の人がみて「それはリサーチをしなくてもわかった普通のことでないか」と感じたからといって、そんなことはどうでもいい。
デザインをするミッションをもった人が、自分たちがデザインにより何を解決すべきで、そのためにはどんな解決方法があり得るかを見つけて、具体的なソリューションをデザインするというアクション(もしくは、それに付随する様々な調整のアクション)に移れるようにすることが目的なのだ。デザインするというミッションをもったものにとって意味がある発見が得られればよいのであって、たとえ、その発見がデザインしなくてはならないミッションを持たない人にとっては当たり前のように思えることであっても、それはデザインリサーチの良し悪しにはなんら関係しない。
だからこそ、デザインリサーチの結果は、デザインそのものに関わらない外部者に納得がいくような説明のためではまったくないし、外部者が外部者のまま、デザインリサーチの結果を云々すること自体、無意味なのだ。
ゆえに最初に書いたような問題が起こり、その要因としては2つが挙げられるのだけど、そもそも、その問題をデザインリサーチが解決すべきかというと、ここまで書いてきた理由によって、特にその必要はないわけだ。

さて、ここからが本題。
このデザインリサーチにおけるような研究、学びという姿勢は、自ら行動する人をつくるという観点で教育・学びということを考える際、ものすごく本質的なところを捉えているものではないか、と。
昨日書いた「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」とい記事において、ミッションが変われば同じ世界が別ものに見えるという話にもつながることで、役割が異なれば学びから得られたものの有効さ/無効さは異なるのであって、ゆえにミッション、そして、そのミッションに求められる行動という観点が、今後の学び・教育のシステムづくりには大きく関わってくるだろうということだ。
ちょっと、そのことについて考えてみたい。
正解のない世界で解を見つけ、用いるということ
いま、教育の分野で「20世紀型の教育と21世紀型の教育の違い」ということでよく言われることに、前者が正解主義で、情報処理力が求められるのに対し、後者では正解を前提としない納得解の創造を重視し、それゆに情報編集力が求められるということである。同時に、コンテンツ(知識)よりもコンピテンシー(能力)が大事とも言われるのだが、これはまさに行動のための学びが大事だということで先の話もつながるし、行動とは往々にして行動が必要とされる現実の個々の事象によって求められるものが変わってくるということで、ここで必要なのはすぐわかるように、正解を知り、それを上手に処理して対処する能力ではなく、場面場面に応じてまず適切に何が問題かを定義・設定し、その問題の解決に必要な方法、リソースを確保し、適切な形で問題解決の策を実施に移すという、その問題解決にあたる人々に共有される納得解をつくりだす情報編集的な能力である。
ようするに、シュレーディンガーのような力が必要なのではなくて(それはそれで引き続き必要なのだが)、必要なのはデザインリサーチ的な力で、問題の定義・設定と問題の解決のための仮説づくりという解を同時に見出せ、しかも、それを関係者(外部者は関係ない)に納得してもらうことで実行に移すことができる力ということになる。
こういう能力を養うための学びの場、教育のしくみをつくるということが課題であるという点で、僕はすごく「教育・学習」という領域に興味をもっているし、そこに力を注ごうと思っているのだけれど、それは旧来の正解を前提、その処理を前提にした、
- 同じ教室に集まった生徒がみな、学習レベルの違いも関係なく、黒板の前に立った教師の説明を聞く
- 教育に用いられるのは、テキストで知識が封じ込まれて教科書で、その同じ教科書の同じページを見ながら、授業は進む
- そして、同じ宿題が出され、同じテストを受ける
という、知識の詰め込みでしかない教育スタイルをいかに変化させるか?ということが問題だ。

R&Dという形が変わっていく
こういう議論が可能になっているのも、EdTech(Education+Technology)により、教育コンテンツのパーソナライズ化、学習状況のマネジメントシステムのIT化、教育・学習サービスの民主化(プレイヤーの流動化)などが進み、教育や学習というものが、先生が学生といった身分の人たちの特権的なものではなく、社会人誰もがいつでも好きな時、自分のレベルにあわせて、都合よく学習できるという環境が実現できるレベルになってきているということもある。これにより、各自の事情にあわせた予習のシステムと、その予習をもとにファシリテーターの役割となって教師・講師がアクティブ・ラーニング形式で実習や、具体的なテーマに沿った研究を進めるというモデルが計画できるようになっていると思う。
そこにおいては、産学連携という意味もこれまでの形とは大きく変わってくるはずで、いわゆる研究=リサーチというものが、先のデザインリサーチと同様の意味で、ある具体的なミッションを担う人のための行動を決定づける気づきを見出すためのものになり、リサーチとデベロップメントの融合は別の形をとりはじめる。
それは決済サービスのスクエアが自分たちのオフィスそのものを街に見立てて、オフィスのなかに小売業者に入居してもらい、そこで自分たちが開発したサービスの実証実験を行っているように、産学の連携どころか、民もごちゃ混ぜになるし、官も真ざってくる。
そうした座組のなかで納得解を編集的に見出していける力を育む学習・教育の場としくみが必要になるし、それを用意できたところは強い。
そして、付け加えるならば、そういう座組での行動を容易にする既存の貨幣に変わる新たな価値交換・保証のしくみも必要になるだろう。

学びとアクション
世の中、これだけ情報・知識が散乱していれば、大抵のことはすでに知っていること、わかっていることだ。けれど、それほどまでに、いろんなことを知っていたり、わかっていたりしても、何か具体的なアクションができないというのが問題である。
1つ前の「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」という記事で書いた、ミッションが変わってあらためて見えてきたことというのは、まさに、それまでアクションにつながらなかった知識が、すこし角度を変えてみることでアクションしなくてはいけない知識の集まりとして見えるようになったということにほかならない。
だから、知識自体はなにひとつ増えていないと言っていいし、世界はまるで同じままなのでまったく違って見えるようになったというのはそこにアクションしなくてはいけない領域が見えるようになったかどうかの違いである。
それはもともとの話題としてあげたデザインリサーチでも同様である。
デザインリサーチをしたからといって多くの場合、まったく新しい知識などは得られることはない。もちろん、リサーチをしている人が知らなかった事実を知ることはあっても、それは社会全体でみれば誰かがすでに知っていたことだ。
だが、それでも、デザインリサーチすることに意味があるのは、そうしたリサーチの体験、そして、その後の分析作業を通じた知的体験を通じて、自分たちがいま何をしなくてはいけないのか、それには何が必要なのかというアクションにつながる納得解を得ることができるからだ。
だから、アクションにつながらないデザインリサーチをする人も、デザインリサーチもせずにそれが当たり前のことしか得られないつまならい技法だと思っている人も、ともに「いま必要な学びとは何か?」という観点では、センスが欠けているといってよい。学びとアクションの関係をあらためて捉え直すことをしなければ、これからの時代において「分かる」とはどういうことなのかを見失うだろう。
そういう意味では、逆にこんなことも言えるのかもしれない。
学びたければ、とにかく新しいミッション、役割を自分に与えよう/与えられるようになろう、と。
これからの学びは、ミッションを引き受けることとそれにともなう行動を引き受けることしか得られないし、これからの創造性はそうした学びとアクションが密接に結びついた環境やコミュニティからしか生じないだろう。
そうした創造性のある場をいかにつくるか?
最後にフランシス・ベーコンのこんな言葉を引用しておこう。
してみると知の真の目的は、好奇心の快でもなく、解決の自若でもなく、精神の昂揚でも、機略の勝利でも。言葉の暢達でもない。職業の利得でも、名誉、名声への野心、事業の円滑でもない。他に比べれば少しは価値のあるものもあるが、すべて劣っており、堕落していることに変わりはない。そうではなく、人間を劫初(いやさき)の天地創造の時に人間が帯びていた稜威(みいつ)と力(というのも被造物をその真の名で呼ぶことができるなら、再びそれらを宰領できるからだが)、に連れ戻し、回復すること、これである。簡にして潔に申せば、あらゆる営為を(可能として)不死から最も卑近な機械仕事にいたる営為の可能性を発見すること、これなのである。フランシス・ベーコン『ウァレリウス・テルミヌス』
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』より引用
そう。新たな知識を得ることが目的ではない。あるものをそのまま解釈することで、みずからの行動の糧を見出すことなのだ。
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