人間社会で生活をおくる上で、何が許され、何が批難されるべきなのか。そんなものに正解などない。
なのに、正解がある前提で話をしたりするから、どちらが正しいといった無駄な争い、衝突がおこる。

ジャンヌ・ダルクが処刑されたフランス・ノルマンディーの都市ルーアンのヴュー・マルシェ広場
いまは聖ジャンヌ・ダルク教会が建つ
正解がないのはもちろんのこと、歴史的にみれば、その振れ幅というのは、今の僕らには考えられないくらいの大きさをもっていることに驚かされたりもする。
例えば、前回の記事でも紹介したホイジンガの『中世の秋』に描き出された中世ヨーロッパ社会では、人びとはどんな倫理観で動いていたのか?と疑念を抱くような驚くべき事柄が次々と紹介される。
そのひとつが処刑。中世ヨーロッパ社会においては、処刑が見世物としての性格をもっていたというのだ。
処刑台は残忍な感情を刺激し、同時に、粗野な心の動きではあるにせよ、憐れみの感情をよびおこす。処刑は、民衆の心に糧を与えた。それは、お説教付き見世物だったのだ。ホイジンガ『中世の秋』
ジャンヌ・ダルクの火あぶり、魔女狩りなど、僕らが思い起こすことができる中世の処刑の風景はたしかに町の広場で行われているイメージがある。
罪人だけでなく、大貴族もまたこの見世物の犠牲になった。
人びとは「きびしい正義の執行をまのあたりにして満足」したという。当局は、この見世物の効果を損なわないようにするため、その地位にふさわしい服装を犠牲者にさせ、大貴族らしい身なりのまま処刑された。
人びとは、高い身分のものも罪を犯せば処刑されるという正義の執行に満足しただけでなく、処刑という見世物を通じて、別の形でも心を動かされた。
ブリュッセルでのこと、放火犯で殺人犯のある若者は、燃えさかる粗朶にかこまれて、付け根の環が杭にはまってぐるぐるまわるしかけになっている鎖につながれた。かれは、心をえぐるような言葉で、自分をみせしめとみるようにと、人びとにうったえた。「かれの言葉に、人びとの心はおおいになごみ、憐れみの涙にくれぬものとてなかった」。「かくて、かれの最期は、かつてみられなかったほど美しいものだったと賞揚されたのである」と、これはシャトランの言である。ホイジンガ『中世の秋』
人びとはこうした見世物としての処刑を見ながら、ふだんはぴくりとも動かぬ心を大きくふるわせたのだという。
けだものじみた
これらの例ははまだ理解の範疇になるだろう。けれど、次のような例になると、もはや現代の感覚では理解できないものとなる。
後期中世の司法の残酷さがわたしたちをおどろかすのは、その病的倒錯によってではない。その残酷さのうちに民衆のいだく、けだものじみた、いささか遅鈍な喜び、その残酷さをつつむ陽気なお祭り騒ぎによってである。モンスの町の人びとは、ある盗賊の首領を、あまりにも高すぎる値段だというのに、あえて書いとったが、それというのも、その男を八裂きにして楽しもうとしてのことであった。ホイジンガ『中世の秋』
処刑そのものをより残酷な見世物として陽気なお祭り騒ぎにしてしまう感覚はまさに「けだものじみ」ている。

