既存の枠組みを冒涜して嗤え、危機感にあふれた時代に

どうやって本を選んでるですか?と聞かれることが、よくある。
その質問の意図は、ここでも紹介しているような、あまり人が読まないような本をどうやって見つけているか?ということだろう。

答えは単純。
ある本を読んでいると、その中にいろんな本が紹介、引用されているから、その中で興味をもったものを買っているだけ。僕自身からすれば、本同士が勝手につながっていく印象なので、選んでいるという感覚はあんまりない。

ただし、買ってもすぐに読むわけではなく、買って置いてある本の中から、次はこれを読もうと選んでいるのだから、やはり何かしらの基準で選んではいるのだろう。
ただ、そのときの基準は「なんとなく」でしかないので、これは答えようがない。

そんな本の連鎖がすごくうまくいく場合がある。最近もあった。

ここ数回続けて「理解する」ことに関する記事を書いた。この3つ。これが本との連鎖を生むきっかけとなった。

この3つの記事で書いてきたのは「理解する」ことと発見することの関係。そして、その発見という、未知のものが既知へと変化する際には、メタファ的な置き換え、あるいは変身ということが起こるといった話。
だいたいそのあたりが3つの記事を貫くテーマだったけど、今回運良く出会ったのもそのあたりに深く関連する本だ。それも2冊。ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』と伊藤博明『綺想の表象学―エンブレムへの招待』がそれ。



コットの『シェイクスピア・カーニヴァル』のほうは、底が頂へと一瞬にして変容するカーニヴァル的な意味転換を論じ、『綺想の表象学』ではルネサンス期におけるヒエログリフ解読、インプレーサとエンブレムの流行の背後にある自然界の表象から隠れた意味を読み解こうとする際の図像と解釈の関係づけが論じられる。
ようは、いずれも何事か理解する際には、特定の表象が無意から有意へ、ある意味から別の意味へと転義あるいは変容されるのだといった、ここ数回論じてきた話しが語られている。

だから、僕の興味を惹かないわけがないし、また違った角度から、新しい理解を発見するということと、機知(ウィット)やユーモア、あるいはグロテスクや不安といったものとの関係をあらたな面から考えるヒントにもなっている。

既存の枠組みを冒涜する

例えば、コットは、16世紀の劇作家クリストファー・マーロウの戯曲『フォースタス博士』をとりあげる。

16世紀のドイツの占星術師で錬金術師であるヨハン・ファウストを題材にしたのが、マーロウの戯曲の主人公フォースタス博士だ。19世紀のはじめにはゲーテの『ファウスト』のモデルにもなった人物である。

その戯曲のなか、大学での学問に行き詰まったフォースタス博士は、魔術を学ぶために悪魔メフィストフェレスと契約をする。
その契約が交わされた際、フォースタスは「事畢(おわ)りぬ。契約は成った」と言う。
この「事畢りぬ」が問題である。それは「十字架上のキリストの最期の言葉」だからであり、それが「いままさに悪魔と契約したばかりの人間の唇から漏れでると、これはまたなんと冒涜の極みに聞こえる」であろうからだ。

しかし、コットは「冒涜、そう、それはたしかに冒涜ではあるが、但し冒涜されるのは古い、しかつめらしい伝統の方なのである」という。そうした冒涜は何もマーロウの戯曲に特別なことではなく、中世から続く慣習であったことを指摘する。
讃美歌、複音書の聖句、祈祷書の進句(トロープ)など、そもそも中世の初めから修道士とか聖職者たちのパロディの好餌となってきていた。「聖なるものもじり」や「復活祭の笑い」の手を免れうる聖なる行文、聖なる身振りなどひとつもなかった。地方の修道院や教区では特にそうだが、この神聖冒瀆は古い由緒ある慣習であった。ハレとケといずれを問わず〈聖〉と〈俗〉は区別されていなかったのだ。
ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』

〈聖〉と〈俗〉が区別されず、その地位が転倒されることによって起こる笑い。価値の転倒、既存のフレームの転義により、普段と異なる意味が生じてくる。

この笑いをともなう転倒、転義こそ、新しい意味の発見に関与するものだろう。

新しいものといっても、これまでになかったまったく新しいものが突如生まれることばかりではなく、すでに存在はしていたが、気にもとめなかったものが急に意味を変えることで気になる存在として浮かびあがることで新しさが生じるケースは少なくない。一方で、多くの場合、意味あると思われていたものが、無意味あるいは価値が低いものとの間の価値転倒によって、その座を奪われる。

カーニバルの価値転倒

無意なものが有意に、有意なものが無意に変わる。
これはまさにクレイトン・クリステンセンが『イノベーションのジレンマ』で描いたものでなくてなんだろう。変化は底からやってくる。無意味だと思われていたものが、それまでの価値あるものに取って代わる。その様子は、ミハエル・バフチンがカーニバル性と呼んだ、祝祭における価値転倒の世界と重なる。

コットはそのバフチンのカーニバル性を『フォースタス博士』の読みに援用する。
「有ルモノニモ有ラザルモノニモおさらばだ」。「医学よ、さよならだ」。「神学よ、おさらばだ」。フォースタスが大学の書斎でさようならを告げている相手は一体なんなのだろう。ルネッサンスの「華やぐ知識」にか。いな、中世の愚にもつかない学芸修練に、あらゆる喜びを「人間堕落」の悲しむべき遺産として総否定しようとする神学におさらばを告げようというのである。17世紀にもう一度モリエールがそうするであろうように、学者の傲慢、医家の無知、法律家の悪意と倒錯をフォースタスは嗤おうとする。
ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』

価値あるものを嗤うカーニバル的態度。
まさに、フォースタスが悪魔の力を借りて嗤うことで手にするものこそ、イノベーションだろう。
そして、笑いによる価値転倒という方法を、マーロウと同時期に確立したのがラブレーやエラスムスなどのルネサンス期の文学者たちである。
この「聖なるおどけ」を最初に教えたのはラブレーとエラスムスであった。この二人が二人ともドイツ最初期のファウストたちと同時代の人間であったと知って改めて驚かないだろうか。この独白の中にも二人のおおどかな哄笑が響いているのに、学界の解釈者たちも舞台演出家で『フォースタス博士』を手がけてきた人々も、このことをよく理解し、然るべく評価してきたというふうにはとても見えない。
ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』

いや、理解が足りないのはなにも学界の解釈者たちも舞台演出家ばかりではない。ここにイノベーションを生む大事な源泉があることを多くの人たちが見逃していることこそ、僕は指摘したい。

底が頂へ

コットがカーニバル性の例に出すのは、マーロウの『フォースタス博士』ばかりではない。
「ボトム変容」という章でそんな喜劇的な転倒の例として題材にあがるのは、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』である。とりわけ、ロバに変身させられた機織り職人のボトムがその代表だ。
「なんてこった、ボトム、なんてこった! おまえ、すっかり変わっちまったぞ」。「変容」という言葉をベン・ジョンソンは隠喩という意味で使った。シェイクスピアにおいて「変容」とは欲望の突然の発見の謂に他ならない。
ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』

変容とは、欲望を突然発見すること。それまで欲望の対象ではなかったものが突如欲望の対象となる。まさに価値転倒、イノベーションである。

頭がロバという奇怪な怪物の姿に変容させられてしまったボトムだが、ここでまさにあるはずもなかった欲望が突然発見されることになる。
妖精の女王タイタニアは夢からさめ、そばに眠る怪物じみたロバを見て、これに欲望を感じる。
ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』

「『真夏の夜の夢』のどたばたの因はひとえにパックにある」というように、タイタニアの欲望のきっかけをつくったのは、キューピッドの代役のような存在である妖精パックである。「というのも、眠る恋人たちの目に恋の媚薬をたらすことで欲望を目覚めさせるのは彼だからだ」。同時に、ボトムをロバ頭の怪物に変えたのも同じパックだ。パックは変身と欲望を結びつける要因である。

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ヨハン・ハインリヒ・フュースリー「タイタニアがロバ頭のボトムを抱く」


「恋は目で見ず、心で見るものなのね」と登場人物のひとりヘレナがいう台詞は、タイタニアがボトムに抱く欲望を指しているようだが、果たして、それは「恋」なのだろうか?
欲望もまた「心」で見て、「目」では見ないのであろうか。(中略)欲望は「盲目」で、恋は「見る」ものなのか。それとも逆に、「盲目」なのは恋で、欲望の方が「見る」のか。「そして、翼あるキューピッドはそれゆえ盲目の姿に描かれている」。
ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』

盲目ゆえにキューピッドの愛の矢はいたずらに男女を結びつける。パックの悪戯は盲目のキューピッドの延長にある。ただ、その盲目こそが本来関わるはずのなかった者同士を結びつける。盲目が盲目でない人の目に見える世界を一変させる。それまで見向きもされていなかったボトム(底)が一気に欲望の頂へと駆け上る。

インプレーサは隠匿する

ここでもう1冊の本、伊藤博明さんの『綺想の表象学―エンブレムへの招待』に話題を変える。この本で扱われるのは、ヨーロッパ16世紀を中心とした、ヒエログリフの復権、インプレーサの流行、エンブレムの様々な発展という、絵と文字が融合した面白いジャンルについてである。

もちろん、このうちのヒエログリフに関しては、16世紀ヨーロッパのものではなく、いうまでもなく古代エジプトの絵文字なのだが、それを当時のヨーロッパ人は秘儀が封じ込められたものと解して、なんとかその解読を行おうとしたのが、この時代である。
前回紹介したホッケのこの文章の中の「マニエリスム的存在了解にとっては、存在はもっぱら-自然的なるもののうちにあっては秘匿される」という捉え方などはまさにヒエログリフが秘儀を秘匿するものと捉える感覚と同時代的なものである。
マニエリスム的存在了解にとっては、存在はもっぱら-自然的なるもののうちにあっては秘匿されると考えられているので、直接的に眼に見えるのではないもの、反-自然的なるもののうちにあってこそみずからを明るませるのである。
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』

ヒエログリフに対して、図柄と言葉によるモットーで、個人を表象するものとしてマニエリスム期に流行したのがインプレーサだ。一見、紋章に似ているが、紋章が絵だけでも成り立つのに対して、インプレーサはあくまで図像とモットーがセットのものを指す。同じく図像と言葉のセットであるエンブレムとの違いは、インプレーサが個人を表象するものであるのに対し、エンブレムは一般的な教訓などを示すものだということである。

1555年にローマで『戦いと愛のインプレーサについての対話』を著し、インプレーサ成立の端緒を切り開いたパオロ・ジョーヴィオは「完全なるインプレーサを作成するために必要な普遍的条件」をあげている。その1番目が「インプレーサの身体(=図像)と霊魂(=モットー)の間に適正な均斉がなければならない」であるとおり、絵と文字の融合は、もっとも重要視される点である。

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『戦いと愛のインプレーサについての対話』の著者パオロ・ジョーヴィオ


だが、面白いのは2番目と5番目の条件だ。

「インプレーサはその解釈のために巫女を必要とするほど曖昧であってはならないが、また民衆がすべて理解しうるほど明瞭であってはならない」と「インプレーサは、身体の霊魂であるモットーを必要とし、モットーは、その作者の情感が隠されるように、一般的には作者の母語とは異なる言語によって作成されねばならない」というのがそれだ。秘匿の感覚がここにもある。

インプレーサでは、動物をはじめとした自然の事物が図像として採りあげられることが多いという。そして、それがもつ特有の性質や寓意的な意味が利用されていた。このインプレーサのあり方に影響を及ぼしたものとされるのが「中世を通じて産出された『ピュシオロゴス』と動物誌の伝統であった」という。ギリシア語で書かれた『ピュシオロゴス』という作品は2世紀頃、アレクサンドリア周辺で成立したと考えられている。
『ピュシオロゴス』は、動物、鳥類、昆虫、鉱石の特性について述べた書物である。その中には獅子、鷲、蟻などの実在の生物に混じって、サラマンダー(火蜥蜴)、ユニコーン(一角獣)、ミュルメコレオン(獅子蟻)などの想像上のものも含まれている。この点では、プリニウスの『博物誌』に類似しているが、『ピュシオロゴス』の目的は百科事典的な記述ではなく、これらの生物(および非生物)がもつキリスト教的な霊的・神秘的な意味の解読なのである。
伊藤博明『綺想の表象学―エンブレムへの招待』

とされるように、『ピュシオロゴス』が参照されるのもそれが「霊的・神秘的な意味の解読」というマニエリスム的な性格をもつからである。

危機感をもつ人たちの感覚

結局、この「霊的・神秘的な意味」が秘匿されたインプレーサという捉え方も、別の見方をすれば、「霊的・神秘的な意味」がインプレーサへと変身しているのだと見ることができる。聖を俗に転義させて嗤うのも、グロテスクな化け物を生み出し、それに驚異を感じるのも、いずれも既存の価値観とは異なる世界を見出そうとする創作的な力である。

それがマニエリスムというヨーロッパの危機の時代に多く現れているというのが僕にはとても興味深く感じられる。

あらゆるものが危機に瀕し、これまでの常識があっという間に意味をなさなくなっていた16世紀のヨーロッパ。その危機的で不安にあふれた世界で、人々は、秘匿されたものの解釈を試み、カーニバル的な転義で世を嗤い、怪物的なものを生みだしてはその驚異をまた嗤う。そんな変身、メタモルフォーゼ、あるいはメタファ、不一致の一致に満ち溢れたマニエリスムの世界は、既存の価値にとらわれない新たな価値の創出を目指す精神に満ちあふれた
社会だったように思う。

危機と変容。変化の早い不安定な時代にあった、そのマニエリスム的な感覚。
それってまさにいまのいま必要とされるものと同じだったりはしないだろうか。

 

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