これが『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』で著者のポール・バロルスキーが描くルネサンス文化のイメージだ。
ユーモラス、冗談、剽軽、奇矯、ウィット……。
ルネサンスと聞いて、すぐさまこれらの印象を思い浮かべる人がどれだけいるだろうか。
それくらい、バロルスキーが教えてくれるルネサンスのイメージは、通常のルネサンス像とは距離があるように思う。そして、この距離感こそが僕の興味をひいたものの正体だ。僕は違和感に興味をひかれる。
「この剽軽精神のすべてを一点に凝集した感のあるのが、シエナの裕福な銀行家アゴスティーノ・キージのヴィッラである」と、バロルスキーは続けている。
ここでいうアゴスティーノ・キージのヴィッラは、ローマにある「ヴィッラ・ファルネジーナ」だろう。
その邸宅には、ラファエッロ・サンティが「ガラテアの勝利」を描いた「ガラテアの間」や、建物そのものの設計も担ったバルダッサーレ・ペルッツィによる遠近法を使っただまし絵のみられる「遠近法の間」など、ウィットに富んだ数々の作品が描かれている。
僕が興味をそそられるのは、バロルスキーが続けて書く、こんな「キージの剽軽趣味」があまりに僕らの感覚とはかけ離れているからだ。
キージの剽軽趣味はたとえば、宴会で会食の1コースが終わるたびに、使われた金と銀の皿をテヴェレ河に放り投げさせて客を仰天させたという逸話によく表されている。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
一皿食べ終われば使っていた高価な食器を放り投げて捨てる。浪費この上ない、無意味な行為だが、これがルネサンスの時代の剽軽な振る舞いだとすれば、この笑いに対する圧倒的な違いはなんなのだろう?
そう不思議に思わずにはいられない。
笑いの感覚の違い
笑いの感覚についての違いは、それだけではない。バロルスキーが紹介する例には、こんなものさえある。
ホイジンガは『中世の秋』で、15世紀初めのパリで行われていたさる「気晴らし」の残忍なユーモアについて語っている。それは、4人の盲人が棍棒を持ち、賞品である1匹の子豚を殺そうとして、人同士互いに殴りあうというものであった。彼等は闘いのまえに行われたパレードで、「全員、豚の描かれた大きな旗を前に持ち、太鼓叩きに先導されて」歩くその姿ですでに人々の笑いものにされていたことは疑いない。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
「ルネサンスの美術と文学はまた、ルネサンスのユーモアと現代のユーモアとの間にありうべき相違をいろいろと示してくれる」とバロルスキーは書く。まさに、この盲人の例などは、そのとおりだ。現代の僕らにはこの盲人たちの姿は笑えない。
「好色な老人はルネサンスではしばしば嘲笑の的となったが、現代ではユーモアの対象とはなりにくい」というのもそのとおりだ。
例えば、ルーカス・クラナッハの「不釣り合いなカップル」は若い女性の色気に騙された好色の老人がまんまと財布を盗み取られる様を描いたものだが、こうしたシーンがユーモアだといわれてもピンとこない。
ルーカス・クラナッハ「不釣り合いなカップル」
また、バロルスキーは「さらに、ルネサンスにおけるユーモアには、今日のわれわれには少々残酷に思えるものもある」と書いて、こんな例を紹介する。
レオ10世を自作の喜劇で楽しませることのできなかった修道士が、鞭打たれたあげくに皆が縁をもった毛布で空中に放りあげられたという話にしても、この惨劇を見ていた教皇やその取り巻きが死ぬほど笑ったと聞かされても、われわれ自身は楽しむ気になれない。「われわれは醜く歪んだ者どもを見て笑うのです」と、ルネサンス詩人はキケロやインティリアヌスに倣って述べているわけだが、レオナルドの素描に見られる畸型の人物たちが笑いを誘う目論見から描かれたのだとは、われわれ現代人にはどうしても信じられない。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
ここで言及されるレオ10世はローマの教皇である。そんなカトリックの頂点に立つ人物が人が毛布にくるまれ投げ捨てられるのを見て笑うというのは、僕らの感覚ではまともではない。
下のレオナルド・ダ・ヴィンチの素描をみても、僕らにはどこが可笑しいのかまるで想像がつかない。
レオナルド・ダ・ヴィンチ「グロテスク・ヘッズ」
こういった見方を知ると、ルネサンスの名画と呼ばれるものの見方もまた随分と変わってくる。
僕らが美術館などでありがたがって眺めていた絵も、本来はゲラゲラ腹を抱えて笑ったり、ニヤニヤ含み笑いを浮かべながら見られるべき絵なのかもしれないのだ。
愛を笑う
一つ前の「笑いの創造力」という記事でも紹介したように、「神々や女神たちが嘲笑されからかわれる神話作品」はイタリア・ルネサンスの美術作品には数多く見られ、「とりわけラファエッロの作品を挙げることができる」とバロルスキーは言っている。なかでも「愛とセックスのさまざまな主題」は、「ビッビエーナやその他のルネサンスの短編物語や冗談本、喜劇、詩、風刺的考証の作者たちによってたびたびジョークの格好の題材にされ」、「この時代の美術も文学も、覗き魔やふられた恋人、寝とられ亭主や愛の虜になった恋人を嘲笑の的にしている」という。
残酷なものを笑うことに比べれば、まだ僕らにもすこしは理解できる笑いの対象が愛やセックスを笑いのネタにするものだろう。でも、この場合も笑われるのは、普通の人の愛や笑いではなく、神々の愛やセックスの光景であるところが、ちょっと現代とは感覚が違う。
神々の愛やセックスを笑った、ひとつの例が先のキージのヴィッラ=ヴィッラ・ファルネジーナの「ガラテアの間」にあるラファエッロの作品だ。
ラファエッロ・サンティ「ガラテアの勝利」
この絵単独では笑う要素はそれほどない。
しかし、このラファエッロによる「ガラテアの勝利」のフレスコ画の横に、セバスティアーノ・デル・ピオンボによる「ポリュフェモス」が並べられていることを知ると、ルネサンス人は笑うのだ。
セバスティアーノ・デル・ピオンボ「ポリュフェモス」
バロルスキーはこの2つの絵を見比べながら、「この細部は肉欲(ポリュフェモス)に対する至純の愛(ガラテイア)の勝利を謳歌する絵なのかもしれない」と書く。
そもそも、ガラテイアとポリュフェモスの愛の物語(愛の拒否の物語)は、古代から語り継がれ、その都度、ポリュフェモスは笑いの的とされてきたのである。
ガラテイアがポリュフェモスの愛を拒む有名な物語は、古代ではテオクリトスやオウィディウスによって、またルネサンスにおいてはポリツィアーノによって語り継がれ、この醜い単眼巨人はいつもいつも嘲笑の的になった。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
このガラテイアとポリュフェモスの物語を、ラファエロとセバスティアーノ・デル・ピオンボは見事に絵にして笑った。
ラファエロのガラテイアは、セバスティアーノ・デル・ピオンボの描く、悲しみに沈んで海辺に座る獣さながらのミケランジェロ的なキュクロプスから逃げ去ろうとしているところのようだ。美しいガラテイアに恋焦がれるこの一つ目の怪物の「ユーモラスな悲しみ」には、グロテスクとは言わないまでもどこかちぐはぐなところがある。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
色恋、セックスを笑われた神々の代表例と言えるのが、軍神マルスに妻であるウェヌス(ヴィーナス)を寝取られた夫の鍛冶の神ウルカヌスを笑ったものだ。
様々な画家に描かれたウェヌス、マルス、ウルカヌスの関係だが、なかでもティントレットによる「ウルカヌスに驚かされるヴィーナスとマルス」が神々を嘲笑する度合いでは抜けている。
ティントレット「ウルカヌスに驚かされるヴィーナスとマルス」
ティントレットが描くのは、マルスとウェヌスの情事中に、ウルカヌスが家に戻ってきて、慌てたマルスが赤い布がかかった椅子の下に隠れる様を描いたものだ。マルスが隠れているのを見て足元の犬が吠えても夫のウルカヌスが気づかず、ウェヌスの下半身をじっと覗きこむ。
これがルネサンスの笑いである
遠近法を笑う
ふたたび、ヴィッラ・ファルネジーナに戻ってみよう。その二階の大広間には、このヴィッラを建てた建築家でもバルダッサーレ・ペルッツィによる、遠近法を用いただまし絵がある。
彼は、ヴィッラそのものの開廊そっくりの外が見える開廊構造を壁上に描き、あまつさえこの開廊の向こう側にキージのヴィッラから実際にそう見えるようなローマの景観を描きだした。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
バルダッサーレ・ペルッツィ「ローマの景観を描くイリュージョニズムのフレスコ画」
ペルッツィの遠近法的だまし絵は「先行するマンテーニャや後代のマニエリストたちのフレスコ画と同様、同時代人士からはウィットの離れ業とみなされた」という。
現にぎりぎり肉薄した幻を差しだしていながら、最後には、このイリュージョンも一個の虚だということを見る者に悟らせる。ペルッツィのフレスコ画は、ローマの洗練された宮廷趣味を表現した後代のマニエリスム美術と同様、現実というものに対する、また美術と現実の関係に対する極度の自意識の所在をうかがわせるのである。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
前に「アナモルフォーズ/ユルジス・バルトルシャイティス」で紹介したとおり、遠近法はそもそも三次元の立体的な世界を無理やり二元源でも成立しているかのように見せるイリュージョンである。ペルッツィに限らず、多くのルネサンス画家がこの遠近法のイリュージョンに対して自意識いっぱいにその虚を絵のなかで明らかにしてみせる。自らの嘘を、嘘のなかであばく、この自意識過剰なしぐさ、こんなところにもルネサンスの笑いの精神はみられる。
リクリエイションのための絵、再生のための絵
こうしたルネサンス期のみずからの自意識も含めて笑う姿勢は、「笑いの創造力」でも書いたとおり、笑うことによるカーニバル的な再生を目指したものだと考えられる。バロルスキーは本書の終わりのほうで、こうした絵画が「息抜き=リクリエイションのため」に描かれたものであると同時に、その「リクリエイション」という言葉のもつ「再生」「再創造」という意味を思い出させることを指摘している。
一見ありえない組み合わせながら、これらの絵の秘める灼(あらた)かな再生の効能を、ブリューゲルの描く舞踏画の祝祭風景に見られる生を謳歌する力と比べることさえできるかもしれない。ボッティチェリの「プリマヴェーラ(春)」やそれをそっくり言葉にしたロレンツォ・デ・メディチの詩の霊的な「天国」が、見る者の精神に天上的豪奢と「世界霊」を吹きこむことで、これを回復させ高揚させようとしていたのだとすると、フェラーラ公のために制作されたこれらの絵の方は、見る者の肉体に自然との合一を回復させようとするもののように思われる。ルネサンスの多くの作品においてそうであるように、これらとめどなく笑い遊ぶ絵は、語のもっとも根源的な意味における「リクリエイション」をわれわれが深々と験(けみ)しようとするのを助ける。ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』
再生=リクリエイションとしての笑いという観点から見ると、ルネサンスという言葉自体がもつ「再生」という意味もまた大きく違ってみえてはこないだろうか。
それは単なる古代の復興などではない。
生や性、死や肉体的などうしようもなさも笑うことで再生の流れに乗せようとする、ものすごく生命肯定的な姿勢に見えてはこないだろうか。
生や死に向き合い、性に、肉体に、自然を真っ向から受け止める姿勢。
そこにルネサンスの生命観と直結した創造、生成のあり方を見出せる。
むしろ、この観点を忘れたところに、いわゆる本当の近代のはじまりがあるのではないだろうか。そう、思えてくるのだ。
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