環境形而上学は、これまでの哲学や心理学がとってきた立場、例えば、色という性質は対象物が本来所有している性質ではなく人間を含めた知覚者の側の観念や感覚であるとし世界の側には形や大きさ、位置や運動という性質のみをもつ原子やエネルギーといった存在を割り当ててきた立場とは対照的に、生物を取り囲む環境そのものに意味や価値が満たされていると環境それ自体の実在性を積極的に認めるものです。
環境形而上学の定義
環境形而上学は次のように定義されています。このプログラムの主唱者であるスミスとヴァルツィは環境形而上学を、「有機体がその中で生活しその中を移動する空間領域や空間領域の部分、つまり有機体を取り囲む環境についての一般的理論」と定義する。染谷昌義「「認識」の哲学から「環境」の哲学へ」
佐々木正人編『包まれるヒト―〈環境〉の存在論』
ここで見逃してはいけないのは、環境形而上学が単なる環境についての理論ではなく、「有機体を取り囲む環境について」の理論と定義づけられていることだと思います。
つまり、それは有機体と環境との相互作用が前提されているということで、両者はあらかじめ不可分のものとして想定されている点が、従来の二元論的な思考とは異なります。
この一般理論は、生態学、動物行動学、環境デザイン、都市プラント、ランドスケープ工学、社会的環境の物理的・心理的「力学」を探求する心理学を始めとする社会科学など、取り囲みの中でのヒトを含めた生物の知覚や行動の研究、取り囲みを実際にデザインし制作する研究が依拠している種種の「取り囲み構造」を統一的に理解するための理論、ないし概念枠組の構築を目指している。何かが何かに取り囲まれているという構造を記述するための基本構造を改めて準備しようとする。染谷昌義「「認識」の哲学から「環境」の哲学へ」
佐々木正人編『包まれるヒト―〈環境〉の存在論』
「何かが何かに取り囲まれている」。そして、多くのデザインはこの取り囲みの構造をデザインするものです。
建築や自動車はもちろん、食器などの入れ物、本棚や図書館、そして、本そのもの。いろんなものが入れ子状になった取り囲みのなかで相互にデザインされます。クルマは車庫より小さい必要があるし、同時にヒトが入れるだけの大きさがなくてはなりません。そのヒト自身も食物や飲み物のような物理的なものや、本やテレビから得た情報を入れられる入れ物でもあります。
僕たちがデザインしているものは基本的にこうした入れ子状の構造となった環境を自然な状態からより僕たちの目的にあった形に変形させる行為だといえると思います。
何かが何かに取り囲まれている-重層化した環境
このように一言で環境といっても、それは実は複雑な構造をしていると思います。外部の環境のうちには、まず僕たち自身の身体という環境がある。脳にしてみれば身体は外部の環境となんら変わりのない自身が機能するための環境です。
また、外部の環境といっても幾重にも包み込まれた構造をしているはずです。室内という環境、またその室内を取り囲む建物全体という環境、建物を取り囲む外部環境とその環境の境界線はどんどん外に向かって拡げられていくはずです。
そして、ある環境とその内部環境の境界を見ている際には、それとは異なるレベルの環境間の境界線は意識の外にあることが多いでしょう。例えば脳と身体の境界を見ている際には、外部の部屋と建物の境界線は見落とされるでしょうし、その反対でも同様のはずです。
二重穴構造(Double Hole Structure)
スミスとヴァルツィはこの入れ子状になった環境の基本構造を二重穴構造(Double Hole Structure)として定式化しています。例えば、ほら穴の中にクマがいる環境は、まず、外部において取り囲みを維持するものとしてのほら穴がリテイニアーとして捉えられると同時に、クマそのもの自体も空間を占有するテナントとしてもう1つの穴として認識されます。
通常の生態学では、ある生物種の生態学的ニッチは、生物の生存に関わる様々な要因-食餌の種類、日照度、土壌の肥沃度、湿度、気温、枝の密度、捕食者のタイプ、捕食者までの距離、pH、植生、群集密度などの理論的パラメーター-が作る多次元空間中を占拠する領域として抽象的に定義される。しかし、この生物種に属する一個体が、ある特定の時点においてどのような具体的取り囲みに置かれているのかを捉える一般理論はなかった。というよりも、あまりに自明なことだとされ、取り囲みの構造が明示化されることはなかった。スミスらは、この隙間を埋める目的で、取り囲みの具体相を生け捕りできる一種の形式的空間論を構築しようとしている。染谷昌義「「認識」の哲学から「環境」の哲学へ」
佐々木正人編『包まれるヒト―〈環境〉の存在論』
クマが外に出てもほら穴そのものは維持されます。ただし、クマが占有していた場所を空気という媒体が埋める形で。
一方でほら穴からでたクマはリテイニアーから自由になったかというとそうではなく、森の木々など別のリテイニアーによって取り囲まれている状況は変化しません。スミスとヴァルツィが指摘するのは、従来の複雑なパラメーターによって生態学的環境を描こうとして生態学はこうした基本構造そのものを見落としていたということです。
いわば環境形而上学は、従来の数学的幾何学の単位(点、線、面)ではなく、取り囲みそのものを空間記述の基本単位として採用し、周囲の地図を描こうとしているのである。染谷昌義「「認識」の哲学から「環境」の哲学へ」
佐々木正人編『包まれるヒト―〈環境〉の存在論』
取り囲みは常にリテイニアーとテナントの二重穴構造として描かれることになります。それは環境そのものが生物との相補的な関係として捉えられているからです。
ほら穴は大きなクマにとっては一箇所の穴からしか通り抜けられない空間ですが、もしかしたら小さなアリにとっては他にもいくらでも通り抜けが可能なものかもしれません。つまり、クマとアリでは取り囲みの地図が異なるわけです。
しかし、それでも、クマだろうがアリだろうが、取り囲みには常にリテイニアーとテナントの二重穴構造がある点では基本的に変わりがないということです。
ユーザビリティにおいてコンテキストがキーとなる理由
この環境形而上学の考え方は、ユーザビリティにおいて何故コンテキストがキーとなるのかを明確にし、さらにそれのもつ複雑さに基本的な構造を与えることですこしだけ簡潔さをもたらしてくれるのものではないかと思います。つまり、モノとヒトとのインタラクションをリテイニアーとテナントの二重穴構造として捉えることで、モノからヒト、そして、反対にヒトからモノへの相互のコミュニケーションとそれによる変化がもたらすリテイニアーとテナントの目まぐるしい入れ代わりを、さらにモノとヒトとのインタラクション全体を取り囲むリテイニアーとの関係で記述することができるのではないか。そして、そのマッピングそのものをコンテキストとして理解することで、ユーザビリティの関わる問題の構造が幾分かでも記述しやすくなるような気がします。
少なくとも、ユーザビリティというものは、各種のパラメーターの集合や数学的幾何学の単位で示されうるものではありません。それはコンテキストに取り囲まれたリテイニアーとテナントの二重穴構造のうちで、その取り囲みのテナントの位置を占める個々人によって評価されうるものである限りにおいて、従来の計算的な思考で立ち向かおうとするとパラメーターの多さで途端に計算可能なキャパシティを超えてしまいます。であれば、ヘタに計算処理能力をアップする道を選ぶよりもアプローチそのものを変えたほうが得策ではないかと思います。
その可能性を秘めるのが、環境形而上学における取り囲みのマッピングの仕方なのだろうと感じました。
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