2017年10月06日

学びの解放

言葉が錯綜して解読困難だからといって、それをあなどり投げ捨ててしまうような無思慮な人間にはなりたくない、と思う。
芸術家の技芸とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。だから、芸術家の世界の原理は実践となり、かれの世界はかれの芸術となるのだ。ここでもまた、自然は、新たな壮麗さを帯びて眼に見える姿をとるが、ただ無思慮な人間だけは、この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう。

研究=リサーチ精神に欠けた人には、自然および自分自身の秘密の発見をともなう創造としての芸術家の技芸が宿るはずもない。



前回、紹介した『オルフェウスの声』のなかでエリザベス・シューエルはフランシス・ベーコンを参照しながら、こう書いている。
「技芸は自然の一部であり、受身のアナロジーでなく能動的な操作の場、まさしく自然が言葉を語り出ることができる場、ということになるだろう」と。

ベーコンの「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」と世阿弥の物学

ベーコンが人間の思考の根源にあるものを、"Homo nature minister et interpres"=「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」という具合に考えていたということは、すでに「編集的思考でみずから解釈する、詩人のように」などの記事で紹介してきたが、「技芸が自然の一部」であるというのも、まさに自然を解釈することと、その具体的な操作としての人間の精神のなかで繰り広げられる思考の展開=言語化の作業が重なりあうからにほかならない。

だから、上に引用のなかでノヴァーリスが「芸術家の世界の原理は実践」と記した上で、「この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう」人間が無思慮だとしたのも、ベーコンの考えを引き継いだものとみることができるし、そもそも詩作というものが本来的には、そうした自然解釈とみずからのなかの言語の重ね合わせの作業であるということなのだと思う。

ここで思いだすのは、世阿弥がみずからしたためた能楽書『風姿花伝』のなかで、物学と書いて「ものまね」と読むキーワードを使って、模倣による学びの重要性を示していること。
「物まねをきはめて、その物まねに、まことになり入りぬれば、似せんと思ふ心なし」と世阿弥は書いているが、ここにある自然の真似び=学びと、ベーコン〜ノヴァーリスのいう技芸が重なるように思う。

そして、それが本来の意味での学ぶということなのであって、学校での学びとか狭い意味での研究というのは、あまりにそこからかけ離れてしまっているように思うし、そのことで学びや研究というものが多くの人々に身近なものではなくなっていることが悲しい。



アナロギア・ミメーシス、パロディア

この世阿弥の物学に重なるように、古代ギリシアの創作三原則もアナロギア・ミメーシス、パロディアから構成されているのが面白い。
アナロギアは類推、ミメーシスは模倣、パロディアは諧謔。悲劇も喜劇もこの三原則を元に生まれるといわれている。物学はこのミメーシスと重なっているし、滑稽芸であった頃の猿楽はパロディアの要素も含んでいたとみることもできる。

この3要素はようするにアナロジーのとる三様態であって、どれも元にある物を真似することで理解できるようにしたり、比例や相似の関係を使ってそこにない物を想像したり、引用しつつ差異を強調することで笑いを誘ったりと、ある物事にフォーカスした観察から創作を可能にする技芸にほかならない。観察をもとにアナロジカルに解釈を経て、創作を行う。

ノヴァーリスの「サイスの弟子たち」のなかのこんなシーンが思い出される。
さて、かれがこうした原現象の観照にすっかり没入すると、新たに生じてくる時空のなかで、自然の発生史が、壮大な劇のように眼前に繰りひろげられていきます。その果てしない液体のなかに沈殿してできる凝固点は、どれも、この思索家にとっては、愛の守護霊の新たな啓示、「汝」と「我」との新たな紐帯となるのです。こうして、内面に展開する世界史を丹念に記述していくことが、真の自然論なのです。つまり、思索家の思考世界の内的脈絡を通じ、またそこ思考世界と宇宙との調和によって、ある思考体系がおのずと発生し、宇宙の忠実な写し絵、雛形となる、ということなのです。

こうした自然と自分自身のなかに蠢くものに対する姿勢こそが、本当の意味での学びだし、研究というものであるように思えてならない。



知のブロックチェーン

にもかかわらず、いつからか知を獲得する学びの形や研究を進める姿勢というものが、何か1つの正解を前提とするような中央集権的なものになってしまって久しい。
最近になって、MOOC(Massive Open Online Course)的なものや、Kahn AcademyQuipper Schoolなどに代表されるようなEdTech系のサービスが登場してきたことで、教育というものがすこしずつ民主化されていく流れがあったり、教育の現場でもハンズオンなアクティブ・ラーニングを重視したものが登場してきたりという悪くない流れはある。

けれど、いまだに「学生」という身分が何か学びの特権をもっているかのように、その身分にないものは学びとは無関係な存在であるとでもいうかのように、多くの社会人が自分を学びや研究とは縁遠いものと考えるのが普通になってしまっている。

