2017年09月12日

思考も感情も個々人の自由などではなく、社会・文化的な様式あってのこと

本を読むなら一度に1冊ずつ読むよりも、複数冊の本を同時に読み進めることが良いと思う。
その方が本に書かれたことから、気づきを得たり、自分の思考に落とし込むことがスムーズになりやすいからだ。

本を読むというのは、決して、そこに文章として書かれた内容をただ読むという行為ではない。それは書かれたことと自身の体験や既存の知識とを折り合わせながら、自分自身の思考を紡いでいく作業なのだと思う。書かれたことを純粋に読んでいるつもりでも、そこには読む人自身の経験や持っている知識の影響が織り込まれないということはない。だから、書かれたことの解釈は異なるのだし、そもそも解釈なるものが自身のもつ経験や知と切り離せない。
だとしたら、そのことをむしろ積極的に利用して、読書というものをより意識的に知の創造的行為に仕立て上げた方がよいと僕は思う。



その視点に立つ際、複数冊の本を同時に読むという方法は有効だ。
1冊の本が相手だと、本と自分の1対1の関係になって解釈の膨らむきっかけが限定されてしまう状況に陥りがちだが、それが複数冊同時の読書だと、本と自分という1対1の関係から、本と本との関係が加わり、本同士の共鳴が1冊の本との間では生まれ得なかった気づきをあたえてくれることがよくあるからだ。
もちろん、いま読んでる本と過去の本の記憶でもそういうことは起こりえるが、やはり長い空白期間のある過去の記憶をたよるよりはより身近な記憶のほうが共鳴が起こりやすい。

僕自身、ソファーで読む本、寝るときに布団のなかで読む本と場所ごとに読む本を変えるということをよくやる。
そうすると、さっきまでソファーで読んでいた本に書かれていたことが、寝る前に読みだした本の内容に共鳴して、「なるほど、だからこういことが起こるのか」と、どちらの本にも直接は書かれていない解釈を自分自身のなかで見いだすことがよくある。

まあ、こういう解釈力というものは、当然ながら読書体験に限ったことではなく、何かを考えるという行為自体、この手の情報編集的な頭の使い方にどれだけ長けているかに関わっている。
複数の異なる人の言ってる異なる意見のなかで妥協ではない、双方が納得する新たな解を見つけだす場合だって、結局、異なる人の会話を理解しつつ、そこに自身の経験のうちに蓄積されてある様々な情報から、うまく使えそうなものを探りつつ、それらの組み合わせから「これだ!」という納得解を見つける編集作業以外の何物でもない。

そういう頭の使い方を日頃から訓練しようとする方法として、複数冊の本を同時に読み進めるという方法はぜひお勧めしたいやり方だったりする。

思考はすべて、形式によって組織化され媒介される

そんな共鳴が最近も起こっている。
ホイジンガの『中世の秋』とロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』という2冊の本のあいだで。
前者は、そのタイトルどおり、中世末期、特に13〜14世紀のフランス中世を中心にその文化の様相を描き出した一冊であるのに対して、後者はこちらもタイトルどおり16世紀と17世紀のはざまを生きた英国ルネサンスの代表的芸術家シェイクスピアの創作を中心に扱った一冊であるから、この2冊は扱う時代も違えば、扱う国もフランスとイギリスという違いがある。
けれど、この違いは違いではあれど、大きすぎない違いだったりもする。中世末期とルネサンスは隣り合った時代といえるし、フランスとイギリスはもちろん地理的に隣り合っている。この違いすぎない違いというのは複数冊読書において共鳴を生みやすい条件だったりする。



では、この2冊を読みながら、どんな共鳴が僕のなかで起こったのか?
それは「文化的な様式というものがこんなにも僕ら人間の思考や感情に深く関わっているのか?」という驚きに満ちた気づきをもたらすような共感だった。

この2冊のうち、先に読み始めていたのは、コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』のほうだった。
コリーは、その本をどういう目的で書いたかをこう説明している。
本書における私の主たる関心は、文学の形式に、そして文学が文学外の形式を用いる方法にあるが、私はもちろん、思考はすべて、形式によって組織化され媒介されるものであると考えている。ときにはそれが、あまりにも自然で無自覚になされるため、知覚した当人さえも、それが形式的知覚、形式による知覚であることに気づかないことも少なくない。探す気があれば、「形式」はどこにでも見つけられる。

「思考はすべて、形式によって組織化され媒介される」。このコリーの考えはもともと僕自身の考えとも近いので、最初にコリーがこの本の執筆意図をこう説明しているのを読んで、「あ、この本は面白いだろうな」と思って読み進めたわけである。

形式の組み合わせだからこそ、先に書いたような複数読書を通じての編集的思考が可能になるのだし、そこから創作的に「自分の考え」を紡ぎだすことできるのだと思う。
コリーは、そうした思考術が天才レベルで得意な代表的な人物としてシェイクスピアを召喚している。
シェイクスピアは、まさに駆け出しの頃から、文学の素材……文学上の慣習、伝統、ジャンル、様式、創作に利用できるありとあらゆる要素や道具……を扱うのが驚くほど巧みだった。

こうした形式からシェイクスピアの創作を考える本を読み進めていたなかで出会った、ホイジンガが描く中世文化の世界は真に衝撃的だった。

はげしい情緒の高まりを、荘重な共同の行為のうちに様式化しようとする中世の日常

とにかくホイジンガが描きだす中世世界は現代の僕らにとっては容易に理解することが不可能な精神性に満ちている。良くも悪くも感情表現が極端すぎるのだ。
ホイジンガは中世都市の生活の雰囲気を「不安定な気分」と評する。
すべてが、多彩なかたちをとり、たえまない対照をみせて、ひとの心にのしかかる。それゆえに、日常生活は、ちくちくさすような情熱の暗示に満たされ、心の動きは、あるいは野放図な喜び、むごい残忍さ、また静かな心のなごみへと移り変わる。このような不安定な気分のうちに、中世都市の生活はゆれうごいていたのである。
ホイジンガ『中世の秋』

「むごい残忍さ」と「静かな心のなごみ」というコントラストの強い対比が日常的に同居する、そんな極端な躁鬱病的世界が中世の都市を不安定な気分で覆い尽くす。

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すべてがはげしいコントラストに彩られた中世都市で、例えば、有名なフィレンツェのドミニコ会修道士サヴォナローラに代表されるように、宣教師たちでさえ、街中で大声で説教を繰り返し、虚栄の品々を町の広場で焼き払わせたりという派手な行為を繰りかえした。
この焼き払いは、説教師が民衆の激情を誘うところ、15世紀のフランスにおいても、イタリアにおいても、しばしばくりかえされた行事であった。つまりは、これは、虚飾や娯楽にふけった生活を悔い、これを憎む気持をよく表現する儀式であり、はげしい情緒の高まりを、荘重な共同の行為のうちに様式化しようとする努力なのであった。まさしく、この時代は、すべてについて、よいかたちでの様式を作りだそうとする傾きをみせていたのである。
ホイジンガ『中世の秋』

あらゆるものを様式化しようとする中世。様式化するのは、わかりやすくするためだといえる。はげしいコントラストに彩るのは、判断を明確にするためだといえる。情熱の高まりを様式化したともいえるが、様式化されたことで中世の人びとは常にはげしく情熱を高まらせていたのだともいえる。中世の感情に中途半端はなかった。

諸伝統をときにはごく単純な方法で組み合わせるから生まれる創意

「生活の種々相が、残忍なまでに公開されていた」とホイジンガは書く。あらゆるものがそれとわかるように「これでもか、これでもかと、みせつけられていた」のだという。「どんな事件も、どんな行為も、明確な、ものものしい形式にとりまかれて、はっきりと定められた生活様式の高みにまで押しあげられていた」のが中世の日常の景色であった。
らい病やみは、ガラガラを鳴らしながら、行列をつくってねり歩く。教会では、乞食が哀願の声をはりあげ、かたわのさまを開陳する。地位、身分、職業は、服装でみわけがついた。大物たちは、武具や仕着せできらびやかに飾りたて、畏れとねたみの視線をあびてでなければ、出歩こうとはしなかった。処刑をはじめ法の執行、商人の触れ売り、結婚と葬式、どれもこれもみんな高らかに告知され、行列、触れ声、哀悼の叫び、そして音楽をともなっていた。恋する男は愛人のしるしを身に飾り、仲間内では盟約の記章が、党派のあいだでは、その頭領の紋章、記章が身につけられた。
ホイジンガ『中世の秋』

あらゆるものが様式化され、人の感情や思考はその様式のままにはげしく変化する。紋章や記章が、武具や衣装が、儀式や処刑のような社会的催しが、すべて特定の意味、感情と結びつき、人びとはそれらのしるし=signとともに歓喜した。



このしるし、様式、形式に満ちた中世を前夜として、形式を扱う天才シェイクスピアがルネサンス期の社会に登場する。
シェイクスピアは生の雑然としたありよう、生成のさまざまな様態を、文学作品の実質として受容した。(中略)彼の素材は、異なる範疇や図式を源泉とし、想像力や技術の要求に適うように、さまざまに組み合わせられ、組み直されるのである。

過去の文学形式を素材として、さまざまな組み合わせ、組み直しによる無限の創作を生む文学的魔術師シェイクスピア。

シェイクスピアは生の雑然としたありよう、生成のさまざまな様態を、文学作品の実質として受容した。(中略)彼の素材は、異なる範疇や図式を源泉とし、想像力や技術の要求に適うように、さまざまに組み合わせられ、組み直されるのである。

コリーは「フォールスタッフ、イアーゴ、ハムレットは、演劇とそれ以外の多くの異なる伝統が寄り集まって造りあげた、みごとなまでに鮮やかな劇的人物である」とシェイクスピアが生み出したさまざまな有名な劇中の登場人物が伝統の組み合わせから創造されたものだと指摘する。「諸伝統をときにはごく単純な方法で組み合わせることによって、シェイクスピアの放蕩と、そうした気前よさの成果としての節約は発揮された」と、シェイクスピアの創造が、形式の巧みな組み合わせにより生まれるものであることを指摘する。
そして、それゆえに彼の創意は無限に尽きないのだというのだ。
シェイクスピアは明らかに、創造性が枯渇するという恐れを抱いていなかったので、葡萄酒のごとく、それも必要に応じて量が増えるカナの葡萄酒のごとく、己れの創意を奔出させることができたのである。

この組み合わせの術=アルス・コンビナトリアは、その後、かのライプニッツを経て、ロマン主義の詩人ノヴァーリスや象徴主義の詩人マラルメ、ヴァレリーらにもつながる伝統であることは、ジョン・ノイバウアーの『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』にも詳しい。



しかし、やはり、そうした18世紀、19世紀のアルス・コンビナトリアを操る詩人以上に、シェイクスピアの形式を操る手腕は抜きん出ている。その理由はもしかすると、あらゆるものが様式化された上で「生活の種々相が、残忍なまでに公開されていた」中世の余韻をまだ引きずっていた16世紀にシェイクスピアは詩作・劇作を行っていたからではないかと思われる。
まさに日常そのものが劇場の舞台で演じる役者たちの動き、セリフまわしののようにはげしいコントラストに彩られ、かつ、それらの言動さえ、様式化されていた中世を、その前夜として抱えていたルネサンス期のシェイクスピアだからこそ、さまざまな形式を巧みに(中世にはありえなかった自由さをもって)組み合わせることで、中世までにはなかった新たな創作的物語を生みだすことができたのではないだろうか。

様式に対して無意識のままいるか、意識的になろうとするか

ホイジンガの描く中世の社会と、シェイクスピアの創作はともに既存の形式、様式を用いて、感情や思考を動かしていたという点では何も変わらない。違いがあるとすれば、前者が何1つ疑うことなく、自らが用いることが可能な様式に巻き込まれていたのに対し、シェイクスピアのほうは意識的にそれらを操作し、みずからが生み出したい感情、思考を創造することができたという点だろう。

そして、この2つの様式に対する態度、すなわり無意識に様式に身も心も従わせるか、意識的に様式を操作しそれにより創作を可能にするか、という異なる2つの態度は、現代においてもともに見られる態度だと思う。
先に、中世にありふれたしるしをサインと言ったが、このサインからある程度距離をとり、それを自在に操れるようになるのがデ・ザインなのだと思う。だから、様式に無意識に突き動かされる人びとはデザインとは無縁である意味社会環境に溺れた人たちだということができるが、もう一方の様式に意識的な人というのはみずから社会あるいは自分のまわりだけでもデザインすることができる人たちというようにも考えることができる。

人は自分自身で自律的に感情をあらわにし、自分自身で自由に考えていると思っているかもしれない。
けれど、実際には、社会に埋め込まれたさまざまな様式、形式のプログラムに従って、感情を動かされたり、考えを巡らせられたりしているにすぎない。
だから、人にとって選択があるとしたら、様式や形式を用いず、考えたり感じたりすることを望むことではなく、いかに自覚的に形式・様式と戯れることができるかということだろう。
まさに、そんな戯れを可能にするためにも、複数冊同時読書のような習慣から、編集的な思考法を身につける必要があるように思う。

  

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posted by HIROKI tanahashi at 00:52| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする