どちらかというと「研究」という意味でのリサーチ。でも、もうすこし曖昧に「知りたいことを知ろうとする活動」という意味でリサーチというものを捉えている。それは学術的な意味でのリサーチであっても、産業分野でのリサーチ、デザインリサーチでもいい。あるいは個人的な趣味の範囲でのリサーチも含めて、とにかく「知りたいことを知る」ための活動としてのリサーチがこれから、どう変化していくのか(あるいは、すでに変化しはじめているか)ということに興味がある。
まさに、「これからのリサーチ」についてのリサーチをしたいという思いである。
そんなことをあらためて考えはじめるようになったきっかけの1つは、"我々人類は変わりつつある。人類は自分の創り出したものとあまりに絡み合うようになったので、もはやそれを区別はできない”といった書き出しではじまる、MIT Media Labの“Journal of Design and Science”というメディアに掲載されたダニー・ヒリスの「啓蒙は死んだ、もつれに栄えあれ」という記事だ。
その記事で、ダニー・ヒリスは、自然と人工物の区別はもはや曖昧でしかなく、それらは複雑に絡み合っているのだという。自然物の性質をシミュレートするような人工物をヒリスは「もつれ人工物」と呼んで、次のように書く。
もつれ人工物は、人工的でもあり自然でもある。それは作られたものでもあり、生まれたものでもある。もつれの時代には、両者の差にほとんど意味はない。ダニー・ヒリス「啓蒙は死んだ、もつれに栄えあれ」
人間自体と人工物、自然物と人工物、それらの区別が難しくなった今の状況をヒリスは「もつれの時代」と呼んでいる。
僕が興味があるのは、この「もつれの時代におけるリサーチはどう変化するのか」だ。
もはや思考の目的は対象をコントロールすることではない。
マーシャル・マクルーハンは、すべてのメディア(=人工物)は人間の身体の拡張だといった。しかし、いまやメディアは身体の拡張であるだけでなく、自然の拡張でもある。そして、過度な拡張がヒリスがいうように、拡張された部分と元の部分の区別を見失わさせている。グスタフ・ルネ・ホッケは『迷宮としての世界』などで、世界の人工化を目指すマニエリスムにこそ、ヨーロッパ思想史の常数を見て取ったが、ホッケがそのマニエリスムの原モデルとして捉えたのは、他でもない、自分がつくった迷宮に閉じ込められる名工ダイダロスだった。まさに、もつれの時代、僕らは自分自身が創造したものの予想外のふるまいにおびやかされ、迷宮に閉じ込められたも同然である。
また、ハーバート・サイモンは、自然物の科学に対して『人工物の科学』(邦訳本では『システムの科学』)を考えたが、実は、そもそも自然と人工物の区別は無意味で、それを分けて考えることはもはや意味がないことがわかったわけだ。
いや、それどころか、ヒリスが書いているように、僕たちは前の時代の”啓蒙時代にあって、我々は自然が法則に従うことを学”び、その”法則を理解することで、予測して操作できる”という”科学を発明した”わけだが、もつれの時代を迎え、”我々はもはや、物理的空間や意図的なデザインを反映したゆるやかにつながり合った部品に世界を分解することでは、世界の仕組みを理解できない”状況になっている。
つまり、科学だけでは立ち行かなくなっているわけだ。
"我々が自分たちの技術ともっともつれてくると、人間同士ももっともつれてくる。力 (物理的、政治的、社会的) は理解可能なヒエラルキーから、もっとわかりにくいネットワークにシフトした"ともヒリスは書いているが、こういった指摘は、まさにポストトゥルースの時代に起こっていること、そのものだ。
僕らはもはや理解可能なロジカルなことばではお互いわかりあうこともないし、そんな方法では、もはや何もコントロールできなくなっているわけだ。いや、どんな方法であろうと今後の課題は対象をコントロールすることではない。自分たち自身と対象がもはや区別できない状況でコントロールはもはや思考の目的、研究の目的ではないはずだ。
生物学の道具として数学は向かない
また、最近エリザベス・シューエルの『オルフェウスの声 詩とナチュラル・ヒストリー』を読みはじめたのだが、そこで、こんな一文が目をひいた。生物学者は大体において、それだけで彼らの扱う主題にぴったりくる道具として数学は向かないと感じている。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声 詩とナチュラル・ヒストリー』
ここで「数学は向かない」のが生物学である点がおもしろい。
先の記事で、ヒリスは、”もつれプロセスの見事な例”として”進化と変形生成を通じて人工物を設計するための、生物にインスパイアされたアルゴリズムのシミュレーション活用”、”複数のデザインが何世代にもわたり突然変異し、培養され、選択される”、”ダーウィン淘汰に似たプロセス”を挙げている。
そして、そのシミュレーションされた生物学プロセスの厄介な問題として、次のような点を指摘している。
有機体の有機的な美しさを示すだけでなく、こうしたデザインはまた有機体の複雑な不可解さを示すこともある。というのも、そうした人工物の特長が機能的な要件にどう対応しているのか、必ずしも自明ではないこともあるからだ。たとえば、進化したプログラムでは、コードのあるラインの目的を見分けるのはむずかしいかもしれない。それどころか、何か固有の目的があるという考え方そのものが、おそらくは不適切になる。機能的な分解という発想は、因果律を体現するためにコンポーネントを配置するという工学的なプロセスからきているから、機能的な意図というのは工学プロセスの作りだしたものだ。シミュレーションされた生物学的プロセスは、人間のデザイナーがやるような意味ではシステムを理解しない。むしろそれは、理解することなしに何がうまく行くかを発見する。ダニー・ヒリス「啓蒙は死んだ、もつれに栄えあれ」
ようするに、生物学プロセスではコントロールのためのデザインがむずかしいということだ。必ずしも意味のある要素だけがそこに置かれているわけではなく、「何か固有の目的があるという考え方そのものが、おそらくは不適切」なのだ。それは科学的なエレガントさとは無縁であって、きれいな数式に落とすことなど、ままならない。そういう状態が生物学プロセスにはある。
形態の疑問視からはじまるゲーテの形態学
先の引用のあとでシューエルはこう書いている。生きた有機体の本質は時間と変化であるのに、数学が本質的に時間と無関係の世界だということもあるし、大体が生物学の素材が数学や論理学の手法に合うような小単位に分け難いもの、ということもある。これはビュフォンも問題にし、キュヴィエも指摘している点だ。生物学者としてのゲーテの最大の主題でもある。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声 詩とナチュラル・ヒストリー』
さて、ここで名前の挙がったゲーテはといえば、「形態学序論」(『ゲーテ形態学論集・植物篇』所収)のなかで、こんなことを書いている。
ドイツ人は、実在する物の複雑な在り方に対して形態(ゲシュタルト)という言葉をもっている。この表現は動的なものを捨象し、ある関連しているものが確認され、完結し、その性格において固定されていると見なす。
しかし、すべての形態、とくに有機物の形態をよく眺めると、どこにも持続するもの、静止するもの、完結したものが生じてこないことに気がつく。むしろ、すべてのものは絶えず揺れ動いているのである。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ「形態学序論」『ゲーテ形態学論集・植物篇』
と。
複雑な在り方を捉えようする際、動的な要素は切り捨てて、静止した形態として捉える。生物などを捉える際、それでは多くのものを見過ごしてしまう。
ゲーテが問題視したのはそこだ。
だから、ゲーテは自らの「形態学」で静的な形態を扱わなかった。
その「形態学」が扱ったのは動的な生成、変形であった。
生物の複雑な形態はどのように生成されるのか。
形態ではなく、生成を描く
このゲーテの形態学をある意味引き継いだのがパウル・クレーの造形論である。クレーが再三要求する運動フォルムとは、「すべての形態、とくに有機体の形態をみるとき、そこに見出せるのは、とどまるもの、静止したままのもの、閉ざされたものでなく、むしろすべてがたえず運動してやまない」(ゲーテ)、そうした有機体の形態としての作品にほかならないのである。前田富士男『パウル・クレー 造形の宇宙』
という形で、まさに先に引用したゲーテのことばと20世紀の芸術家パウル・クレーの造形論を結びつけるのが、ゲーテの研究家でもある前田富士男さんである。
パウル・クレーの絵画作品(2016年のポンピドゥーセンターでのパウル・クレー展より)
前田さんは『パウル・クレー 造形の宇宙』のなかで、クレーがバウハウス時代に書いた小論「自然研究の道」から、「自然との対話は芸術家にとり不可欠の条件である。芸術家は人間だが、彼自身、実は自然の世界におけるひとつの自然にほかならない」という言葉を引いた上で次のように書く。
自然研究にはさまざまな方法、道がありうるが、今日の画家にとってそれはもはや視覚に映じる対象の外面的な形姿のみを研究することではない。といって形姿という現象から眼をそらしてしまうのではなく、それを拡大して観察すべきなのである。前田富士男『パウル・クレー 造形の宇宙』
「対象が現象をこえて拡大される」ための方法は、次の3つであるという。
- 解剖学のように文字通り対象の内部構造を知る「可視的内在化」という方法
- 生理学のように内部構造に現象からえた印象を重ねてえられる「機能的内在化」という方法
- この対象を直観する二つの方法のうえに、非可視的な道、対象を人間化する道があり、これは「みる私を対象との共鳴感覚に導く」
クレーは、自然の形態そのものを描くことはしない。ゲーテが形態よりも、その生成に着目したように、自然の静的な形態ではなく、自然が形態を生成する動的な機能を描こうとした。
多様な個体の静的な姿の根源にある動的な形成法則は、個体における諸器官の構造を解明し、さらにその機能に着目して明らかになるとクレーは考えた。彼はこの方法を「解剖学から生理学へ」とも呼んだ。こうした彼の態度は、ヴァイマル時代に植物を主題とする作品が生まれていることからも明らかだ。クレーは、たとえば植物の諸器官を再現的に描いてはならず、その機能に注目して描けと生徒に繰り返し注意している。前田富士男『パウル・クレー 造形の宇宙』
静的な形態ではなく、形態そのものが生じる動的な機能を描くということ。それが記述からこぼれ出るものだったということもあるのだろう。
流動性を前提としたリサーチ
だいぶ話が逸れたが、これからのリサーチにおいて大事なことは、このゲーテやクレーの形態論、造形論に通じる常なる変化、形成を前提として、物事という静的な対象ではなく、状況のような流動的なものを対象にリサーチにあたる姿勢なのではないかと思っている。ヒリスが”我々は自分自身を作り直しているのであり、自分が何になろうとしているのかを賢明に選ぶ必要があるのだ”と書いているように、従来のように外部をコントロールするためにリサーチを行い、開発を行っていた時代とは異なり、現代、そして、これからのもつれの時代においては、自分たちが行うアクションは自分たち自身を作り変えることになる。
だから、アクションを起こした際の前提はその後では物の見事に変化するのが前提となるし、変化につながるアクションを起こす主体は数え切れないほど存在し、それらが互いに絡み合っているので、その変化のシミュレーションをするのは容易ではない。そもそも変化が連続的すぎて、シミュレーションの結果を固定的にとらえるのは無意味だし、その根底に固定的なシステムを想定するのも間違っている。
文字通り、従来のような単純な系を想定したリサーチはますます困難になり、流動的な複雑系を前提に物事を考えるしかなくなっているように思う。
その時代において従来のようなリサーチ&デベロップメントの姿勢はもはや成り立たないだろう。それが成り立つのは「因果律を体現するためにコンポーネントを配置するという工学的なプロセス」を前提に「機能的な分解という発想」が効果を得る状況においてだ。
そうではなく「理解することなしに何がうまく行くかを発見する」ことが求められるような状況では、リサーチはデベロップメントにつなげるためではなく、複雑なネットワークの只中で何がうまくいく布置、分布なのかに常に感覚を研ぎ澄ませながら、ネットワークに繋がったものたちとの共同作業をし続ける、そんな姿勢であるように思う。それをリサーチ&何?と呼ぶかはまだ思いつかないが、その新しく求められる態度の言語化ができればと思っている。
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