処刑だけではない。拷問もまた見世物とされた。
例えば、こんな残酷な楽しみ方をした例がある。
1488年、マキシミリアンがブリュージュで捕虜になっていたときにこと、この捕われの王の居室からよくみとおせる広場に、足場を高く組んだ拷問台が設けられ、裏切りの疑いをかけられた市参事会員たちが、なんどもなんども拷問にかけられた。民衆はなかなか満足せず、早く処刑してくれとの参事会員たちの懇願にもかかわらず、さらにかれらの苦しみをみて楽しもうと、処刑してしまうことをゆるさなかったという。ホイジンガ『中世の秋』
すぐに痛みから解放しないという面では、拷問は処刑以上の残酷さを感じる。
しかも、それを楽しむというのだから、やはり現代の感覚では理解しがたい。
残酷に笑う
だが、こうした処刑、拷問の残酷な楽しみ方もまだ罪に対する罰という観点という言い訳が成り立つ分、ましかもしれないと思えるのは、さらに素朴な残酷さ、下品さを感じさせる例があるからだ。1425年、パリでのこと、ある「おなぐさみ」が催された。武装した4人のめくらが一匹の子豚をめぐって闘う、という悪ふざけである。その前日、かれらは、武具をつけさせられて、市中をひきまわされた。風笛吹きと、子豚の描かれた大きな旗をもつ男に先導されて。ホイジンガ『中世の秋』
目の見えないもの4人の男が棍棒をもって子豚と闘う。結果、起こることを想像することは簡単だ。子豚と思って棍棒で殴りつけるのはお互い同士である。これまた現代ではありえない事態である。
こうした身体になんらかの違いをもつ者を、楽しみの道具にしてしまう悪趣味は何も民衆だけではなかった。宮廷においても、同じような例はみられる。
例えば、ホイジンガはあの有名なベラスケスの絵のなかにあるものをこう説明してくれる。
ヴェラスケスは、小人の娘たちの深くもの悲しい顔をかき残してくれた。当時まだスペインの宮廷では、小人の女たちが道化役として珍重されていたのである。15世紀、かの女たちは、各地の君侯の宮廷からひっぱりだこにされた遊びの道具だった。宮廷の大祝宴の趣向をこらした「余興」に、かの女たちは芸を披露し、奇形の姿をさらした。ホイジンガ『中世の秋』
ここでホイジンガの頭に浮かんでいるのは、あの有名な「ラス・メニーナス」だろう。

ディエゴ・ベラスケス「ラス・メニーナス」(1656)
もはや17世紀になるのに、いまだ身体に特徴のあるものを笑いものにする傾向は続いている。
ミハイル・バフチンは『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』で、「グロテスクをなりたたしめている笑いの原理の変質、笑いの再生的な力の喪失の結果、ロマン派のグロテスクと中世、ルネサンスのグロテスクを分かつほかの一連の本質的な相違も生じてくる」と言っている。ベラスケスの「ラス・メニーナス」は、この中世、ルネサンスのグロテスクの最後の作品ともいえる。19世紀後半のロマン派になると、グロテスクにはもはや笑いはなく、むしろ恐ろしさと背中合わせのエロティックな美があるのみだ。
一方、中世のグロテスクはまるでそれとは違う。
民衆的な笑いの文化とつながりのある中世、ルネサンスのグロテスクは、おかしな怪物の姿でしか恐ろしきものを知らない。つまり、笑いによってすでに打ち負かされた恐ろしきものしか知らないのである。恐ろしきものはここではつねに滑稽で陽気なものに姿を変えている。ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』
目の悪い人々をおたがいに棍棒でなぐりあわせる姿を見て笑うことに一点の恐れもあらわれない、それが中世のグロテスクである。

笑うために描くルネサンス、描くこともできない中世
ポール・バロルスキーが『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』で紹介する、こんなルネサンスの宮廷でのシーンも、中世の笑いと地続きなのだろう。レオ10世を自作の喜劇で楽しませることのできなかった修道士が、鞭打たれたあげくに皆が縁をもった毛布で空中に放りあげられたという話にしても、この惨劇を見ていた教皇やそうの取り巻きが死ぬほど笑ったと聞かされても、われわれ自身は楽しむ気になれない。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
ここでバロルスキー同様、とても笑う気にはなれない、かわいそうな修道士の惨劇を笑うのは、ほかならぬカトリックの教皇である。
逆にいえば、僕らがいま抱いている倫理観などというものも単に現代特有の感情でしかないだろう。
修道士を鞭打ち笑うルネサンス人と、動物への虐待すら激しく非難される現代人。どちらが正しいなんていう議論など成り立つはずはない。
バロルスキーは続ける。
「われわれは醜く歪んだ者どもを見て笑うのです」と、ルネサンス詩人はキケロやインティリアヌスに倣って述べているわけだが、レオナルドの素描に見られる畸型の人物たちが笑いを誘う目論見から描かれたのだとは、われわれ現代人にはどうしても信じられない。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
ここでバロルスキーが言及している、レオナルドの素描とは例えば、こうした絵だ。

