デザインをフィニッシュするのはユーザー自身の仕事

さっき書いた「ゴムのユーザー」というエントリーに、こんなコメントをいただきました。

ユーザーを特定することがユーザビリティの基本ならば、デザインはユーザーの数だけ必要になるのではないですか?
ペルソナについて言及するなら、この根本的な争点を避けることはできないはずですが。

いやいや、そもそも、デザインが本当にユーザーの数だけあったら、とてもじゃないけど、ユーザー自身にもどれが自分向きのデザインなのか区別つけられなくなります。それ以前に個々のデザインの違いやその意味するものを把握することは不可能でしょう。

スーパーとかに売ってる野菜の山なんかをイメージするとそれがわかるんじゃないでしょうか。
あるものと別のあるものを見比べれば違いがわかるでしょうけど、山の中に再びそれらを放り込んでしまったら、さっき気づいた違いなど見分けがつかなくなるのではと思います。
それと同じことで似たようなものの違いを認識できる人間の能力には限界があって、たぶん、それが制約条件になってユーザーの数だけデザインがあるというのはあんまり現実的ではないと思います。

現実的には・・・

なので、デザインするもののユーザビリティを考慮するといっても、ユーザーを特定し、その利用状況を特定するのは決してひとりひとりの違いを特定するという意味ではなくて、あくまでユーザー間の共通パターンを見出し、それを何人か分のペルソナ/シナリオという形で表現するのが現実的です(通常は3~5人分くらいが適当)。

ここで現実的といってるのは、労力やコストの面からいってるのではなくて、実用的なデザインの際・バリエーションの数を考えるとそれくらいが適当なのではという意味です。

それを元に、3~5人分のペルソナができるだけ共通で満足できそうなデザインを生み出すか、もしくは、3~5人分のペルソナそれぞれに応じたバリエーションをもったデザインをつくるとかするわけです。
3~5人分くらいが適当なのは、似たような用途で利用する同じ製品であれば、その違いを意味あるものとして見分けられるのはせいぜい3~5種類くらいだったりするからでもあります。

自分の部屋は自分のライフスタイルに合っている

でも、実はひとつだけユーザーがデザインの微妙な違いを気づくことができる可能性があります。それは違いを生み出す作業自体をユーザーの手にゆだねてしまう場合です。

ドナルド・A・ノーマンは『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』の中でこんなことを書いています。

製品のデザインは目標を誤っていることが多い。一定の仕様に添ってモノが構成され作られるが、多くのユーザーは見当違いだと気づく。購入した既製品は、かなり満足に近いところまではいっているかもしれないにしても、ニーズにピッタリくることは少ない。幸いなことに、我々は別々の品物を自由に買って、自分にとってちょうどうまく機能するようにそれらを組み合わせることもできる。自分の部屋は自分のライフスタイルに合っている。自分の持ち物が個性を反映しているのだ。

きっと自分の部屋に限りなく似せてつくられた部屋を見せられても、それが本物の自分の部屋じゃなかったら、人はそれがにせものだと気づくのじゃないでしょうか。
自分のニーズにピッタリ合うというのはおそらく、自分自身の多少なりともの努力が既製品を変形(それは単に置き場所を決めるという些細なことかもしれませんが)させてはじめて生まれてくるものじゃないかと思います。
それはデザイナーがどんなにがんばっても「かなり満足に近いところまではいっている」状態にたどり着くのが精一杯のところで、あとはユーザー自身にゆだねるしかないのではないかと思います。

着る服のコーディネイトとか、部屋の模様替えとか、既製品のちょっとしたカスタマイズとか、結構、人はそういう作業自体を楽しんでいるし、そういう作業自体が既製のモノに自分らしさを与えてくれたりするのではないかと思います。
結局、そこまで含めてユーザー経験なのでしょうし。

いや、むしろ、ノーマンが言うとおり、「製品のデザインは目標を誤っている」のかもしれません。「かなり満足に近いところ」というのが実際のデザインの目標であって、それ以上を望むのは目標設定の誤りなのかもしれません。

デザインをフィニッシュするのはユーザー自身の仕事

先のコメントに戻ると、「デザインはユーザーの数だけ必要になる」というのはその通りだと思います。
ただ、それはデザインをするデザイナーの目標ではないのでしょう。
「デザインはユーザーの数だけ必要になる」ということが成り立つとしたら、それは「デザインをフィニッシュするのはユーザー自身の仕事」だと捉えることができたときなのではないかと思います。

デザイナーが「かなり満足に近いところ」まで持っていって、ユーザー自身がフィニッシュする。そんな感じがよいのでは?
それこそ、デザインを通じたユーザーとの対話ですね。

 

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この記事へのコメント

  • BC

    ユーザー間の共通パターンを抽出した場合、それはペルソナと言えるでしょうか?
    ペルソナは実在しそうな人格でなければならず、それは別の言い方をすれば、パターンにはマッチしない個別性、すなわち特定の個人的な文脈を持っていなければならないということです。
    パターンを重視するならば、それは人格である必要はなく、単なるユースケースのセットでよいということになります。
    ペルソナを利用したデザイン手法が抱える課題はその個別性の捉え方にあって、ユーザー要件を構造化(つまりパターン化)すればするほど、ペルソナは人格としての意義を失っていくということです。
    ペルソナとシナリオを混同する間違いもよく見受けられ、ペルソナが特定の人格を作るのに対して、シナリオはユースケースやアクティビティをクラスタリングするためのものだということが理解されていません。
    その意味で、ペルソナは、マーケティング上のスローガンに過ぎないのです。

    また、もしデザインがユーザーの数だけあったとしても、コンピュータの世界では、ユーザー自身がそこからひとつを選ぶ必要はないのです。
    2007年06月20日 02:25
  • tanahashi

    パターンにマッチしないペルソナなんて作って意味あるんでしょうか?
    個別性と個人の人格を混同してませんか?
    2007年06月20日 11:34

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