この佐々木正人さん編纂による『包まれるヒト―〈環境〉の存在論』も読み終わってからすでに1週間以上経ってしまいました。まったくなんでこんな時間がないんだろ。
さて、この本、ユーザビリティとかユーザー・エクスペリエンスみたいなもの、情報デザインみたいなものを考えてたり、仕事にしている人にはぜひ読んでもらいたい一冊です。
『包まれるヒト―〈環境〉の存在論』はどんな本?
『包まれるヒト―〈環境〉の存在論』は、先にも書いたように佐々木正人さんが編纂した〈環境〉の中に生きるヒトに関する生態心理学系の科学、哲学、そして、エンターテイメントに関わる人々の論文、インタビューをまとめた一冊です。「デザインの生態学―新しいデザインの教科書/後藤武、 佐々木正人、深澤直人」でも紹介したジェームズ・J・ギブソンの生態心理学における〈環境〉とヒトの相互作用の捉え方をベースに、デカルト的二元論あるいは科学における還元主義とは異なる方向に向かう、現代の科学や哲学の方向性をさまざまな形で紹介してくれている入門書です。
論文やインタビューという形で参加してらっしゃるのは、以下の方々。
- 佐々木正人:生態心理学
- 野村寿子:作業療法士
- 古山宣洋:心理言語学
- 三嶋博之:生態心理学
- 染谷昌義:哲学
- 齊藤暢人:哲学
- ホンマタカシ:写真家
- 青山真治:映画監督
- 保坂和志:小説家
興味深かったのは、脳性麻痺の方のための椅子づくりをしている野村寿子さんの「世界が意味をもちはじめる」ような姿勢をつくるための椅子づくりの話や、三嶋博之さんのヒトと<環境>の密接な相互作用を説明したスウィンギング・ルームでの実験や飛行機のパイロットが海上より陸のような構造豊かなサーフェスからより多く受けるオプティカル・プッシュの話、染谷昌義さんと齊藤暢人さんによるアリストテレスによって生み出され、デカルトの影響でしばらく地下に埋もれていた存在論(オントロジー)の哲学がスミス&ヴァルツィらによる環境形而上学として復活している話、そして、『決定的瞬間』という写真集を出したカルティエ=ブレッソンに代表される「決定的瞬間」派の写真家とは異なる、すべての対象を等価に撮る、ホンマタカシさんも含む「ニューカラー」派の話などです。
ユーザビリティと<環境>
それらすべてに共通しているのは、ヒトを〈環境〉において独立した存在として、外部からの刺激を脳=こころで理解する特別な存在であるという従来の考え方をいったん棚上げにして、〈環境〉とヒトの相互関係そのものに意味(リアリティ)を見出す姿勢だと思います。ユーザビリティやユーザーエクスペリエンスとの関係でいえば、ユーザビリティの効果の高さやユーザーエクスペリエンスの高い満足度をもたらすのは、何も単純にユーザーと対象となる製品やWebサイトとの関係ではないということになります。
「Contextual Design:経験のデザインへの人類学的アプローチ」でも書きましたが、重要なのはヒトがある<環境>においてあるモノと接する際のコンテキストであって、それは「ユーザビリティ成熟度モデル」でもすこし触れたように「コンテキストはユーザビリティにおけるキーコンセプト」として認識されている通りです。
これがわかっていないと、製品やWebサイトのユーザビリティをよくすることを考える場合に、まったくトンチンカンなアプローチをすることになる。
そして、実際、そうした馬鹿げたユーザビリティへのアプローチを真面目にそれが正しいと思っている人が多いんです。
アイトラッキングやfMRIなどのツールへの過剰な期待
例えば、最近、Web系の企業でもアイトラッキングのツールを導入している会社が増えてきてます。でも、そこで勘違いしてるんじゃないの?って思うのは、そういう機器を導入すれば、ユーザビリティの何たるかがわかるんじゃないかと思ってしまうことです。
アイトラッキングなんて単に視線の動きを計測できるだけのツールです。そんなの身長を測ったり体重を量ったりする行為と変わらないわけです。体重計より単に高価だからといって結局それは単に測定のためのツールです。そして、その計測された数値は体重や身長がそれ自体では何の意味ももたないのと同じで、その数値を何に生かすのか、どういう文脈において理解をするのかというフレームワークが大事であって、機器だけを導入しても何の意味はないわけです。
そして、その文脈というのは、単にあるWebサイトとユーザーの関係だけで決まるわけではありません。
ユーザーの視線の動きに影響を与えるのは目の前のある刺激物としてのWebサイトだけではないのです。
それをわかっていないといくらアイトラッキングなんてツールを使ってもはっきりいって無駄です。
それはさらに一歩進んで、脳や脊髄の活動に関連した血流動態反応を視覚化するニューロイメージングのツールであるfMRI (functional magnetic resonance imaging) なんかを使う場合でも同じです。反応だけを測定したところでユーザビリティやマーケティングにその結果を生かすことなんてできません。
〈環境〉に包まれるヒト
「僕たちはいったい何を見ているのか?」でも書きましたけど、脳が目から受け取っている情報はたったの3%です。ヒトがものを見るというのは脳の側からいえば、そういう行為でしかありません。
一方で、ヒトは何かを見る際、あるひとつの対象物だけを見るなんてことはできません。まわりのものも同時に見えてしまうし、さらには見えているだけではなく周囲の音も匂いも自分が立っている世界の重力も同時に感じています。いや、実際にはそういう風に個別に視覚や聴覚などがバラバラに働いているのではなく、そんな区別もなくヒトは〈環境〉に存在している。〈環境〉に包まれています。結局、ヒトは僕たちが考えている以上に総合的に<環境>のなかで生きている。
その場合の<環境>とは外部にある環境だけではなく、自分たちの身体、自分たちの記憶や意識を含めたすべてのものです。なぜなら、ヒトはそれらのどれかだけを取り出して判断したりできるようには設計されていないのだから。
航空機が低空飛行をしながら、表面に明瞭な地形パターンを認められない穏やかな海面から、構造豊かな地形パターンの見える陸地に向かうとする。このときパイロットには、たとえばレーダーに捕捉されないために、一定の低い高度を維持するよう指示が出されていたとしよう。しかしながら、このような状況では、高度を一定に保とうとする努力にもかかわらず、海上から陸上へと機体が移動した瞬間にパイロットが高度を上げてしまうことがしばしば起こる。三嶋博之「光学的情報による身体と環境のカップリング」
佐々木正人編『包まれるヒト―〈環境〉の存在論』
これがオプティカル・プッシュです。
ヒトは自分で意識していない状態でも〈環境〉から情報を受け取っている。ギブソンがいうように、情報はヒトが外部から受け取った刺激を処理して脳=こころの中で生み出すものではなく、すでに〈環境〉に存在するものです。
迷走するユーザビリティ
ヒトの意識だけを対象にしてユーザビリティなどを考えてしまうことの誤解がここにはあります。アンケート調査法やグループインタビューでは決して捉えられないものがここにはある。モノをデザインして、そのモノのユーザビリティを高めようとする場合でも単にモノだけを、さらにはヒトの意識だけを対象としてデザインしたのでは、まだ足りないのです。
アイトラッキングの導入で満足したり、さらにその先にfMRIに代表されるような脳科学的ツールの導入を夢見たり。それで科学的かといえるとまったくそんなことはありません。そもそも、そういう姿勢には哲学が感じられません。哲学がなければどんなツールを使おうと何も達成できません。
この本を読んであらためて強く感じたのは、最近のユーザビリティに関する議論の迷走ぶりです。そんな機器に頼らずとも、これまでのユーザビリティに関する研究や実践が手に入れてきた人間中心のデザインの手法は、十分にヒトの認知や行動を理解しようとするための方法を提供してくれています。そうした基本的な方法を理解する努力をおざなりにして、一見派手なアイトラッキングなどに溺れるのはまったく迷走以外の何物でもないでしょう。
本当にユーザビリティのことを考えるなら、ヒトという生き物がどう<環境>に包まれて生きているかこそを知る必要があるのではないかと思います。
関連エントリー
- デザインの生態学―新しいデザインの教科書/後藤武、 佐々木正人、深澤直人
- 僕たちはいったい何を見ているのか?
- 身体的な知としてのインテリジェンス
- Contextual Design:経験のデザインへの人類学的アプローチ
- ユーザビリティ成熟度モデル
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