レオナルド・ダ・ヴィンチ"Grotesque Heads" (1495-1498)
この絵が笑うために描かれたなどということを、現代の僕らは指摘されなければまったく気づくことができない。気づくためには、中世の残酷な笑いの文化を知らなくては理解すらできないだろう。
勘がいい人は気づくのだが、こうした絵がすこし先に綺想の画家アルチンボルドが果実や植物、動物や魚類を寄せ集めて奇怪な肖像画を描くことにつながっていく。ただ、その時点になると、単なる笑いに、すこしずつ学知的な色合いが加味され始めもする。
しかし、こうした笑うためにグロテスクな絵を描いたルネサンスに対し、中世まではそうすることもできなかったのだということも付け加えておきたい。
ホイジンガは、「より美しい世界を求める願いは」いつの時代においても3つの道があったと言っている。
第1の道は、世界の外に通じる俗世放棄の道。第2の道は、世界そのものの改良と完成をめざす道。そして、第3の道は、「夢みることである」。
中世においては、第1の道はあっても、第2の道は考えにも及ばなかったらしい。したがって、第3の道が選ばれるのだが、夢みることはその後のルネサンスのように絵画に、詩に、演劇に、というかたちで追い求められたのではなく、中世末期においては「生活のかたちが、芸術のかたちに作り変えられる」というねじれたかたちで追い求められたのだという。
「生活そのものを、美をもって高め、社会そのものを、遊びとかたちとで見たそうとするのである」とホイジンガはいう。
だが、ここまで紹介してきたような、どこまでも残忍で、冷酷であった現実がいかに美しい世界への作り変えられたのか? それが中世において、たとえば貴族の社会において騎士道が理想化され、一般の人々にとっては聖人たちの生き方が理想とされた理由なのだという。
理想の形態に飾られた貴族主義の生活、生活を照らす騎士道ロマンティシズムの人工照明、円卓の騎士の物語のよそおいに姿を変えた世界。生の様式と現実とのあいだの緊張は、異常にはげしい。光はまがいで、ぎらぎらする。ホイジンガ『中世の秋』
残酷で野蛮で冷酷な現実があったからこそ、むしろ、極端に異なる、騎士道の英雄や聖人たちを理想においたのだ。その光はぎらぎらするほど、まがいであったからこそ、夢としての機能をもてていたのだろう。

倫理が現実を茶番にする
この現実と激しく乖離した「夢」としての騎士道や聖人という理想こそ、中世における倫理であったといえる。しかし、その倫理はほとんど現実をより良くする方向には機能しなかった。
世界をよりよく、より幸福にしようとの堅い意志をもつものがいないという状況は、生への不安、未来への絶望という気分を、いやがうえにも強めたのである。世界のほうでも、また、なにもよいことを約束しなかった。よりよい世界を求めながらも、現世を捨てきれず、この世のすばらしさになお未練をつないでいたものは、ただ絶望へと陥るのほかなかったのである。希望や喜びは、どこにもみいだされなかった。ホイジンガ『中世の秋』
希望や喜びはみいだされなくとも、人々はひたすら騎士道や聖人たちをみずからの倫理として使い、それをときには行動指針として現実を演じることもあった。
騎士道精神にのっとって無駄な戦死をすることもあれば、聖者の真似をして現実を捨てた日々を過ごすこともあった。倫理はそんな風に、むしろ、現実をさらに悪いものにしてしまうかたちで機能してしまうこともあった。
中世と現代の倫理観は、ここまで書いてきたように大きく異なる。
けれど、ここにきて倫理がむしろ現実の判断を茶番じみたものにしてしまうという点では、中世も現代も変わらないのではないかとさえ思えてくる。
現代においても、どれほど様々な場面で凝り固まったかたちで自身の倫理や正義を振りかざし、異なる倫理や正義をもつものとの互いに無益な衝突をくりかえすことは本当によくあることなのだから。
だとすれば、倫理とはけっして本当の意味では正義でもなんでもないことを意識して、自分が信じるものとは別の倫理がほかにもたくさん存在することに気が付けるようしておくことが大事なのではないだろうか。
ホイジンガの描く、中世の異質な現実を知るほど、そんなことを考えたくなる。
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