2017年06月07日

不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない

「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」

そう。わかりにくいのは対象そのものに宿る問題ではない。むしろ、対象に向かう側の姿勢の問題である。
わかる力がないことが、何かがわからないという際の根本的な問題なのだ。



では、どう、問題なのか?

「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」

そう。わかっているものしかわからない。
つまり、わかるということ自体、最初から最後まで対象の問題ではなく、わかる側自身の問題なのだ。
対象についてわからない場合だけでなく、対象についてよくわかっている場合でも、わかるということはわかる側のものなのだ。

「だから」と、『サイスの弟子たち』という未完の小説のなかの一連のセリフの最後をノヴァーリスは締めにかかる。
「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。
発見のなさとは自分自身の殻にとじこもり、知的冒険に赴こうとしない、不可解さを嫌う精神を示すものだということをノヴァーリスは述べているのだ。

かの昔日の人びとの口からは「真の自然の息吹」が詩としてこぼれでる

さて、このノヴァーリスの小説で、不可解さを示す対象とは「自然」である。
そして、この不可解な自然との関係を、もうすこし進んだ、別の箇所でノヴァーリスはこのように語る。
それゆえ、かの昔日の人びとには、万象が人間的で、なじみ深く、親しいものに思えたはずだし、かれらの眼には、それらの最も鮮やかな特性がそのまま映じたにちがいない。また、かれらの口にする言葉は、ことごとく、真の自然の息吹であり、かれらの思い描くものは、周囲の世界と一致し、その世界の忠実な表現となっていたにちがいない。
ノヴァーリス『サイスの弟子たち』

先の、自然を不可解に感じる理解力のない人間のとる自然に対する頑な拒絶とは真逆に、「かの昔日の人びと」はその眼、その口で自然と一体となっている。眼には「鮮やかな特性がそのまま」映り、口からは「真の自然の息吹」がこぼれでる。
そうであるが故に「環界の事物についてわれわれの祖先が思考したことは、当時の地上の自然状態から必然的に生みだされたものであり、その自画像であるとみなすことができる」とノヴァーリスはいうのだ。

ここで前回の「どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?」という記事でも紹介したフランシス・ベーコンの『ノウム・オルガヌム』中の言葉「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕(Homo nature minister et interpres)」が思い起こされる。
この「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」である人間が「真の自然の息吹」のように口からはきだす言葉こそが詩である。


古代の人々が描いた神々の姿がどこかエロティックな様子を見せるのは、まさにそれが自然=生なのだからであろう。
レンヌ美術館の驚異の部屋の展示より


自然研究者と詩人は、ひとつの言語を用いる

そのノヴァーリスについて、エリザベス・シューエルは『オルフェウスの声』でこのように述べている。
ここに我々を待ち侘びていたオルフェウスの声ひとり。その声は語る、”Naturforscher und Dichter habendurch eine Sprache sich immer wic ein Volk gezeigt.”−自然探求の者と詩人がひとつの言語を通して自分たちがひとつの種族であることをいつも示そうとする、と。ノヴァーリス、1798年の言葉だ。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

この1798年の言葉とは『サイスの弟子たち』のことである。手元にある翻訳ではノヴァーリスの言葉はこうである。
「自然研究者と詩人は、ひとつの言語を用いることによって、つねにひとつの族であるかのようにふるまってきた」。
このあとには、
自然研究者が全般的に蒐集し、整然たるおおきなまとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品とし、そうして、あの広大な自然を細やかに分け、さまざまの好ましい小自然を形作った。
ノヴァーリス『サイスの弟子たち』

と続く。いまでこそ、まるで無関係のもののように扱われがちな科学の言葉と詩の言葉が重ねられる。そして、それはともに自然を扱うための言葉である。

『オルフェウスの声』でシューエルはこんな風にいう。
「アート」にしろ「アーツ」にしろ、実に多くの意味を持っている。それはベーコン同時代にはほとんどあらゆる種類の操作(operation)を意味することができた。ベーコンの求めた自然解釈の技術(アート)も意味できたし、その一部は今日科学の名で呼んだ方が良いリベラル・アーツ(liberal arts)も、職人たちの実践の匠み(アーツ)も、挙句は魔術も、即ちプロスペローの「威神の術(アート)」、フォースタス博士の「地獄堕ちの術(アート)」までも意味できた。このことで分かるのは実績(practice)も操作(operation)も成り立ちからして、プロセスとして、「人間が力貸す自然」として括られるということだ。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

