わかっていることから逃げろ

みんな気づいているだろうか。
わかってしまっていることほど、わかることを妨げるものはない、ということに。



カオスを前にして、ただただ混乱してパニックになるだけか、それともカオスをなんとか制御する手立てを発見しようとカオスのディテール、全体の動向を共にみて思考を巡らせるか。基本的には知的に考えるということは、後者のような態度をいうはずだ。

その後者の態度をむずかしくさせるものこそ、すでにわかりきって整理された状態である。
それはもはや制御されすぎていて、どう制御すればよいかを問う余地がないのだから。

その意味ではカオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう。
外にあるプログラムを疑うことなく、それに操られて日々スムーズに動き続ける状態。何にも悩まないし、何にも躓くことはない。すべては苦もなく手に入る。

もちろん、そこまで完璧に夢のような生活を送れている人はいないだろう。
現実はもうすこしだけカオスに近い。
けれど、その現実をカオスと見るか、夢のような世界と自らに暗示をかけて、すべてをわかっているものと信じこみたいのか。わからないものは自分に近づかないよう、既知のイメージや記号でできた夢のような世界に閉じこもるのか。

僕がカオスが好きなのは、そんな夢のような世界が退屈すぎると思うからだ。
わからないものがあるから、新しくおかしなことを考える自由な余地がある。わかりきったことばかりで答えも決まってたら、息苦しくて、きっと気が狂うだろう。

幸運にも現実世界はそんな風にはできてなくて、よく見ればカオスだらけで、一見、スムーズに動いている日常の道具も言葉も仕組みもほころびだらけだから、いくらでも知的なハックは可能だ。
だから、飽きずにいろいろ考え続けられる。
わかっていることばかりの退屈な状態から逃げ続けることができる。

知識をひたらすら受け継ぐ社会、発見という名の下に新しい知識で更新を図ろうとする社会

けれど、こうした発見ということに価値が見出されている状態というのは、人類の歴史において必ずしも普遍的な状態ではない。
『知識の社会史』という本で歴史学者のピーター・バークは、12世紀から14世紀にかけて創設された中世の大学およびそこでの知識というもののあり方について、こんな興味深い指摘をしている。
当時、大学は知識を発見する場ではなく、むしろ知識を伝達することに専念する場である、ということは、議論の余地のない前提であった、同じように、後代の人間は、過去の偉大な学者や哲学者の意見や解釈を否定したり、対等に張り合ったりしてはならず、教師の仕事は権威(アリストテレス、ヒッポクラテス、トマス・アクィナスなど)の見解を説明することに限られることが前提されていた。
ピーター・バーク『知識の社会史』

大学は単なる知識伝達の場であった。研究の場としての大学ということが当たり前になっている現代においては驚きである。
けれど、こういう前提があったからこそ、ひとつ前の記事「見る目、聞く耳/アルチンボルド展を観て」でも書いたような、16世紀におけるベーコンを中心とした経験主義による古典的知識の乗り越えという方向性が出てきたのだし、にもかかわらず、フィールドでのハンズオンなリサーチや実験を重視したアルドロヴァンディのような博物学者でさえ、アリストテレスらの古典的権威の知の枠から抜け出せないということが起こったのだろう。



社会にしっかり根をはった既存の知識というものは、それほどまでに新しい発見を拒むということでもある。「わかっていることから逃げる」ということは、それを意識していてさえも一筋縄ではいかないということだ。

また、発見に価値を置くことだけが人間のあり方ではないということも、この中世の社会を振り返るとわかる。社会にしっかりと根をはった知識に「操作された状態」であることも、中世のような価値観の社会においては、別に後ろ指をさされるようなことでもなく、むしろ、それが普通であったわけだ。

既知に向き合うことこそが、その影響から逃れる一番の方法

そんな変わらぬことを価値と考えていた中世の社会に、それまで埋もれていた古代ギリシア・ローマの知が再発見されたことで、新たな知への欲求が起こったのが、15世紀のフィレンツェを中心としたルネサンス社会である。このことを知ると、古典古代の知だから、人を保守的にさせるとは限らず、埋もれていたものが再発見されるということで人を革新にも誘うということだ。

だから、結局は、既存の知へどう向き合うか、ということでもある。
ただ何の疑いもなく鵜呑みにするか、えっ、それってどういう意味なんだろう?とちゃんと自分の腹におとしこもうとするか。

よく「自分ごとにする」という言い方をするが、既存の知であろうと自分ごとにしなければ本当はちゃんと使えない。
自分ごとにせずに従おうとすれば、それは使っているのではなく、使われている状態になる。うまく使われればまだマシだが、センスが悪い人はちゃんと使われることもできず、空回りし続けたりもする。



既存の知を自分ごとにするというのは、結局、既存の知を疑うことでもある。逆説的だが、既存の知を自分ごとにしようとしっかり向き合うことが、実は、わかっていることから逃げることの一番の方法だったりする。向き合えば、知の方は逃げる。しっかり理解しようと追いかければ追いかけるほど、逃げる。その逃げる、追いかけるを繰り返す中で、自分なりの解釈として新たな知が生まれる。

だから「自分ごとにする」なんて用語にも騙されてはいけない。「自分ごとにする」ことが大事だなんていってわかった気になっていては何もわかるはずはない。「自分ごとにする」ってどういうことだろう?と考え始めたときにこそ、本当の意味で自分ごとにする研究ははじまるはずだ。

オウィディウスの物語のなかのオルフェウスの昏さの体験の意義

ここでエリザベス・シューエルの『オルフェウスの声』から、こんな言葉を引いておこう。
昏さ、それはどうでもいい喩ではない。きみ、あなた自身の昏さ、きみ自身の謎(ミステリー)、あなた自身の問題(プロブレム)こそ、いかなるものにあれ、知力、想像力を使う探求の第一段階であるだろうからだ。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

シューエルのこの本のタイトルにも登場するギリシア神話のオルフェウスは、死んだ妻を取り戻しに昏い黄泉の国に降りていく。そのオルフェウスの神話を物語全体の中心に置き、その前後で物語が神を中心とした世界から人間を中心とした世界へ移っていく構造をもったオウィディウスの『変身物語』は、まさにこの昏い世界を体験したオルフェウスの語りの形式をとった11巻でその世界観の変化を実現する。まさに「きみ、あなた自身の昏さ、きみ自身の謎(ミステリー)、あなた自身の問題(プロブレム)」を体験することを通じて、神の世界から人間の世界への変容が起こるという物語構想なのだ。

このことをシューエルの言葉で語ってもらうとこうなる。
オウィディウスが何をやっているかと言えば物語手法を自然史に−「語られる物語として」−合わせて選ぶということである。彼は相手にした時間の五分の三を自然世界の作用に充て、残る五分の二を、自然から出て来るもっと人間たち寄りの展開に充てる。ここでは勃興し始める都市、発展する文明の方が今度は、時間が我々に押しつける成長と変化の自然の大いなる循環の一部というふうにみなされるのである。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

自然(神)から人間寄りの展開になるなかで、今度は発展する文明の方がそれまで自然がになっていたカオスを内包した循環を人間に強いるようになる。この指摘こそが面白い。ようするに既知の成果としての人工的なものが自然のカオス同様の役割を担うということで、それは既知に向き合うことではじめて「自分ごと化する」ための未知に向き合うことになるという先に書いたこととも重なってくるからだ。



ここで思うのは、オルフェウスの体験した「きみ、あなた自身の昏さ、きみ自身の謎(ミステリー)、あなた自身の問題(プロブレム)」がやはり、既知に向き合うことを未知の探求に変換するための条件だということである。
自分ごと化するというのは、ようは「きみ、あなた自身の昏さ、きみ自身の謎(ミステリー)、あなた自身の問題(プロブレム)」に向き合った上で、未知の探求をはじめるということなのだと思う。

すごく単純化してしまえば「無知の知」というのに近い。自分のなかにある昏い謎に気づき、認められるかどうか。
それが世界をちゃんとカオスとしてみるための第一歩だということだ。
その世界が神、自然によるものであろうと、人間の知の集結としての世界であろうと、人はみずからの昏さを受け止めさえすれば、いつでもその世界のカオスから、新しい知を引き出すことができるハッカーなのだ。

  

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