わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ

ちょっとびっくりしている。
びっくりして戸惑っている。
実際には何も変わっていなくても、見方が違うだけで現実がこんなに違って見えるということに。



「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」

ノヴァーリスの未完の小説『青い花』で、主人公の青年ハインリヒにせがまれて父親が母親と結婚しようと決断するにいたった夢の話をする中で、夢の中で出会った老人の語る話を聞いて、父親が感じたことを述べたセリフだが、まさに、今日僕自身が感じたこともこれに近い感じのものだ。

きっかけは、最近、会社での役割が変わったことだ。変わったとはいえ、正直、今日まではあまり実感を感じていなかった気がする。
それでも、役割が変われば、やることもすこしずつは変化していくもので、そうした変化をあらためて、今日は休みだということもあり、もろもろの作業をしつつ、頭のなかの整理をしはじめたら「まるで新しい世界に上陸するような気が」するくらい、まだ何も変わっていない状況がまるで違って見えはじめたことにびっくりし、戸惑ったわけだ。

眠っているうちにべつの世界へ連れていかれたかのよう

とはいえ、単にびっくりして戸惑っただけではなく、この驚くべき変化を面白がる気持ちもあった。
何も変わっていないのに、役割・ミッションが変わって、同じものをみると、こんなにも違ってみえるものなのか、ということに面白がる自分も同時にいた。

そんなときに、最近はまりはじめたノヴァーリスの作品のうち、新しく『青い花』を読み始めたわけだが、そこに、こんな記述があって、まさにいまの自分の感覚にもぴったりだと思ったのも面白かったわけ。
宝物への執着心なんて、およそ僕には無縁のことだ。だがあの青い花だけは、なんとしても見たい。ずっとあの花が気にかかって、他のことは何ひとつ考えられない。こんな気持になることは一度もなかったのに。まるで今夢から覚めたところとでもいうか、眠っているうちにべつの世界へ連れていかれたかのようだ。
ノヴァーリス『青い花』

「眠っているうちにべつの世界へ連れていかれたかのよう」。

実は、会社で役割が変わったことに関しても、こう感じたわけなのだが、それだけではなく、実はノヴァーリスをはじめとして、詩や小説に興味をあらためて持ち始めたこと自体、実は「眠っているうちにべつの世界へ連れていかれたかのよう」な感覚だったりする。

詩とか小説とかには、もう何年も疎遠になっていたのだけれど、エリザベス・シューエルの『オルフェウスの声』書評記事)を読んでいるあたりから、ハインリヒが青い花に夢中になって「あの花が気にかかって、他のことは何ひとつ考えられない」と思うのに近いくらい、ノヴァーリスやリルケ、そして、ワーズワースあたりの作品が気になってしかたがない。

というわけで、今日はノヴァーリスの『青い花』のほかに、リルケの詩集も買ったりしたのだけど、この詩や小説への新たな変化については今後、自分がどんな風になっていくかは興味深い。この「青い花」というテーマは、実は大学生時代に僕自身が小説もどきを書いたときのテーマと偶然にも同じだったりするから。
まあ、このあたりはもうちょっとしてみないとわからない。



前は踊りが好きだったが、このところむしろ音楽に惹かれる

ノヴァーリスの『青い花』には、こんなくだりもある。
いったんあの花がはっきり目に浮かばなくなってくるともういてもたってもいられない。(中略)あの時からというもの、すべてがずっと身近に感じられだした。以前に太古の話を聞いたことがあるが、なんでも動物も樹木も岩石も、人間と話せたという。ところが今の今にも、その物言わぬものたちがぼくに語りかけようとしているし、ぼくの方でも以心伝心でそれが読みとれるような気がする。思うに、僕が知らないさまざまな言葉がまだ存在するのだ。もしそれを習い覚えたら、いろんなことがはるかに深く理解できることだろうに。前は踊りが好きだったが、このところむしろ音楽に惹かれる。
ノヴァーリス『青い花』

語らぬと思われたものが語りだし、その語りが聞こえるように感じられる。それにより「前は踊りが好きだったが、このところむしろ音楽に惹かれる」ような変化が起こる。
この変わり方も、今日、自分自身で感じた体験ととても似ていて面白かった。
これまでとは違う役割という視点から、何もまだ変わっていない現実を見直してみると、かつてはなんでもなく見えていたものが、それぞれ意味をもって見えるようになってくるのでびっくりした。ほんと、いろんなものが意味をもって見えすぎて、その意味の重さに今日は正直ひとりでげんなりした気持ちにもなったりしたけど、その後、このノヴァーリスの小説に運良くタイミングよく出会ったこともあって面白がれるように気持ちも回復している。



で、あらためて思うのは、世界の見え方がいかに言葉の使い方で変わってくるか?ということだ。

岩や森が妙音に和し、詩人たちに馴らされては、飼い馴らされた動物が我々の命じるまま動くように動くというのが嘘だと言えようか

役割の変化という、ある言語体系から別の言語体系への移行がぼくを「新しい世界に上陸するような気」にさせたように、ハインリヒを「物言わぬものたちがぼくに語りかけようとしているし、ぼくの方でも以心伝心でそれが読みとれるような気」にさせたように、同じ世界もどうみるか、どんな言葉で理解するかによって大きく変わるわけだ。

ちょっと難解だが、シューエルの言葉を引いてみる。
ノヴァーリスにあってはオルフェウスははっきり詩と哲学を持って表している。「哲学者がみずからオルフェウスたらんと決めて初めて、全ての企てが秩序化される、上下がきちんと構成された輪郭画然たる規則的かつ有意義なあれこれの分類がおさまるーつまりは真の諸科学分野におさまるのである」。一方でオルフェウスは詩でもある。「彼ら[詩人たち]はみずからがいかなる力を揮えているものか、世界がいかに彼らに従うよう命じられているものか、なお理解していない。岩や森が妙音に和し、詩人たちに馴らされては、飼い馴らされた動物が我々の命じるまま動くように動くというのが嘘だと言えようか」。そしてここで神話誌の言葉で言われていることが他の場所ではもっと堅い理論の言葉で反芻される。「科学のあらゆる分野の完成された形式は詩的でなければならない」とか、「詩が哲学への鍵、哲学の目的、哲学の意味である」とか、とかである。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

この詩と哲学、そして、諸科学との連携。「岩や森が妙音に和し、詩人たちに馴らされては、飼い馴らされた動物が我々の命じるまま動くように動くというのが嘘だと言えようか」というノヴァーリスの詩に対する思考。
シューエルは、
いわゆる精神にとって観察され、構築されるあらゆる形式が、それらの語の繰り返される二重の意味での〈ゲシュタルト〉、形象(フィギュア)ないし形式(フォルム)であり得る。形象は常にイメージであるし、いかに抽象的であろうと形式は肉体から肉体的な反応を引き出し、あらゆる形式化活動の起源たる肉体によって、適切な語であるかは別として一個のイメージとして知覚される。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

といっている、言語、イメージは形象であり形式でしかないが、それは同時に世界そのものの形象、形式でもある。だからこそ、「「岩や森が妙音に和し、詩人たちに馴らされては、飼い馴らされた動物が我々の命じるまま動くように動く」ことが生じるし、見方や語り方がそっくり変われば、途端に世界の見え方がまるで異なり、「新しい世界に上陸するような気が」するわけだ。

ガンジーはこう言ったと言われている。
世界は自分の写し鏡にすぎない。外界にあるすべての傾向は自分自身の中にある。己を変えることができれば、世界も変わる。自分の性根を変えた男には、世界も態度も改める。

「己を変えることができれば、世界も変わる」。
外側の世界を変えるには、まず自分の内側の世界の見え方のほうを先に変える必要があるんだろうなということに、今日は気づけた気がする。
自分のなかに起きた変化を、どう現実の変化に結び付けていくかを、これからいろんな人に話を聞いたり協力してもらいながら考えたいな、と。

ちなみに、『青い花』で主人公の父は夢でみたとおり、主人公の母である娘にプロポーズをする。夢で幻視したことは現実になり、主人公ハインリヒは生まれる。

何かを現実にするということはきっとこういうことかもしれないと思うわけ。
「まるで新しい世界に上陸するような気が」するヴィジョンをもつことがイノベーションの第一歩なんだろうな、と。

 

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