アーツアンドサイエンスをふたたび混ぜあわせる」という記事でも書いたとおりで、”arts”と”sciences”の訳語は”学術”であり、元々は知全般を指すことばだったと考えてよい。あえて区別するなら”arts”が人工を扱い、”sciences”は自然を扱うのだが、結局、先の『サイスの弟子たち』のことばにあったとおり、科学者が集めた自然を「詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品とし、そうして、あの広大な自然を細やかに分け、さまざまの好ましい小自然を形作」るわけで、結局は自然を扱っているのだから、根本的な違いがあるというわけではない。
むしろ、「どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?」という記事のタイトルにある、「どう見えるか?」のほうを”sciences”だとしたら、「どう見えていると自覚しているのか?」のほうは”arts”なのだから、最初のことばはともに詩であるはずなのだ。詩という言葉があってはじめて、芸も学も起動する。
それを明らかにしたのがエルネスト・グラッシの『形象の力』だった(書評記事

ポストロジック思考:自然を詩的に発見し展開する

さて、シューエルが『オルフェウスの声』で扱うのが、人間が自然を扱う際の「詩的で神話的な思考の発見、涵養、展開」であり、シューエルは「これを以下、後論理思考(postlogical thinking)と呼ぶ。あるいは簡略化して「ポストロジック」と呼ぶ」と定義している。そのポストロジック思考の代表者として召喚されるのが、ギリシア神話の中の吟遊詩人オルフェウスというわけである。


ギリシアの彫刻もまた、詩的な意味での自然を描いたものであろう。
それをルネサンスがフマニスムとして解釈したなら、ヒューマニズムとは実は自然を詩でもあったはずである。
ルーブル美術館の展示より


このポストロジックな思考のもつ自然や世界、違う言い方をすれば未知への対し方というのが、冒頭に書いた「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」ということを避けるための思考態度だと思う。
つまり、詩的な形で自然を発見する方法を身につけていれば、理解できないなんてことにはならず、自然を不可解と自らから遠ざけることなどないはずである。

正解だけを求めたり、理屈やロジックで裏付けされたものしか信じられないような頑なな思考態度が不可解な自然を受け付けなくさせる。
そうではなく、ロジカルに位置付けることはまだできなくとも、感じたものをいったん自らの言葉にして受け止めてみる。それがポストロジックな詩的な思考であるはずだ。いや、そうやって、一度は不可解さが残る自然を受け止めない限り、そこから科学的な探求でロジックを見出すこともできないはずである。

自然が言語だとするなら、それは詩としての言語である

いったんは「手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品」とする詩人の作業がなければ、「あの広大な自然を細やかに分け、さまざまの好ましい小自然を形作」ることなどできはしない。
ゲーテはどうかと言えば、時に自然を占卜の言語とみなし、なんとも素晴らしい「人間とは自然が神と発した最初の言葉である」という言葉を残している。この言語は科学のしての言語ではない、暗号ではない。それはここで暗喩の形象、そして神話を思いきり詰め込まれる。自然が言語だとするなら、それは詩としての言語である。みずからも発話の能力に恵まれた人間の精神が理解し、解釈しなければならない発話がこれである。人間自身の言語が詩的なものである限り、それはこうして言語という形象の下に眺められる自然の働きと一致する。こうして詩人はみずから発見しようとしている相手に似るのである。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

詩人は自然を暗号化するのではなく、暗喩的にことばに置き換える。その暗喩がギリシアの神々であり、その振る舞いの記録としての神話であり、シェイクスピアが描いた戯曲である。

18世紀のシェイクスピア批評家ヨーハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744-1803)はシェイクスピアを「自然のあらゆる言語に於る自然の解釈者」と呼んだ上で、こう述べているらしい。
「シェイクスピアが最大の巨匠であるのは、彼がいつも、ひたすら自然の僕であるから」と。
そう。「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」である。

だからこそ「自然が言語だとするなら、それは詩としての言語である」わけで、その自然そのものである詩の言語をもって感じた自然をわかろうとするのではなく、感じたまま引き受けること。
実はそこにしか「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という事態を避ける術(art)はない。

「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」とならないためにも

もちろん、それは単に狭い意味での自然に対するときに限らない。
いや、むしろ、あらゆる生成し、変化する得体のしれないものはすべて自然である。

このあたり「流動的で複雑な系が前提となった時代にリサーチすることとは?」という記事でも書いた自然と人工のもつれという観点をもつと、さらに現代においてポストロジック思考が必要な理由がわかるはず。

いかに学知をもってではなく、感受性をもって自然=世界に相対することができるかが今後問われる思考態度であろう。
「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」となるのを避けるためにも。

ちなみにノヴァーリスは本名をゲオルク・フィリップ・フリードリヒ・フォン・ハルデンベルクという。
「ノヴァーリス」はあくまで執筆名である。
そして、その意味はラテン語で「新開墾地」だ。まさに、新たな知の領域を切り拓くことが求められる時代にぴったりの人である。

 

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posted by HIROKI tanahashi at 22:31| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする