謎めいたものを理解しようと輪郭をつかもうとしても、不定形なそれはするりと逃げていく

未知を既知に変換すること。理解できないものを理解できるものへと移行させること。
その際には、発見あるいは変身あるいはメタファー的なジャンプが必要であると、前回の記事「発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致」では書いた。

未知を既知へと変換すること、それは謎めく不定形な状態に、明らかなる形象を与える行為でもある。世界が謎めいているからこそ、僕らはそれを理解せんと務めるのだろう。
だから、謎に立ち向かうつもりのない人に、まだ見ぬ未来はその姿を開示しようとはしない。形のない闇のような謎のなかに手をつっこむことでしか、人は新しい世界を切り拓くことなど、できない。それはいまにはじまったことではない。

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ピーテル・ブリューゲルの模写「イカロスの墜落のある風景」(1560年代)
イカロスの墜落を描いたブリューゲルの作品は、オリジナルは失われ、模写のみが残る
ここで面白いのは、イカロスの墜落が牧歌的な農村の風景に埋没している点だ
これこそ後半で書くデュオニュソスとダイダロスの結合による悲喜劇的なものだろう


未来は予測するものではなく、作るものだという時、その制作の際の素材はこの闇のように形のないドロドロとした謎なのである。
その謎めく不定形さと、人意的に与えられる明らかなる形象の関係を、ギリシア神話の世界のデュオニュソスとダイダロスの関係として解いたのが『文学におけるマニエリスム』におけるグスタフ・ルネ・ホッケである(本の紹介記事はこちら)。

今回は、ホッケがマニエリスム的態度の根底におくデュオニュソスとダイダロスの関係について読み解きながら、どのような態度が「未知の既知への変換」には必要なのか?ということを考えてみたい。

ヨーロッパ精神史の常数としてのマニエリスム、その原モデルはダイダロス

「暗いのはデュオニュソスである。それをダイダロスが明るませ、捕え、限界づけようとする」とホッケは記す。
世界は「デュオニュソス的無定形とダイダロス的輪郭づけの願望の間に引き裂かれている」ともいう。
暗さから明るさへ、不定形に対する輪郭づけの願望、と、デュオニュソスとダイダロスの関係には、僕らが知りたい「未知の既知への変換」のヒントが隠されているようにも思う。ホッケはこの「暗さから明るさ「不定形と輪郭づけの願望」のあいだにマニエリスム的身振りの基本をみる。

ホッケは、マニエリスムという表現身振りを1520年くらいから1620年くらいの間の限定された期間に縛られたものではなく、ヨーロッパ精神史における反古典的かつ反自然主義的常数と見做す。それはヨーロッパが世界を理解し表現するための身振りのひとつの根底をなすものだというのがホッケの基本姿勢である。

マニエリスム的存在了解にとっては、存在はもっぱら—自然的なるもののうちにあっては秘匿されると考えられているので、直接的に眼に見えるのではないもの、反—自然的なるもののうちにあってこそみずからを明るませるのである。
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』

「反—自然的なるもののうちにあってこそみずからを明るませる」。そのマニエリスム的身振りの原モデルとでもいうべきが〈呪われた工人〉ダイダロスその人の身振りである。

ダイダロスは最初の天才発明家である。
クレタ王ミノスのために牛の頭をした怪物ミノタウロスを幽閉するための迷宮をつくり、自らそこに息子イカロスとともに閉じ込められた際には蝋の翼をつくって脱出した。

「ダイダロスは〈呪われた人〉として、不定、変化好き、冒険狂でもあった」とホッケは書く。
自ら、作った迷宮に閉じ込められたり、その迷宮からの逃避行の過程において、父の注意を聞かず太陽に近づきすぎたイカロスが太陽の熱で蝋の翼が溶けたことによる落下事故のため命を失うことになるなど、ダイダロスの発明は常に彼自身のもとに災いを連れてくる。
そもそも迷宮をつくる要因として、ミノスの妻と雄牛のあいだの不貞を助ける発明をし、ミノタウロスが生まれる要因をつくったのもダイダロス自身であった。〈呪われた工人〉たる所以である。

ダイダロスとデュオニュソス、あるいは明−暗

荒れ狂う大いなる謎といえる自然を説き伏せようとするダイダロス。一度はそれに成功したかのようにみえるダイダロスの元には必ず、謎としての自然が災いという形で戻って来る。

「彼においてこそ、情動と計算の混合というマニエリスムの原−原理のひとつが起こったのだ」とホッケはいう。
そして、そのダイダロスの原−身振りを通じて「マニエリスムは世界体験の諸矛盾をしもいわゆる同じく分裂した世界基底の〈不条理な〉統一として見る」ことになる。分裂を統一するダイダロスこそが、その分裂の一方にいるのだ。

そして、分裂の反対側にいるのがデュオニュソスである。

デュオニュソスは豊穣の神にして、ぶどう酒の神、酩酊の神である。
さらには「狂気の神、過剰の、セックスの神であり、メランコリーの、死の神でもある」。ゼウスと人間の女性の間に生まれたデュオニュソスは「少年としても老人としても現れる」、「矛盾と変身の神、無限のメタモルフォーゼの、現存在の謎めいた無定形の、絶望とその陶酔のうちなる超克の神」なのだ。
まさにつかみどころがなく、つかんだと思えば姿形を変えて逃げていくような、まさに輪郭を与えるダイダロスと相反するところの多い神なのだ。

「世界が一個の解き難い迷宮であるとしよう」とホッケはいう。「さてしかし、いつの日にか一人の超−天才、一人のウルトラ−幻想家が、英雄テーセウスのみならず全人類に救済的なアリアードネの糸を首尾よく授けることに成就しうるであろうか?」と続けて問う。
そして「この幻視的な救済的世界公式を得んとする狂気じみた挑戦、このデミウルゴス的虚妄こそは、マニエリスとの原型たる〈問題的な人間〉にとって、そのもっとも奥深い表現衝迫のあるものに符合する身振り−種のひとつなのだ」とホッケは、ダイダロスの冒険的挑戦とその結果彼にもたらされる災いがセットであることを暗示する。
暗い闇のなかに隠された謎は、いったんは明るみの下にひっぱり出すことができるが、必ずやまた闇のなかに引き戻されるのだ。
デュオニュソス的無定形とダイダロス的輪郭づけの願望の間に引き裂かれていることの試練を通過する者はごく少数でしかない。マニエリスムの黄泉の国があり、そこには無数の挫折者たちが犇(ひしめ)いている。
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』

マニエリスト的な身振りのあとに待っているのは、挫折なのだ。
デュオニュソスはダイダロスの機械−芸術の輪郭づけようとする攻撃をたえずすりぬけ、かくて救済的世界−形式と解放をもたらす世界−公式を希求するダイダロスにとっては世界はくり返し迷宮としてあらわれることになる。
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』

この世界の謎とそれに対する人間的な輪郭づけの身振りとの関係。ここに人間的な知の性格が見事にあらわれているのではないか。人は謎を解かんとする。しかし、人がいったん謎を解いたつもりになっても、謎の方は気がつけばまたするりと逃げている。

その謎の逃亡に気づかないのが平凡な人たちで、空になった既知という残骸を後生大事に抱えて、冒険をしない。一方、謎が逃亡したことに気づいて挫折するのがマニエリストである。彼はダイダロスのように自ら、その災いを引き受けるのだ。

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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『バッカスとアリアドネ』(1520年-1523年)
バッカスはローマ神話の神で、ギリシア神話のデュオニュソスに対応する


アリアードネがつなぐ、神的なものと人間的なものとを

ところで、この2人の神話的存在をつなぐのが、ミノス王の娘、クレタの王女アリアードネである。

アリアードネはミノタウロス退治を企てる勇者テーセウスのために、迷宮で迷わずに済むヒントをダイダロスから得ている(そのせいでダイダロス自身は迷宮に閉じ込める罰を受けることになったのだが)。デュオニュソスのほうは後にそのアリアードネを妻とする。

このアリアードネの立ち位置とはいったいなんだろう?
アリアードネこそはまさしく神的なものと人間的なものの、精神と素材との二元論を映し出す鏡、あの最重要のマニエリストたちがたえず幻想的瞑想にまで追いつめたのみならず、耐え難い本質分裂に導いたところの〈矛盾〉を映し出す鏡と化すのである。
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』

とホッケが書くように、彼女こそ、神的で不定形なデュオニュソスと、人間的で輪郭づけを行うダイダロスをつないだ上で、両者の分裂を際立たせる鏡のような存在である。

「ダイダロスはアリアードネのために舞踏を創作してやったことがある」とホッケはいう。
この舞踏がまた「錯綜として入り組んだ輪舞形式」のもので「さながら迷宮の迷路」のようなもので、「巧妙にして悲劇的な錯迷と調和とグロテスクなものとの組み合わせ」であり、やはり、この舞踏もまた「独特の流儀において相反するものを結合する」点で、デュオニュソスとダイダロスを結びつけるアリアードネ自身のようなものであったのだ。
言葉を換えていえば、人間的なアフロディーテであるアリアードネは、プリミティブな迷宮という狂-気のさなかでテーセウスに道標べとなる糸という〈巧妙な〉救助の手段を贈り、のみならず同じく〈巧妙な〉ダイダロスに解決不可能なものに拮抗する降霊舞踏を作らせもしたが、彼女こそは悲劇的なものの〈世俗化〉の、いいかえれば悲劇的なもののうちなる喜劇的—矛盾撞着的なものの、最初の階梯を具現しているのである。
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』


精神史における反古典的かつ反自然主義的常数

デュオニュソスとダイダロス、不定形な者と、それをなんとか輪郭づけようとする者。そして、両者を結びつける悲劇的であると同時に喜劇的な行為を象徴するアリアードネ。
この3者の関係はまさに人間の知るという行為、理解するという行為、そして、人工的に何かを表現する行為そのものであるように思う。
変身する者としてのデュオニュソス、発見する者としてのダイダロス、そして、その相容れない両者をメタフォリカルにつなぐメディアとしてのアリアドーネ。まさに前回の発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致のなかで挙げた要素がこの3者に凝縮する。

ホッケが、それをマニエリスムと呼び、ヨーロッパ精神史における反古典的かつ反自然主義的常数と考えたことはすでに書いたが、それが人間の精神史を考える上でひとつの常数として存在するのは、この現代においてはもはやヨーロッパの歴史の範疇にとどまるものではないと感じる。謎に対峙し、そこからまだ見ぬ知を発見しようとする姿勢は、イノベーションがデフォルトになった社会においては、常に求められているのではないか?というのが、この数回続けて書いていることである。
それとは別の精神的態度がとりあえずわからないものを数字やら計画やらマニュアルやらの形にすることで安心しようとする態度だとしたら、ダイダロスの自らに災いをもたらす発見はそれには程遠い。
すなわち、古典悲劇が、ニーチェによれば、ディオニュソス的なものとアポローン的なものとの結合から生まれてくるのだとすれば、悲喜劇的なものは、謎の神をおびき寄せてこれに相応する地上の謎のなかに宿らせようとしたあの人間的なアフロディーテ、アリアードネを経過して、ディオニュソスとダイダロスとの宿命的な結合から生まれるのだ、と。アポローンーディオニュソスの融合の行き着く先は神話的意味における古典悲劇であり、アイスキュロスである。ディオニュソスーダイダロスの結果はは悲喜劇的なものとなる……まず強化された人工性を経過しながら。
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』

とホッケは書いているが、まさにマニュアル化で安心してしまう姿勢のほうはディオニュソス+アポローンのような悲劇につながる。一方で、謎と発見をメタファーでつなぐディオニュソスとダイダロスの結合は、悲喜劇となる。そこには単なる悲しみだけではなく、滑稽さがつきまとう。

目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいる

それは「人間は〈世界未決〉の状態で生まれる」がゆえに自ら世界を発見する必要があると説く『形象の力』のエルネスト・グラッシがフマニスム(人文主義)と呼んだ思考態度もまさにそれである。
修辞学に基本をおく詩的言語のメタフォリカルな移し替え、転義の作業は、まさにデュオニュソス的な不定形な謎に輪郭づけようとするダイダロス的な行為以外に何ものでもないし、「相反するものを結合する」アリアードネの舞踏に通じるものである。
人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

この「目に見えないほどの一本の糸」はアリアードネの糸なのだろう。
だが、僕らははたしてその糸を自らの道しるべにできるだろうか?

この糸を切ったのが、デカルトの懐疑論だというのがグラッシの指摘だった。
一般にデカルトを魁とする現代思想の開始とともに、合理的、すなわち科学的弁論と、パトス的な、すなわち修辞学の弁論とが分離され、そうして弁論術、つまりは形象言語が、哲学的学問から締め出されたのである。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

僕らはいったん切れてしまった糸を再び結びとめることができるのだろうか。

 

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