2017年09月25日

編集的思考でみずから解釈する、詩人のように

編集的に思考できる力がいま必要だ。
世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。
ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。
単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。


レンヌ美術館の「驚異の部屋」の展示棚。無数の奇異な品々は奇異さというキーで編集的に集められたもの


いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。
逆にいえば、状況を自分でしっかり考えとらえられないセンスの欠如は、自らの思考と編集的な作業をうまく絡ませて、言語化する作業を怠ることに起因する。

そんな考えが浮かんだのは、ロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』の、こんな一説にふれたときだ。コリーはシェイクスピアの『ソネット集』からソネット21番の一部を引きながら、こう語る。
"ああ、愛において真実であるわたしは、詩作においても真実でありたい、
これが本当のこと、私の恋人は人の子の誰にも負けず美しいが
天空に据えられたあの黄金の蝋燭ほど輝いてはいない。
だから空っぽの美辞麗句が好きな者はなんとでも言えばよい。
私は売る気がないのだから褒めそやしたりしないのだ。"

もちろん、シドニー的な仕掛けは明らかだ。詩人は、己れがここで否定している、まさにその言語を用いて友人を讃美してきた。だが、我々は、そうした慣習的な美辞麗句がいかに空疎になりうるかを詩人が承知していたことがわかると、「これが本当のこと」というほうに軍配をあげたくなる。

通常、ソネットが愛する人を美辞麗句で包みこむところを、シェイクスピアはあえてその形式を逆手にとって、美辞麗句で飾り立てることを拒む。これは「真実でありたい」がゆえに本当に真実を語っているということではない。ソネットとは恋人を美辞麗句で飾るものであるという形式をあらためて前景化すること自体が、真実そのものを宙づりにしている。

量子力学の基本方程式を明らかにしたことで知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉を思いだす。
大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ。

この「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ためには、科学者の視点というよりも、実は、編集的な視点が必要だ。特に、詩人的な視点での編集が。

ナチュラル・ヒストリーとして詩

僕自身、遅ればせながら、"詩"というものの力をあらためて理解しはじめたのはこの数ヶ月のことだ。

きっかけを与えてくれたのはエリザベス・シューエルの『オルフェウスの声 詩とナチュラル・ヒストリー』
そして、シューエルが「この詩は、まず純粋な自然世界で形を成し、次に人間の世界で形をとり、一の変化する形象が間断なく他のそれにと移っていく、成長とプロセスを大観してみせた傑作と言える」と評し、まぎれもなく彼女が『オルフェウスの声』を書くことにした最重要の震源でもあるオウィディウスの『変身物語』を同時に読みながら、詩というものがスコープとするものの大きさをあらためて感じとったことが、詩の力を再認識したきっかけだ(『変身物語』の書評)。



詩というものを、僕らはきっと誤解している。例えば、こんな例を知ると、どうだろう?

シューエルが「有機無機を問わず、事物に強烈な関心があるし、事物を相手にする諸科学に通じたい欲望がある
」と評する20世紀オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケは、
自分が星について、花、動物について、生命のあらゆる仕組みについていかに無知か嘆き、「自然科学と生物学の本を読み、講義を聞きに行こう」と殊勝な決心をしているのは1903年、1904年のことである。後になると計画はもっと具体的で、「それでは夏学期には大学に行って、歴史学、自然科学、生理学、生物学、実験心理学、少しは解剖学等々も学ぼう」とある。

とあるように、自然世界から人間世界へと「一の変化する形象が間断なく他のそれにと移っていく、成長とプロセスを大観してみせた傑作」である『変身物語』同様に、詩はまさにナチュラル・ヒストリーを司るものだというスタンスの下に詩作をしている。

それは、ゲーテが詩人であると同時に『色彩論』『植物変態論』などの科学的著作を著していたことだったり、進化論を提唱したチャールズ・ダーウィンの祖父であるエラズマス・ダーウィンが生物学者として進化論の原型を孫よりもはやく打ち立てていたと同時に、詩集『植物の愛』などを書いていたことも思い出される。
もちろん、シェイクスピアも、そして、彼と同時代人のフランシス・ベーコンも同じような観点で、詩の力、神話を歌いあげる力を用いて、ナチュラル・ヒストリーを説いている。