でも、自然の解釈と人それぞれが自然を前に感じる心の動きの重なりあいが本来の学びであり、研究であるという観点からみれば、なんらかの正解なるものがあるのを想定するような前提が間違っているのだし、それを前提に中央集権的にアカデミーや大学をはじめとする研究・教育機関だけが「教える」といったシステムに欠陥があるといってよい。
それはまさに、貨幣システムが国家というものによって中央集権的に運営されていた時代から、ブロックチェーンという民主主義的な技術を通じた仮想通貨により、何かひとつの正しさ=保証を前提にしなくてもよくなりはじめているのと同様に、より民主化されたネットワークのなかで複数のコミュニティのなかでそれぞれ承認された納得解が成立させることができるような状況はすぐそこにあるように思う。
説明は理解する能力がないことを直すために必要なのではない。反対に、この無能力こそが、説明家の世界観を構造化する虚構なのだ。無能な者を必要とするのは説明家であってその逆ではない。無能な者を無能な者として作り上げるのは説明家である。何かを誰かに説明するとは、まず第一にその人に向かって、あなたは自分ではそれを理解できないのだと示すことだ。説明は教育者の行為である以前に、教育学の神話、すなわち学識豊かな者と無知な者、成熟した者と未熟な者、有能な者と無能な者、知的な者とばかな者に分かれた世界という寓話である。
ジャック・ランシエール『無知な教師』

無能かどうかは、何か1つだけ正しいものがあるかのような限定から生まれる。そして、ランシエールがいうように無能な者を必要とするのは、教える側でしかない。

しかし、もはや誰かが教える有能な側で、誰か別の者が無能な者で教えられる側であるという関係性を固定化する必要などまったくないし、固定すればするほど、その社会そのものが硬直してしまう。この硬直化した状態を逃れ、誰もがみな学びあう者という流動性を社会が確保できたとき、その社会はより創造的になる。
そのとき、学びは学生という身分の人たちのもの、研究もまた研究者だけが行えばいいものと信じる古典的すぎる発想は通じなくなり、それを持ち続けている人、地域と、そうでない人、地域との差は歴然となるだろう。
前者の人々は、引き続き、正解からは外れた「解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう」ことを続けて、無思慮な人間でい続けてしまうのだろう。



意のままに思考を生み出して運動させることができれば、観察者は、先行する実際の印象がなくても、自然についての観念を生み出し、自然の構図を描き出すことができるようになる

ノヴァーリスはこんな風にも書いている。
こうして、徐々に思考のメカニズムを会得し、何度もそれをくり返しながら、どの印象にも必ず結びついている思考運動を他のものと区別し、これを保持しておくことを学んでいくのです。そのとき、もし、若干の思考運動を、自然の文字として取り出すことができたならば、かの暗号解読も次第にたやすく行われるようになるでしょうし、また、意のままに思考を生み出して運動させることができれば、観察者は、先行する実際の印象がなくても、自然についての観念を生み出し、自然の構図を描き出すことができるようになるわけで、そうなれば、最終目的は達成されたということになるはずです。

このシーンにいまのVRやAIといったものが身近にある時代の学びの様子を思い浮かべるのは僕だけだろうか。
初期ロマン派の詩人ノヴァーリスが想像していなかったことがあるとすれば、こうした印象や観念というものを人が、みずからの肉体を超えて、多くの他人と共有することもできるようになるといったことかもしれない。

いまや、それぞれの思考を共有することは容易になってきているし、今後ますます、それは容易に、かつリッチな体験として共有できるようになるはずなのだから、あらかじめ決まった正解を前提としたコミュニケーションなどをはかる必要などはますます減って、それぞれがみずからの思考を他人の思考とからみ合わせながら、創造的にともに納得できる解を編集的につくりあげていくことのほうが普通のことになるだろう。

もちろん、それは単なる妄想の共有なのではなく、あくまで、そこにあるのは自然を解釈する者としての人間、詩人という態度だろう。
言語としての自然はヴィーコにあっては古代神話思考の中核概念として現れる。「全自然がユピテルの言語である。どの異教国民も自分がこの言語を知るのは、ギリシア人が神の学、即ち神の発話を解する知識と呼ぶところの占卜地のお蔭であると考えている」と。ゲーテはどうかと言えば、時に自然を占卜の言語とみなし、なんとも素晴らしい「人間とは自然が神と発した最初の言葉である」という言葉を残している。この言語は科学のしての言語ではない、暗号ではない。それはここで暗喩の形象、そして神話を思いきり詰め込まれる。自然が言語だとするなら、それは詩としての言語である。みずからも発話の能力に恵まれた人間の精神が理解し、解釈しなければならない発話がこれである。人間自身の言語が詩的なものである限り、それはこうして言語という形象の下に眺められる自然の働きと一致する。こうして詩人はみずから発見しようとしている相手に似るのである。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

さて、あなたは「みずから発見しようとしている相手に似る」詩人としての学びをはじめる用意はできているだろうか。解放された学びの場にみずから足を踏み込む準備は…。

   

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posted by HIROKI tanahashi at 00:22| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする