形象の力/エルネスト・グラッシ

何年かに一度、世界の見方を教えてくれる本に出会う。

6、7年前に読んだマクルーハンの一連の著作がそうだったし、バタイユの『エロティシズム』もそうだ。ユルジス・バルトルシャイティスの『アナモルフォーズ』やバーバラ・M・スタフォードの『ボディ・クリティシズム』などもそんな本である。

そして、このエルネスト・グラッシの『形象の力』もそんな本の集団に新たに仲間入りした一冊だ。



はじめのほうに出てくる「人間は〈世界未決〉である」という指摘がまず、しっくり来た。

「自分の環境に生きる」動物に対して、人間は「世界を持たない」。
だから、人間は自分が生きる世界とともに「自らを〈形成〉しなければならない」のだと、グラッシはいう。
世界を人工的に意味付けることで、自らが何者かも意味付けることができる。生きる環境と生きる自分自身を同時につくりあげることが人間には求められるということだ。

ギリシア神話で、自らがつくった迷宮にとじこめられた天才発明家ダイダロスを想う。
ダイダロスは蝋でつくった羽根をつけ、その迷宮から脱出することができたが、代償として自らの息子イカロスを失った。その意味で、抜けだした世界は、とじこめられる前にいた世界とは違っていた。
人工的な世界を形成し、それとは別の人工的世界を描くことでもうひとつの閉じ込められた世界から抜け出す。けれど、抜けだして向かった世界もまた別の意味で自ら作りだした迷宮でしかない。

ダイダロスを自分たちの祖先であると考えたマニエリストたちの綺想や驚異を愛する表現行為をヨーロッパ精神史における常数として見出した『迷宮としての世界』のグスタフ・ルネ・ホッケ。その才能を世に出したのが、このグラッシだという。
この『形象の力』を読むと、そのことに納得せざるをえない。
芸術とは、自然的、経験的、日常的な現象を世界突破する試みであり、その〈背後〉にある根源的なものを暴き出す試みであると。(中略)動物と比較してみたときの人間の〈未決〉状況は、芸術という現象が発生可能となるためにはどのように構成されるのか?
エルネスト・グラッシ『形象の力』

自らつくった人工の世界に自らを閉じ込める人間。けれど、その人工の世界の背後にある自然を人間に垣間見せるのもまた人工の術である芸術である。
ある世界から別の世界への入り口を切り裂いてみせるのが芸術。リフレーミングの術であろう。
そして、それこそが形象の力。未決から既決への移行のきっかけ、あるいは、痕跡としての形象。

この形象の力に気づかせてくれた点に、本書のすごさはある。

驚くことが「賢哲たることを希う」哲学の起源

「驚くことは疑問の起源である」とグラッシは書く。この驚きは、先の芸術の力、形象の力にも通じている。驚きが人に〈未決〉の状態をつきつけ、疑問はその〈未決〉に人が向き合った結果、生じる。
だから、グラッシは、アリストテレスの『形而上学』から「驚くこと、太初に、そして今なお人間を哲学することへといざなってきたものが、これである」という言葉を引くのだろう。

哲学と驚き。
〈未決〉の世界の生の姿に驚かされるからこそ、人の中で「これはなんだ?」と好奇心が動く。
好奇心が動いて、それが何かを知ろうとする哲学がはじまる。つまり、〈未決〉を何らかの解釈で〈既決〉の状態に移し替えようとする作業である。
驚きとは、イタリアの怪物公園として知られるマニエリスム期につくられたオルシーニ家の「聖なる森」の「地獄の口」のように、日常の既知の世界に開いた未知の世界への裂け目なのだろう。
その裂け目を前に哲学ははじまる。


ボマルツォ怪物公園の「地獄の口」
正式名称「聖なる森(Bosco Sacro)」であるボマルツォ怪物公園は、イタリア・オルシーニ家の自邸に1552年に造られた庭園。
35個の奇怪なオブジェが配置されていることで有名。


しかし、誰もが哲学するわけではない。〈未決〉を〈未決〉のままで、放っておく人のほうがむしろ多い。そこから目を逸らし、〈既決〉で囲まれた安全な場所に逃げこもうとする。それがたとえ、迷宮だとしても。

山本貴光さんの『「百学連環」を読む』を読んでいて知ったのだが、”philosophy”という言葉を日本語で哲学と訳したのは西周だという。ただし、元は「賢哲たることを希(ねが)う」という意味で「希哲学」と訳したのだそうだ。
元のphilosophyという言葉そのものが「愛する」「好む」という意味のphilo-と、「知」にあたるsophiaから成るのだから「知ることを愛する、好む」という意味がphilosophyにはある。アリストテレスが驚くことが「人間を哲学することへといざなってきた」といったのにもつながっている。
だから、その訳語である「希哲学」から「ねがう」という意味の「希」が省略されてしまったのは痛恨だと感じる。

ところで、アリストテレスは先の文にこう続けている。
とはいえ何かを説明できず驚いている者は、自分の無知を思い知る。その限りでは神話に親しむ者も哲学者である、というのも神話は驚異の出来事からなるのだから
アリストテレス『形而上学』
エルネスト・グラッシ『形象の力』内での引用より

みずからの無知に直面できる人は、希哲学する人だ。好奇心を動かせる人だ。
好奇心という言葉の中にある「奇」は、驚異と親和性がある。どちらもマニエリスムな匂いがする。
驚異の部屋という流行を生んだのもマニエリストたちと同じ時代の人たちだ。

その驚異を描くものとして、アリストテレスは神話を挙げた。
驚異が知へと人を誘うのだとしたら、神話こそ神の世界と人の世界をつなぐ物語だということになる。神の世界から人の世界への移行。人の理解を超えたものから、人の理解の範囲内へと。知るということはまさにそういうことにほかならない。

そのことを考える上でも、神の世界と人の世界をつなぐ別の例もみてみよう。

驚愕をよびおこし不安に陥れる〈新しさ〉の機能

すこし前の「モナリザの秘密/ダニエル・アラス」という記事で、美術史家のダニエル・アラスがルネサンス期の遠近法を、測定可能なものと測定不可能なもの、言い換えれば、人間的なものと神的なものを対置させ、つなぎとめるものだと指摘していることを紹介した。アラスは「遠近法は、人間にとって測定可能な、人間が計測することのできる世界の像を構築する」と書いていた。
そして、アラスは、その遠近法の絵のモティーフとして、多くの画家が、神的なものがマリアという媒介を通じて人間的なものとして生まれでることを可能にする受胎告知の瞬間が盛んに採用されたのも偶然ではないと指摘していた。

例えば、下のアンブロージョ・ロレンツェッティによる受胎告知について、アラスは、大天使ガブリエルとマリアのあいだにある金の柱に注意をうながし、その柱が、上部においては金色の背景に曖昧に溶け込むような形でその物性がきわめて希薄な状態にあるように描かれる一方で、下部ではマリアの衣服がその柱に遮られて隠れているようにしっかりと物性を主張したものに変わっていることを指摘する。
つまり、この非物質的な状態から物質的な状態への転換こそ、受胎告知における神から人間へ、測定不可能なものから測定可能なものへというテーマに重なるというのだ。

annunciation.jpg
アンブロージョ・ロレンツェッティ「受胎告知」


受胎告知をテーマにして神の世界から人間の世界への移行を描く際の方法に、まさに測定不可能なものを測定可能にする魔術としての遠近法を用いる。それが芸術家の力である。
グラッシは、そんな芸術家の力について、このように記す。
芸術家は常に新たな可能性を示す緊張した現実の証人であり、人間の本質と人間の世界を形成する挫けることなき精神の自由の証人であり、あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者である。この意味でボードレールは特殊なアクセントを置いて〈新しさ〉の機能を顕彰したのだった。〈新しさ〉は驚愕をよびおこし、不安に陥れる、というのもすでに解釈済みのものをもっと遠く地平の向こうへと押しやり、疑問を掻き立て、ファンタジーを刺激するからである。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

驚愕や不安を呼ぶ〈新しさ〉。その〈新しさ〉、慣れ親しんだ世界の表層を剥ぎとることで顕になる〈新しさ〉という未知の表層。日常の世界を剥ぎとり、人々に不慣れな〈新しさ〉に満ちた世界をみせるのが芸術家の仕事である。

〈天啓〉=インゲニウム

グラッシのこの本のすごさは、そういう未知を切りだしてみせる芸術家の振る舞い、形象の力こそが、合理的言語に先行するものだということを様々な角度から示していることだろう。

ここではグラッシがどんな風に、その主張を行っているかを詳しく説明すること余裕はない。
けれど、すでに書いたように驚きが知るという行為そのものである哲学への道をひらくということを思い起こせば、未知の〈新しさ〉を発明(インヴェンション)する芸術家的・修辞学的行為が、合理的・弁証法的行為に先行するのは当然だといえるのではないか。

グラッシはこんな風に書く。
原則や原理は何かによって説明されるようなものではなく、ただ対象〈突然〉洞察され、見出されるものである。この〈見出すこと〉なるものが、〈発見〉の、〈天啓〉の、なせるわざである。帰納法はわれわれが多様性を根源の形象に還元するときのあらゆる認識の起源である。とはいえ帰納法とメタファは、原型を見ることに根差しているが、その原型はただ形象を使ってのみ〈洞察〉され、表現できる。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

と。

原則や原理は、論理的に合理的に見出されるのではない。それはただ〈突然〉洞察される。
つまり、それは〈天啓〉は洞察=インゲニウム(ingenium)をもって受け止められる。ラテン語のingeniumは、洞察という意味のほか、才能だったり、資質だったりという意味をもつ。それはエンジンやエンジニアの語源でもある。すごい才能をもった人が生みだす不思議な魔術的な機構をもった機械をインゲニウムと呼び、それを作った人も同様にインゲニウムと呼んだ。ようはすごいことを成し遂げる才能は、合理的にそのすごいことを生みだすのではなく、その最初は天啓、ひらめきにつながる洞察を一見それとは関係なさそうな形象を介して得るのだ。

だから、演繹的な方法に比べれば、実験的帰納法的は根源の形象への還元にいたるつながりをもつ。
帰納的な思考作業やメタファを見出すような頭も使い方をするなかで、形象を介した洞察により突然見出され、結果、それが論理を構築するためのヒントを与えるのだ。

だから、それは芸術の領域だけの話ではない。科学のような合理的な思考が要求される領域においても同様なのだ。
インゲニウムの働きは根源の形相の領域にあり、これを経由して人間は自己の形成に至るのである。ウアルテはこれらの形象が芸術と科学の起源であると断言する。芸術家が創造の過程で自分自身を明らかにすることで自分の中に切迫する形相が明らかになる、そのように科学もまた同じなのであり、たとえばヒポクラテスとガレヌスの医学は、彼らが医学について持っている精神的原像の写しなのである。〈形象〉は科学の出発点であり、根源である公理であって、合理的には論証不能であり、かつ合理的論証の起点に自らなるのである。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

芸術だけが形象を起点に天啓を見出すのではなく、科学においても出発点は天啓をもたらす形象なのだ。

メタファが人を別の世界へと引きずり込む

この形象が、人を日常の世界からまったく別の新しい発見の世界へと移し替える。ボマルツォの「地獄の口」を通って、別の世界へと移動させられる。それはメタファの働きに似ている。
芸術の〈模倣〉もテサウロにとっては移し換え、転義することであり、このことが詩的言語と原初的言語の間の密接な関係を説明するのであり、この言語こそが先ずもってメタファに奉仕するのである。テサウロは「最高にして最も奇怪な事物」は転義した形でなければ伝達できないと主張する。すなわち中世から伝わる3つの言い回し、婉曲的(道徳的)、アレゴリー的(神学的真理に該当する)、そして3つ目、還元的(見えるものから見えないものへ通じる)を介して。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

メタファというのは、何かがどこかまったく別の文脈のなかに移し変えられることだ。そのメタファとして扱われた言葉=形象を通じて、人は元いた世界の文脈から、新しい世界の文脈への引きずり込まれる。
もちろん、不安を嫌う人はそのメタファを理解できないふりしてやりすごす。自らの心地よい空間にとどまり、何も新しい発見せずに過ごす。新たな世界に引きずり込まれた人がそこで驚き、哲学をはじめられる。

先の引用のあとには「このテーゼの根源にあるのは、根源的発話は論理的真理のことではないという認識である」という言葉が続く。最初に合理的哲学の思考があるのではないということだ。根源にあるのは、哲学をうながす驚きに満ちた世界の裂け目である。そこで人は自らと自らが住む世界の〈未決〉さを再認識する。それを認識しなおさない限り、新たな発見、創造への道などあるはずがないのだから。


「人間は〈世界未決〉である」。
その考えが、動物それぞれが知覚し作用する世界の総体が当該する動物にとっての環境であるとした、
ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界概念との関係で語られているのがわかる。


フマニスムのアクチュアリティ

だから、「〈発見〉は〈証明〉に先行する」。

グラッシはいう。
一方に〈発見〉とトピカ、他方に批判哲学を置くと、その間には次のような関係が生ずるように思われる。科学のシステム構築に基礎となりうる第一真理が〈発見された〉なら、科学の全行程は厳密な合理的演繹を必要とする。それにもかかわらずヴィーコの考えによれば、哲学がこの行程に限定されねばならないいわれはないのだ。とりわけそれは、演繹がさらに別の行為、すなわち〈見出すこと〉という行為を前提としているからである。ヴィーコは〈見出すこと〉の教説を〈トポス哲学〉と同一視している。デカルトが出発点に想定する〈第一真理〉すら〈見出すこと〉の結果なのである。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

グラッシは本の最初の方にこう書いている。「一般にデカルトを魁とする現代思想の開始とともに、合理的、すなわち科学的弁論と、パトス的な、すなわち修辞学の弁論とが分離され、そうして弁論術、つまりは形象言語が、哲学的学問から締め出されたのである」と。そのデカルトの思想に真っ向から反論したのが、最後のフマニスムの思想家ともいわれるジャンバッティスタ・ヴィーコである。
フマニスム、日本語にすれば人文主義、英語でいえばhumanismだ。

それはルネサンスが中世のスコラ学の合理主義、演繹主義から決別する際に示した姿勢だ。
イタリア・フマニスムの本質とアクチュアリティは、哲学することについての新しい捉え方にある。中世末期の論理偏重の合理主義的なスコラ学とは違うのだ、フマニスムはこれと対決すべく身構えて、人間の本質を具体的、パトス的、歴史的に縛る生成、すなわち歴史性を探求するのである。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

と、グラッシはフマニスムの本質を示す。
それはルネサンスを代表する思想家ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラの以下のような姿勢にあらわれているように感じる。
ピコによればこのような哲学兼弁論術の効果は、指示的であり、変身的である。「それは動かすのではない、確信させるのではない、そうではなく強いるのである、掻き立てるのである、ひとつの力を、法の言葉を、粗野で単純な言葉を押し付けるのだが、活き活きと、生気豊かに、燃え上がる、鋭く、魂の奥津城(おくつき)にまで押し入り、驚異の力によって人間を変成するのである」。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

指示的で、変身的で、人を掻き立て、活き活きと生気豊かな驚異の力で、人を変成するようなフマニスム哲学のアクチュアリティ。そういう知のあり方、学びのあり方こそがいまの時代求められているのだということをあらためて考えさせられた強烈な一冊だった。
難解な書ではあるが、ぜひ一読をおすすめすする。



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