そもそもオウィディウスの叙事詩からして、自然世界がいかにして形を成し、それが人間の世界とどう関係しているかを説明しているナチュラル・ヒストリーなのだから、詩とはそうした伝統のなかにあるのだろう。

発見の前に、記号や形相が必要だ

エルネスト・グラッシは『形象の力』のなかで、こう書いている(『形象の力』の書評記事)。
現象世界は多様な姿をとって眼前にあるとわれわれは言った。それは解釈を要すると。この解釈が実行されない限りは、ないし現象が意味、記号、形相を与えられない限り、われわれは希望なく世界の前にたたずむ。なにしろすべてが記号なしならば、どうして何かを発見することことができよう? 記号なき世界はあらゆる衝動が方向を持たないままである。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

以前、「わかることよりも感じることを」という記事を書いたが、世界を理解し、科学的発見をするためには、何より先に現象を記号や形象を通じて解釈する必要があるわけで、そのためにはわかるより先に感じとることが必要だということを、僕らはあらためて認識したほうがいい。



自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕

まだ記号化されていない自然に形象を与える役割こそ詩人であり、芸術家である。彼らが記号化したものをベースに科学的発見ははじまる。その逆ではありえないのだ。
だからこそ、ゲーテもエラズマス・ダーウィンも、科学者であり、詩人であったのだろう。
『ノウム・オルガヌム』の劈頭、めざましい場所に、その簡潔な定義というに近いベーコン自身の句があって、"Homo nature minister et interpres"という。「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」の意。ベーコンはいつも「解釈者の仕事」が肝と言い続けている。そのことを一般論として言った言葉が「執筆計画」中にこうある。「何故なら目下の事柄はただ単に頭の中でたまたま思い付いたというものではなく、人類の真面目な仕事と幸福なのであり、操作の力の全てであるからだ。というのは人間はただ単に自然の僕にして解釈者だからで、彼が為し、彼が知るところは自然の秩序を事実に於て、思惟の中で観察し得たものに過ぎず、それ以上のものは為しもしないし、知ることもない。因果の鎖はどうやってもゆるめたり壊したりできない以上、自然も何とかしようとすれば、ひたすらこれに服従するしかない。こうして2つのもの、人間と知と人間の力は現にひとつに合するのである」。

この「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」というベーコンの捉える役割にこそ、詩人というものの定義があるように思う。そして、それは先のシュレーディンガーの言葉「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」に共鳴してはいないだろうか。



いま、必要な編集的思考にも同じことがいえると思う。
まだ誰も明確には言語化していない時局を、様々な出来事から編集的にとらえること。それは詩人による自然世界の解釈と同じだと思う。
自然世界と、この幾重にも人工的なものや仕組みに覆われた人間社会とでは異なると思うかもしれない。けれど、いまの人間社会というものはむしろ自然と人工がもはや分解不可能なくらい絡みあった世界で、それを解釈するためには結局、ナチュラル・ヒストリーが必要なんだと思う。
「アート」にしろ「アーツ」にしろ、実に多くの意味を持っている。それはベーコン同時代にはほとんどあらゆる種類の操作(operation)を意味することができた。ベーコンの求めた自然解釈の技術(アート)も意味できたし、その一部は今日科学の名で呼んだ方が良いリベラル・アーツ(liberal arts)も、職人たちの実践の匠み(アーツ)も、挙句は魔術も、即ちプロスペローの「威神の術(アート)」、フォースタス博士の「地獄堕ちの術(アート)」までも意味できた。このことで分かるのは実績(practice)も操作(operation)も成り立ちからして、プロセスとして、「人間が力貸す自然」として括られるということだ。

「人間が力貸す自然」としてのArtsが、実績や操作を成り立たせる。もちろん、そのプロセスで働いているのが、人工物も含めた自然を編集的にあつかう思考だ。

何か1つの正解があることを前提にして考えられる時代は終わってしまった。
いまは、自らが編みあげる解によって、まわりを巻き込んでいくことが必要な時代である。
納得解をまわりとの共同作業でつくあげていく編集的思考こそが求められる。
その際、必要になるのが、詩人のように「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」として立ち振る舞い、誰かほかの人による解釈ではなく、自然そのものに向き合い、みずからの解釈を編みあげようとする姿勢であるはずだ。

そう。誰かが放った「美辞麗句」なんかに躍らされてる場合では決してない。

  

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posted by HIROKI tanahashi at 00:25| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする