『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』の著者・西林克彦さんはそう言っている。
言い方を変えれば、「わかる」とは、既知の文脈に、その直前までわかっていなかったことがピタッとあてはまることで起こる心の動きだということができる。
いや、わかっていなかったことじゃなくてもいい。
すでにわかってたことでも、それが今までの理解とは別の文脈にあてはまり、別の意味がそこから見えてきたときも人は「わかった」となるはずである。
西林さんもこんなことを書いている。
文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』
既知の事柄でも、それを理解していたのとは別の文脈からみてみると、まったく異なる別の意味が見えてくることもある。それは「わかる」ということの土台には既知の文脈があり、その文脈との結びつきが何かをわからせることにもなるし、逆に、それ以外の理解の仕方の可能性を閉ざすことにもなるというわけだ。
知ることは同時に、知らなくさせるでもあるということだ。
このことが基本的にわかっていない、と、1つ前で書いたような「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という状況にはまりやすくなる。
この言葉(ノヴァーリスの小説『サイスの弟子たち』のなかの言葉だ)のあとには「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」という文が続くのだが、まさに自分がすでに持っている文脈に囚われると、それ以外の「わかった!」に出会えなくなるという具合である。「だから、それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。
感じる。わかる前にできること
だから、新発見のためには、いきなり「わかった!」となることを望むのが、そもそもの間違いなんだと思う。わかりやすいことなんて、所詮は既知の文脈にスポッとあてはまるようなものでしかなく、ようは新発見とは程遠いものだ。なかなか既知の文脈には当てはまらないものだからこそ、何かをきっかけに当てはまる文脈を見つけたときに「あっ、わかった!」という新発見になるのであり、最初から「わかる」ことを前提に進める研究・リサーチなんてろくなものではない。
では、そんなわかりにくい対象とどう付き合うかというと、たぶん、それは「わからない」なりに「感じる」ことなんだろうと思っている。
文脈を形成する意味としては理解できていない状態だとしても、なんとなく何かに似ている気がするとか、何々みたいに見える、何々みたいな匂いがする、触り心地があるといった「感じ」を抱くことはできる。
その感じを元に、まだわからないもののことを物語ってみる、歌ってみる。
だから、前回も書いたような「詩的で神話的な思考の発見、涵養、展開」としてのポストロジック思考が重要だと思うのだ。
確固としたものの圏内の背後にある原現実の視界
けれど、「感じ」というのは、何にも保障されていないがゆえに、それを自信をもって語るのには勇気がいる。感じについて語るのには不安がともなう。下手すれば、何を言っているのかわからないというネガティブな意味で「ポエム」と呼ばれたりもする。だからといって、感じについて語るのに怖気付いてはいけないし、感じについて語ることをネガティブに捉えてはいけないと思う。
エルネスト・グラッシの『形象の力』のこんな言葉を引いてみる。
ランボーはかつての先生イザンバールに宛てた有名な手紙の中で〈見者〉たる詩人について語っている。この者は、リアルな現実、すなわち確固としたものの圏内の背後にある原現実の視界に達するために、それらを拒絶し突破する晴れやかな任務を帯びているのであると。詩人はその告知者でありたいと願うし、そうあらねばならない。エルネスト・グラッシ『形象の力』
「確固としたものの圏内の背後にある原現実の視界」。
これこそ、既知の文脈に囚われず、まだ「わかる」に至っていない対象について「原現実の視界」として感じることなのだと思う。それがランボーのいう〈見者〉たる詩人なのであろうし、詩のことばとはまさにそうした既知の文脈に囚われない感じを捉えたものなのだと思う。
すべての人が「あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者」であることを求められる現代
そして、その既知でもないが、かといって完全に未知でもない、詩人によって感じを表された言葉こそが、その先の科学的な発見のためには不可欠なものだと思うのである。そう、このような意味から、既知のものの先を示す者がいなければ、発見の道は拓かれない。
芸術家は常に新たな可能性を示す緊張した現実の証人であり、人間の本質と人間の世界を形成する挫けることなき精神の自由の証人であり、あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者である。この意味でボードレールは特殊なアクセントを置いて〈新しさ〉の機能を顕彰したのだった。〈新しさ〉は驚愕をよびおこし、不安に陥れる、というのもすでに解釈済みのものをもっと遠く地平の向こうへと押しやり、疑問を掻き立て、ファンタジーを刺激するからである。エルネスト・グラッシ『形象の力』
既知のその先にある、発見を促すものとしての未知の在り処を指し示す者、それが詩人に代表される芸術家の役割なのだと思う。「常に新たな可能性を示す緊張した現実の証人」である芸術家は、人工的に構築された既知の文脈の罠を明るみにだす。
しかし「あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者」としてあること。これはもはやボードレールの時代のように芸術家の特権ではなく、常に新たな学びを自身の行動を通じて見出すことが求められる現代のすべての人に求められる姿勢であるはずである。
そう。もはや「わかる」ことばかりを気にしてる場合ではないのだ。
ベーコンの「かくも壮大なる学と知の回復」
ポストロジック思考の重要性をいう『オルフェウスの声』のエリザベス・シューエルは、「科学と詩の二重性こそがベーコン全活動の核心にあるもの」とする中で、その二重性に至る過程は、知における革新ではなく、回復であるとベーコンが認識していたことを指摘している。『ノウム・オルガヌム』の序でベーコンはみずからの任を「かくも壮大なる学と知の回復」とし、かつては手中にされながら忘れられるか使われなくなるかした何かを取り戻す「大革新」としている。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』
そう。この「手中にされながら忘れられるか使われなくなるかした何かを取り戻す」というのがある意味、重要で、現代のように膨大な知の集積=アーカイブを使うことだけに集中していた時代と違い、太古の人々はそれこそ蓄積としての知がそれほどないなかで自ら感じとり、それを使って様々なことを成したわけだから。
この「蓄積としての知がそれほどない」というところを考えてみてほしい。
蓄積する上で重要な物理的記録メディアとしての文字がなかった時代。その際、口承で語りつがれる詩こそが記憶をとどめるメディアだったことを。
ベーコンが「かくも壮大なる学と知の回復」というとき、この世界のなかで生きること、行動すること、そのもののなかで起動する学びであり、知るということを回復させようとしていたのだという気がする。それはなにより既存の知の文脈に囚われずに済む「だから、それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」に陥らずに済む発見に満ちた学びの態度であり、自然と「あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者」として振舞うことができる知的姿勢なのだと思う。
してみると知の真の目的は、好奇心の快でもなく、解決の自若でもなく、精神の昂揚でも、機略の勝利でも。言葉の暢達でもない。職業の利得でも、名誉、名声への野心、事業の円滑でもない。他に比べれば少しは価値のあるものもあるが、すべて劣っており、堕落していることに変わりはない。そうではなく、人間を劫初(いやさき)の天地創造の時に人間が帯びていた稜威(みいつ)と力(というのも被造物をその真の名で呼ぶことができるなら、再びそれらを宰領できるからだが)、に連れ戻し、回復すること、これである。フランシス・ベーコン『ウァレリウス・テルミヌス』
「劫初の天地創造の時に人間が帯びていた稜威と力に連れ戻し、回復すること」。
それを可能にするものとして、かつて神話をうたった詩人の感性をベーコンは参照する。
新しい何かを!と常に時代が求める現代、僕らに求められている学知の姿勢も間違いなく、
「劫初の天地創造の時に人間が帯びていた稜威と力に連れ戻し、回復すること」、これである!
わかることよりも感じることに、学知のベースを写せるかどうかだと思う。
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