どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?

ぼんやり過ごしすぎてはいないだろうか。

自分がどんな状況にいて、その状況が自分にどう見え、感じられているかをちゃんと自覚しているだろうか。
自分の行動や感情がそれら状況にどう影響され、あるいは、逆に自分の存在、言動、感情が周囲の状況にどう影響を与えているのか。そういうことをどれだけ自分自身で認識しており、その制御が可能な状態になっているだろうか。


パリ・グランパレの前に置かれた馬のようであり、同時に木のようでもある、王女の姿をした謎の存在。
こうした存在こそ、これからの科学的な視点において大事なものではないかと感じている。


認識すること、そして、その認識を言葉をはじめ、なんらかの技術を用いて表現できるようにすること。
それが世界とうまくやっていくための基本である。

対人関係であろうと、仕事一般のことであろうと、自然を相手にした科学であろうと同様である。
対象の観察からそれを自分にどう見え、感じられているかを理解し、それを自分の言葉なり、その相当物に移し変えること。それが理解であり、その理解のバリエーションによって、対象となる世界をどの程度、自分の側で制御できたり、それになんらかの影響を与えられるかが変わってくる。

とうぜん、どのように見えているか、そして、自分の見え方にどの程度自覚的で、それを自分の言葉なりにすぐさま変換できるかという度合いや種類は人によって異なる。
冒頭書いたように「ぼんやり過ごしすぎている」状態だと、自分が見ているものは何かということを自分で言葉にして説明できないだろうし、その意味で、自分がなぜそこにいて、どんな影響をそこから受け、どんな影響(場合によっては仕打ち)を外に向けて与えてしまっているかということも無自覚ということになる。

ようするに、できる/できないの差は、この状況認識の差から生まれてくるものであるはずだ。
結局、同じ場にいる者同士でも、この状況認識の差がある限り、別の状況の世界に生きているといっても過言ではない。

科学、神話、そして詩は完全に不可分である

そんなことをあらためて考えたのは、いま読んでいるエリザベス・シューエルの『オルフェウスの声』が科学と詩を重ね合わせてみる見方に影響を受けているからだ。

シューエルは「科学、神話、そして詩は完全に不可分である」と書く。
神話はちょっと今の文脈だと余計ではあるが、ある意味、詩的な見方で自然を解釈した結果が神話であるとみると、まさに科学と詩をつなぐものとして神話が理解できるようになる。「丁寧な観察と蒐集が精神の活動によって糾合され、理解され、変化させられて、動的システムをつくりだす、神話をつくり出すのに資する」とシューエルはいう。

科学の根本にあるのは、自然が隠しもつ真理を観察や実験などを通じて、理解・解釈する姿勢である。特に、生物学の分野においては、自然の形態の変化に目を向けながら、その変化の様を分類していくことが行われる。
その分類した性質を、リンネがシステム化したような分類表現を行えば、確かに立派に科学的な生物学になるかもしれないが、すこし違った名付けの方法を用いれば、古代ギリシャやローマの神話、いやいや、八百万の神たちの神話にだってなりえる。


ルーブル美術館のニケ像。このニケは自然の何をインタプリテーションしているのか?


どう理解し、どう表現したかであって、科学と神話はそれほど遠くないことはなんとなく想像しやすいのではないか。

自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕

詩と科学を同一の観点で見る者(それをシューエルは「オルフィックな者」たちと呼ぶが)の代表として、シューエルは、フランシス・ベーコンとシェイクスピアという共に16世紀から17世紀をまたいだ時代を生きた2人の英国ルネサンス人を挙げる。

そのベーコンの有名な『ノウム・オルガヌム』の劈頭にこんな定義があるのを、シューエルは紹介する。

"Homo nature minister et interpres"
「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」の意で、これが科学者であろうと、詩人であろうと、そもそも人間の仕事なのだとベーコンはいう。もちろん、仕事というのは、職業というより、もっと本質的な意味でであるし、だから、この記事の最初に「どう見えているのか?」と問うたのだ。

そして、解釈という意味では「どう見えているのか?」だけでは不足で、それを「どう自覚できるのか?」という観点で、表現、とくに言葉による表現が関わってくる。見えているものをちゃんと言葉にできてはじめて解釈といえる。その解釈のひとつの形が神話だし、別の形が科学である。
我々が詩と神話を彼が考えているアーツに含めるなら、ベーコンの言い分は今日でも通るのであって、技芸は自然の一部であり、受身のアナロジーでなく能動的な操作の場、まさしく自然が言葉を語り出ることができる場、ということになるだろう。例の「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」の句で、僕のする「奉仕」もつまりは自然との積極的連動となり、「解釈」の方も距離を置いてする解読ではなく、役者たちがする役どころと合体することで相手を解釈しようとする「解釈的流出」としてのインタプリテーションに近いものになる。
エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』

物言わぬ自然に変わって言葉を語る詩人は、客観的な翻訳者などではなく、むしろ、自然の共犯者のイメージである。前に「既存の枠組みを冒涜して嗤え、危機感にあふれた時代に」という記事で、ルネサンス期のヨーロッパにおいて、古代エジプトの絵文字であるヒエログリフが注目された際、当時のヨーロッパ人はそれを秘儀が封じ込められたものと解して、なんとかその解読を行おうとしたことを紹介したが、この解読と自然の解読は同様だといえる。


パリ・コンコルド広場のオベリスク。刻まれたヒエログリフはどんな秘密を明かすのか?
それにしても観覧車と重なると時計の針のよう


まさにグスタフ・ルネ・ホッケが『文学におけるマニエリスム』で書く「マニエリスム的存在了解にとっては、存在はもっぱら-自然的なるもののうちにあっては秘匿されると考えられているので、直接的に眼に見えるのではないもの、反-自然的なるもののうちにあってこそみずからを明るませるのである」というのが、「解釈的流出」としてのインタプリテーションにほかならないだろう。

役どころと合体することで相手を解釈する

「役者たちがする役どころと合体することで相手を解釈しようとする」というあたりは、1つ前の記事「肉体的で演劇的!面白まじめのスタンス考(2つのパルナッソスより)」を書いたあたりから気になりはじめている、ルネサンス期まであった演劇的なものを通しての祝祭のあり方とつながっているはずだ。
いうまでもなく、そこで演じられたのは、古代の神々の物語であるし、それが古代ギリシャやローマの人々が自然を解釈する1つの表現であったこともわかる。

さらにそうした演劇が「笑いの創造力」という記事で書いたようなカーニヴァル(祝祭)的なものとつながっていることを考えれば、飽食や性的なものが一気に吹き出すこれらの祭りが自然的なものとつながっていて「役者たちがする役どころと合体することで相手を解釈しようとする」自然のインタプリテーション以外の何物でもないことはわかってくる。

ヤン・コットが『シェイクスピア・カーニヴァル』で示してくれたとおりだ!
農人祭から中世、ルネサンスのカーニヴァルや祝祭まで通して、人間精神の高尚英邁な性質は片はしから−バフチーンが説得力豊かに示してくれたように−(特に排泄、放尿、性交、出山といった「下層原理」に力点が置かれた)肉体的諸機能に取って代わられる。カーニヴァル的知においてはそれらこそが生命力の精髄である。生命の持続を保証してくれるものだからだ。
ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』

これこそが「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」でなくてなんだろう?

目下の課題意識としては、どうしたら、こうした詩的なものと科学が一体化した形での、自然解釈へと再度向かうことができるだろうか?ということだ。

まあ、もっと下世話な観点では「ぼんやり過ごしすぎてはいないだろうか」と不安に感じる人たちをどうするか?ということもあるが。

   

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