ようは前者の人為的なクリエイションがなんとなく陳腐に感じてしまい、後者の自然が何かを生みだす力のほうにより大きなクリエイティビティを感じてしまうのだ。実際、どんなに人工的なものでも、創作の根本には自然の影響がある。創造性を発揮する人間の思考そのものさえも。
もちろん、人為的なクリエイションを否定するつもりなどは毛頭ない。
ただ、人為的なクリエイションを考える際、今後はこれまで以上に、自然の創造力を人為的なクリエイションにどう活かせるか(あるいは、どう影響を受けているか)ということを視野に入れていくとよいのだろうと感じる。
世の中で、アート&サイエンスあるいはデザイン&サイエンスの融合などと言われているのは、そういう面も含めてのことであろう。
そのような意味において、いまから2000年も前に書かれたオウィディウスの『変身物語』は、今回読んでみてあらためて、アート&サイエンス的なクリエイションを代表するような作品だと思った。
変身は生成である。
変身は、自然の力による創造でもあり、イノベーションでもあるだろう。いやいや、人間もまた自然の一部であるのだから、殊更、自然と人工を分けて考えるのはいまどきナンセンスだ。だから、わざわざ「自然の力による」などとことわる必要などない。自然と人工のもつれをあらためて認識することこそ、現在のトレンドだ。
そう。そのような観点において、ほとんどまだ存在を知られていない微生物が実は人間の身体においても精神においても多大な影響を与えていることか判明してきたり、遺伝子情報の取り扱いコストが劇的に下がったことでそれを情報メディアとして扱うことも含め、比較的誰でもやる気になればハッキングすることが可能になったりなど、バイオ=生物学的な観点でさまざまな創造性が見直されようとしている現代の状況において、『変身物語』の変身・生成に対する視点は、とても示唆的だと感じるのだ。
その意味で、オウィディウスの『変身物語』は、いまこそ『創造物語』であり『イノベーション物語』として読み直す価値のある作品だと感じた。
変身にまつわる伝説を集めたカタログ
オウィディウスは、プーブリウス・オウィディウス・ナーソーといい、紀元前43年に生まれ、紀元後17年もしくは18年に没したとされる、アウグストゥス帝治下の最初期の帝政ローマを生きた詩人である。「わたしが意図するのは、新しい姿への変身の物語だ」という書き出しからはじまるオウィディウスのこの物語は、15巻12,000行あまりからなるオウィディウスにとっても最大の大作で、250種のギリシア・ローマの神話のうち、変身にまつわる伝説を集めたカタログ的性質ももった叙事詩形式の物語だ。
その物語は、
海と、大地と、万物をおおう天空が存在する以前には、自然の相貌は全世界にわたって同一だった。ひとはこれを「混沌(カオス)」と呼んだが、それは、何の手も加えられず、秩序だてられてもいない集塊にすぎなかった。ただどろんと重たいだけのしろもので、たがいにばらばらな諸物の種子がひとところに集められ、あい争っている状態だとしかいえないものだった。オウィディウス『変身物語』
といった具合に、変身の舞台として不可欠な世界そのものが創造される前のカオス状態からはじまる。
つまりは、自然がいかにして在るかという問いの観点から語られる自然史としての詩である。
当然、だからこそ、この視点において科学と詩の区別自体が無意味である。いや、むしろ詩は科学に先行する。
ひとつ前の記事「わかっていることから逃げろ」で、僕は「カオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう」と書いたが、ここでのカオスは通常の意味どおり、コスモス(秩序)が創造される前の状態として描かれる。先に創造は生成・変身であると書いた観点からいうと、カオスからコスモスはまだ創造されておらず、カオスはコスモスに変身していないのだ。
この関係をみても、コスモスさえ、カオスという前状態から生成・変身するのであって、無から有が生まれるわけではないという、この物語における創造の根本的スタンスがみてとれる。
自然が変身=生成を行う
そして、このカオスから世界が生成される。いや、カオスが世界に変身するのだ。この変身は、神あるいは自然によるものだという。
神がーあるいは、ひときわすぐれた自然がーこの争いをやめさせた。天空から大地を、大地から海を引き離し、濃密な大気と澄んだ天空とを分けたのだ。(中略)それがどのような神であったにせよ、単なる堆積でしかなかったものをこのように整頓して区分けし、区分けしたものを要素へ固まらせると、まずだいいちに、大地を、どこから見ても均等な形になるように、大きな球の形にまるめた。オウィディウス『変身物語』
整頓し、区分けし、固定する。それがカオス=混沌からコスモス=秩序を生む方法であり、それを司るのは神あるいは自然の力である。人間における思考となんと似ていることか。いや、自然そのものに人間の思考が似ているのか。本当のところがどうかに関わらず、オウィディウスはそういう観点で自然と人間をつなげた。自然の分ける力と人間の思考の整理力を。
分けること、整理することで、新しいものは生まれるくる。そして、この生成=変身の力がこの物語における250もの変身譚の原動力となる。
この自然による整頓、区分けによる世界の変身の先に、人間が誕生する。
しかし、今までのところ、これらよりも崇高で、いっそう高度の知的能力をもち、ほかのものを支配することのできるような生き物がいなかった。こうして、人間が誕生した。オウィディウス『変身物語』
他の動植物よりも崇高で高度な知性をもったものとして分けられるとともに、神の似姿を受け継ぐことで、神からも微妙に区分けされた存在として。
人間は自然の延長にある。
この思考がいまの僕らにはむずかしい。
エコロジー的な発想で、自然は人間の一部だといいつつ、人間の自然に対する愚行を殊更論えて、自然を人間から隔離しようとする。
けれど、そうした愚行も含めて人間は自然そのものだ。
そのことは、オウィディウスが人間の誕生後に語る4つの時代の物語からあらためて感じられる。
物語の舞台は準備され、そこから4つの時代がはじまる。
すべてが平和で崇高な黄金の時代からはじまり、
サトゥルヌスが奈落の底へ送られ、世界がユピテルの支配下に服したとき、銀の時代がやって来た。これは黄金の時代より劣っていたが、黄褐色の銅の時代よりは価値がまさっていた。オウィディウス『変身物語』
と称される銀の時代、そして、銅の時代が続いたあと、
最後は、固い鉄の時代だ。いっそう質の劣ったこの時代に、たちまち、あらゆる悪行が押し寄せ、恥じらいや、真実や、信義は逃げ去った。そして、それらのかわりに、欺瞞、奸計、陰謀、暴力と、忌まわしい所用欲がやって来た。オウィディウス『変身物語』
という鉄の時代が訪れ、人類は大神ユピテルの怒りを買うことになる。怒ったユピテルは、ただの一組のカップルだけ残し、一度人類を滅ぼしてしまう。
ただ、2人残され途方にくれたカップルは神の神殿にすがり、「大いなる母の骨を、背後に投げよ!」という神託を得る。そして、「大いなる母の骨」を大地そのものと解釈した二人は、神殿の石を投げる。
神の思召しによって、わずかのうちに、男の手で投げられた石は男の姿をとり、女の投げた石からは、女が新生した。オウィディウス『変身物語』
新しい人間は、彼らの父母からではなく、父母の投げた「大いなる母の骨」から新生=変身した。
神も、人も、変身する
こうして神々と人々の変身譚がはじまる。先に「メタモルフォーゼする僕ら」という記事でも、すこし紹介したように、この物語では、神の手によって、神自身も、ニンフたちも、そして、人間も、さまざまなものに変身する/させられる。動物に、植物に、そして、泉や星に。人間が神に変身=神化することもある。
人間と女神ウェヌスの息子として生まれたローマ建国の祖として知られるアイネイアスも、その後、共和制ローマの栄華を築いたカエサルも星となって神化する。
その多くが恋にまつわるあれこれが要因による変身なのだが、アポロンとダプネの物語もそのひとつだ。

ニコラ・プッサン『アポロンとダフネ』(1625年)
愛神クピドの弓の技を自身のそれと比べてディスった太陽神アポロンに、仕返しをしようと考えたクピドが、アポロンと河神ペネイオスの娘ダプネに決して成就しない恋の罠をしかける。
ひとつは、恋心を逃げ去らせ、もうひとつは、それをかきたてる。この、かきたてるほうの矢は、金で作られていて、鋭い鏃がきらめいている。恋を去らせるほうは、なまくらで、軸の内側に鉛が入っている。この、あとのほうの矢で、愛神クピードは、ペネイオスの娘を射た。いっぽう、もうひとつの矢でアポロンを射ると、それは、神の骨を貫いて、髄にまで達した。たちまち、神は恋をおぼえたが、ダプネのほうは、恋を知るどころか、そんなふうにおもわれることさえ嫌った。オウィディウス『変身物語』
アポロンは、ダプネをひたすら追いかけ、ダプネのほうはひたすらアポロンから逃げる。
逃げながらダプネは父である河神ペネイオスの姿を認める。そして、「助けて、お父さま!」と叫ぶ。
「もしこの流れが神性をもっているなら、あまりにも恋い慕われるもととなった、わたしのこの美しい姿を無くして、別のものに変えてくださいますように!」オウィディウス『変身物語』
そう。ダプネは祈る。そして、この祈りは成就する。「別のものに変えてください」というダプネの祈りは。
こう祈り終えるが早いか、彼女の手足はけだるい無感覚に包まれ、柔らかな腹部は薄い樹皮でおおわれる。髪は葉に、腕は枝に変わり、たった今まであんなに早かった足はどっしりした不動の根となる。頭も、梢のかたちをとる。輝くばかりの美しさだけが、もとのままに残っていた。オウィディウス『変身物語』
ダプネはこうして月桂樹に変身する。アポロンが月桂冠を身につけているのは、そういうわけだ。
万物の更新者である自然
ひとつ前の「わかっていることから逃げろ」という記事で、エリザベス・シューエルが『オルフェウスの声』で、このオウィディウスの物語が15巻中の10巻目のオルフェウスの登場において大きく変化すると指摘していることを紹介した。シューエルはこの『変身物語』について「この詩は、まず純粋な自然世界で形を成し、次に人間の世界で形をとり、一の変化する形象が間断なく他のそれにと移っていく、成長とプロセスを大観してみせた傑作と言える」と評している。オルフェウス登場前後の変化をシューエルがどう解説しているかを再度、詳しくみると、こうだ。
まずはオルフェウス登場前の9巻まで。
最初の三は第一巻から第九巻までで、物語また物語の連続、連続するかと思えば非連続、と思えば連続という状態は偶然や技術不足の結果ではない。詩人の主題と驚異的な照応を見せているのである。視点を換えてみるなら、まさしく世界そのものではないか−力と現象、誕生、転身、死の、繋がるかと思えばばらけ、忽ちつながるのか繋がらぬのか他の物語が入ってくるというような、終わりありとしも思えぬ物語連続体、世界とはつまりそういうものではあるまいか。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』
連続体かと思えば非連続。そうかと思えば、やはり繋がっている。そうした世界そのものとしての物語。それがこの詩の前半五分の三が見せる様相である。それがオルフェウスの登場以降、すこし様相が変わる。人間による直線的な時間の流れが生じ始めるのだ。
オウィディウスが何をやっているかと言えば物語手法を自然史に-「語られる物語として」-合わせて選ぶということである。彼は相手にした時間の五分の三を自然世界の作用に充て、残る五分の二を、自然から出て来るもっと人間たち寄りの展開に充てる。ここでは勃興し始める都市、発展する文明の方が今度は、時間が我々に押しつける成長と変化の自然の大いなる循環の一部というふうにみなされるのである。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』
けれど、その人間の歴史の直線的な流れでさえ、オウィディウスは「時間が我々に押しつける成長と変化の自然の大いなる循環の一部」と見なす。
この自然と人間の双方による変容の力について、オウィディウスはあのピュタゴラスに語らせる。
どんなものも、固有の姿を持ちつづけるということはない。万物の更新者である自然が、ひとつの形を別の形につくり変えてゆく。わたしの言葉を信じてもらいたいのだが、この全世界に、何ひとつ滅びるものはないのだ。さまざまに変化し、新しい姿をとってゆくというだけのことなのだ。生まれるとは、前とは違ったものになることの始まりをいい、死とは、前と同じ状態をやめることをいう。あちらのものがこちらへ、こちらのものがあちらへ移行することがあるかもしれないが、しかし、総体からいえば、すべては不変だ。オウィディウス『変身物語』
何かを新しく生みだす人間の創造性そのものが「万物の更新者である自然」の一部として語られる。そのような意味で、オウィディウスが語る「変身」の物語は、あらゆる人間の創造力の根幹となるものがいかに自然とつながっているかを描きだそうとした叙事詩なんだと思う。人間の創造する思考の力を自然史という観点から考えようとするなんて、なんて壮大で、理にかなったことだろうか。
最後にもう一度、シューエルの『オルフェウスの声』から引いてみる。
叙事詩はポストロジカルな手だてとしては最大のもののひとつである。その特徴の幾許かが分かり、それが宇宙の構造、その中における人間生死の場所や経過に注ぐ関心、その中核の活動、神話誌との深い関わりなど分かれば、それがいかにポストロジカルかは見えてくる。そこは物語という形で詩が大きなスケールで時間と結婚する至高点である。従ってそれは、個の、あるいは一般的な歴史と自然史にまで至り、それを含むに至る発展や進行が可能な、宇宙の中でのどのようた人間の関係、活動についてであろうと、そのようなスケールを以て思考するのに特に向いているのである。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』
このような観点で、詩という思考形態をもちいたポストロジカルな思考が、自然と人工をもつれあった状態で再認識することが求められるいまの僕らに適しているのだと思うのだ。
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