発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致

新たな理解が生まれるのを育むのは、すでに理解していることの背景にある枠組みである。
そんなことを前回の「理解を妨げるもの」という記事では書いた。
そして、それは新しい価値を創出するという意味でのイノベーションが生まれるのを阻害する要因でもあると。


フランス・アルルにあるレアチュー美術館での展示。
新古典主義の画家ジャック・レアチューのコレクションを元にしたレアチュー美術館のこの展示は、
レアチュー自身が古典的な均整のとれた人体像を描くのに、古代の彫刻の断片などを収集したことを示すものだが、
この展示に続けて、現代的な医学で扱われる人体をモティーフにした現代アート作品が置かれた瞬間、
科学的な身体の扱いと芸術家による人の体への関心がまったくひとつながりにつながる衝撃を感じる。
この日常的にはつながっていないモノ同士をつなぐ発見が今回の記事の主題である


実際、新たな価値の創出をめざして活動する企業内の取り組みでも、その目的とは真反対のことが起こりがちだ。
イノベーション創出のお作法に則って、エスノグラフィーなどのデザインリサーチでいろいろ情報を集めたり、オープンに多様な人を集めてのアイデアソンなどで数多くのアイデアを集めても、その後の統合作業がまったく新たな価値の種を見つけだそうとする発見の姿勢とは真逆のことが行われる。

どういうことが起こりがちかといえば、とにかく集めた情報、アイデアをすべて後生大事に積み上げ式でそこから何かを生みだそうとしてしまうのだ。
KJ法とは名ばかりの、ただの情報整理で出てきたアイデアを既存の枠組みのなかに押し込めるようなカテゴライズをしてしまう。当たり前だが、その作業により、本来、個々の情報やアイデアがもっていたかもしれない、個性的で未知のものであるような価値の種はすべて既存の枠組みによる理解で削ぎ落とされ、その後はそのまったく新しさを書いたカテゴリーの見出し語により、せっかく集めた情報もアイデアも扱われることになるのだから、そこから新しい価値が生まれてくる可能性は完全に絶たれてしまう。
そうなれば、どれも本質的な魅力を失ってしまっているから、議論はつまらぬ些細なディテールについてのダメ出しばかりのものとなり、そこにクリエイティブな思考は働かなくなってしまう。

“〈発見〉は〈証明〉に先行する”。

そう、書くのは前に「考えるための道具の修辞学」という記事でも紹介した『形象の力』の著者エルネスト・グラッシである。
なのに、発見こそが求められるであろう、新しい価値の創造の活動において、正しいものをひとつひとつ丁寧に検証しつつ積み上げていけば新たなものを作り出せるといった一昔前の証明的な思考態度がいまなおはびこってしまっている。

そんな思いもあり、今回は自分でも最近「発見とはどうやって起こるのだろうか?」と気になっている〈発見〉をテーマにすこし書いてみようと思う。

合理主義的態度が締め出す2つのもの

先の「〈発見〉は〈証明〉に先行する」という言葉のあとで、グラッシはこう書いている。デカルト的な演繹的思考と、デカルト批判者のひとりとして知られるイタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィーコの〈発見〉に重きを置いた思考とを対比しながら。
科学のシステム構築に基礎となりうる第一真理が〈発見された〉なら、科学の全行程は厳密な合理的演繹を必要とする。それにもかかわらずヴィーコの考えによれば、哲学がこの行程に限定されねばならないいわれはないのだ。とりわけそれは、演繹がさらに別の行為、すなわち〈見出すこと〉という行為を前提としているからである。ヴィーコは〈見出すこと〉の教説を〈トポス哲学〉と同一視している。デカルトが出発点に想定する〈第一真理〉すら〈見出すこと〉の結果なのである。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

デカルト的な合理主義的な演繹思考や科学的な弁論もそもそもそれが可能になるのは、発見という出来事が先行していなくてはならないということをグラッシは、『形象の力』という本全体で何度も繰り返し指摘してくれている。「発見という出来事」と書いたのは、それがすこしの客観性も、普遍性ももたない、ある個別の時空性をもった歴史的な性格をもっているものだからである。それゆえ、発見は発見された瞬間という個別性をもつし、個別性ゆえの政治性をもつ。発見はいつでも主観性をもつし、自分事性をもつ。
そんな主観的で、自分事的な発見が、デカルト的な客観的で、普遍性を主張するような合理的思考に先行するのだとグラッシまたはヴィーコは指摘するのである。

グラッシはまた、近代においてはデカルトを起点とする合理主義的な批判哲学的・科学的な論述が、パトス的で修辞学的な弁論を切り離すことで「弁論術、つまりは形象言語が、哲学的学問から締め出された」ことを指摘している。けれど、この切り離し、締め出しが示す合理主義的な批判哲学の態度とは「政治能力とさらには弁論術も眼中にない」というものであり、それは「ふたつの重大な人間活動がないがしろにされる」ということ、つまりは「個別例の認識への態勢を怠ることであり、政治的形成の必要性を軽んじること」につながるとしている。

まさに、先ほど指摘したようなイノベーション創出の現場で残念ながら生じているような、個別例の認識を怠り演繹的な姿勢同様に既存の枠組みでそれらを処理しようとする態度であり、それによって「自分事として扱う」という政治的な判断そのものを回避しようとする態度そのままのものが、デカルト的な合理主義的批判哲学の態度を起点に生じているのだといえる。

問題はあるのではなく、発見される

グラッシはこの〈発見〉というテーマを、また別の角度からも検討している。その1つがローマ時代の修辞学者であるクインティリアヌスの『弁論家の教育』を参照しているケースである。

グラッシは、クインティリアヌスの『弁論家の教育』からこんな言葉を引用する。

"争点とは弁論術の要件の最初の衝突だと言った人たちがいます。この人たちの考は正しいのですが、十分に言葉をつくしてはいないと思います。というのも争点とは『あななはした』『私はしていない』という最初の衝突でははく、最初の衝突から生じるもの、つまり問題の種類なのです"
と。

ここでもグラッシの論のポイントは、クインティリアヌスの法的弁論に関する修辞学的な考察においても、弁論における「争点」が衝突そのものに元から備わっているものではなく、法的弁論家がどう衝突をとらえ、問題を発見するかと捉えたという点にある。

グラッシがこの本で展開するのは、形象における内容と形式の一致ということなのだが、その点においてクインティリアヌスも弁論における「内容」と「形式」の一致ということを修辞学的な観点から主張した人として、ここで召喚されている。そして、内容は、形式としての形象とともに、歴史的で個人的な事柄として発見される。それが法的弁論でも同様だという主張をクインティリアヌスのなかに見いだすのだ。
法的弁論の素材はある手持ちの事例で十分というわけではない、というのもそれは素材となり、かつ〈有能な〉法律家のみが発見できる法的問題となって初めて伝えられるものだから。法的〈素材〉となるのは、黙って〈そこにある〉事実ではなく、それぞれの事案の問題点の総体である。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

考えるための道具の修辞学」でも書いたが、グラッシには「人間は〈世界未決〉の状態で生まれる」という考えが根底にある。未決であるがゆえに、人間は世界を発見するとともに「自らを〈形成〉しなければならないのだ」。
だから、法的な問題も、衝突そのものにあるのではなく、その衝突のうちに問題をどう発見するかということによってはじめて、それは法廷で議論できる問題となるのであり、法的弁論家自身が自分の立つべき場所というものを見出すことにもなるのである。


レアチュー美術館に所蔵されたアルルの画家、アントワーヌ・ラスパルの作品。
このある種、異様な雰囲気をもって描かれる人々。仕立て屋で働く人々を描いたこの絵のあとに展示されるのは、
同じくアルル出身のデザイナーであるクリスチャン・ラクロアのデザイン画である。
衣服、ファッションという観点から人体をみることが、先の古典主義的な画家の観点とつながるとき、
普段は見えない何かが発見されるのだ。


これが新しい価値創造の現場において同様なのは言うまでもない。
ある現象についてのその存在、その質、その量等々を問うことは、ギリシア人にとっては存在しているものについてあれこれを〈告発する〉、ないし決定することを意味した。クインティリアヌスはギリシア語の述語〈カテゴリア〉を法的素材にも関係づけて本来の意味へと戻したのである。さて、人間にとって自分の状況の特殊性は何を本質とするか。それはすべて存在するものを定義し、カテゴリーに応じて〈告発〉せねばならず、そうすることで人間の秩序を確立することである。だとすれば、存在は〈訴え〉としてのみ姿を現すことができるのであり、われわれが存在に即することができるのは、われわれに関連する場合のみである。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

価値創造の現場においても、僕らは新たな価値の種を〈告発〉し、〈訴え〉なくてはならない。それは誰かが客観的な価値の上に用意してくれるものとはまったく別のところで、「われわれが存在に即することができるのは、われわれに関連する場合のみである」という自分たち自身の存在そのものを賭ける姿勢で〈告発〉し、〈訴え〉る必要があるものなのだ。

問題はあるのではなく、発見される。僕ら自身の新たな立ち方とともに。

メタファとアブダクション

さて、では、そのような発見はどのようにしてなされるのか?
すでに長々と書いてしまっているので、詳しくは次回以降であらためて考えるとして、今回はそのヒントになるであろうものについて紹介することにとどめておく。

それはKJ法の本来的に目指しているものにもつながるが、演繹的ではないのはもちろん、帰納法的ですらない、発見法としてのアブダクションとはどういうものなのか?ということにもつながる話だ。
もう8年近く前に、このブログで紹介した『アブダクション―仮説と発見の論理』のなかで、著者の米盛裕二さんは「帰納は観察データにもとづいて一般化を行う推論であり、これに対し、アブダクションは観察データを説明するための仮説を形成する推論です」と書いているが、まさに「新たな説明の仕方」を生むことが求められるのがKJ法なのであって、すでにある説明へと一般化していく作業ではない。そこが誤解されたまま、KJ法と称した作業を進めても、そこから新しい発見がないのは当然である。

グラッシは「原則や原理は何かによって説明されるようなものではなく、ただ対象〈突然〉洞察され、見出されるものである」としているが、この洞察にいたる道のひとつとして、詩や文学、あるいは視覚芸術の領域におけるメタファについて考察している。
芸術の〈模倣〉もテサウロにとっては移し換え、転義することであり、このことが詩的言語と原初的言語の間の密接な関係を説明するのであり、この言語こそが先ずもってメタファに奉仕するのである。テサウロは「最高にして最も奇怪な事物」は転義した形でなければ伝達できないと主張する。すなわち中世から伝わる3つの言い回し、婉曲的(道徳的)、アレゴリー的(神学的真理に該当する)、そして3つ目、還元的(見えるものから見えないものへ通じる)を介して。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

移し替え、転義としてのメタファ。それはあるものから、まるで無関係のものへと思考を飛ばす。既知のものはメタファの力によって、未知のグロテスクなものに姿を変える。未知ゆえに、人はそれを受け入れられない場合すらある。それが価値創出が失敗する現場で起こっていることだ。グロテスクで理解できないがゆえに、人はそれを拒絶し見過ごす。けれど、テサウロがいうように、それは「最も奇怪な事物」であると同時に「最高」なのだ。その「最高にして最も奇怪な事物」を生む方法こそが、婉曲的、アレゴリー的、還元的なメタファの作用だという。

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ジュゼッペ・アルチンボルド『司書』(1566)
アルチンボルドが描きだす静物が人へと変身する様などは、メタファとは何かをよりよく示してくれる最良の例の1つだろう。


メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致

メタファとは、言い換えれば、変身である。メタモルフォーゼである。
エルネスト・グラッシが世に送り出したグスタフ・ルネ・ホッケの『文学におけるマニエリスム』から関連する一文を引いておく(『文学におけるマニエリスム』の紹介記事)。
一定のある一点で—絶望と絶望的な笑いという感情の混淆のうちに—うぬぼれは、迷宮の救済を授ける中心に到達できる、と希望するのをやめる。この瞬間、すべてが可能になる。顔Aは石Bになりうるし、土地Cは器具Dに、樹木Eは河Fに、観念Gは金属Hなどになりうる。世界はさまざまの可能性のメタモルフォーゼと化し、隠喩の錯綜とした鏡の体系と化し、恐怖と幻想と滑稽との、先験的に解決不可能なものの不一致の一致と化するのである。
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』

ここで描きだされるような変身=メタモルフォーゼを可能にするようなメタファ的で、鏡面的な状態が生みだされたとき、新たな価値の種の発見は可能になる。本来のKJ法の場とはそういう場なのだが、グロテスクな未知を恐れる人たちはそこに至ることができない。
上の引用にある「不一致の一致」、一見無関係なもの同士を繋ぎ合わせることで見えてくる発見こそ、新たな意味=理解=価値を生みだすための源泉なのだが、多くの場合はもともと一致しているもの同士をカテゴライズするような安易な道が選ばれてしまうので、変身、不一致の一致の可能性が閉ざされてしまうのだ。
詩作とはテサウロにとっては、〈言語劇場を構築する〉ことを意味する。隠喩の技術こそはあらゆる他の芸術の根である。対置の隠喩、すなわち相反するものを結合する隠喩こそは、明察の最良の所産である。
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』

マクルーハンが自身のメディア論を修辞学と重ねたように、人間の(感覚の)拡張につながる新しいメディアを創出を目指すようなイノベーションの領域において、いかに修辞学的な力が求められているか?ということをもっと考えていくべきではないかと思う。

とにかく、最近興味があることはそういうことだ。

P.S.
それにしても、グラッシの『形象の力』は、マクルーハンがメディア論を通じて展開した思考を異なる素材を用いて論じているので、修辞学という思考の根幹をなすもの、いや、人間という生物の環境認識の本質を考えるうえでものすごく参考になる本だ。また、この本についても紹介記事をちゃんと書こう。