たとえば、普段の仕事で、何らかの提案資料やプレゼンテーション資料をまとめる際も、いきなりパワーポイントやキーノートのようなプレゼンテーションツールを使ってその内容を考えるのか、そうではなく、最初はテキストエディターで伝える内容を文章で書きだす作業をしたあと、プレゼンテーションに落とし込んでいくかで、単に作業効率だけでなく、考えることの内容自体が実は大きく異なるということに気づいているだろうか。
見映えという面までいっしょに作りこむことになるプレゼンテーションツールだと見映えのフォーマットにどうしても思考は制限されるが、文章のみで考える場合、そのフォーマットの制約を受けずに思考が可能になる。
紙の上などで何かを考える場合でも似たようなことがある。文章のみで考えるか、図を描きながら考えるのか。KJ法で図解化と文章化の段階が分かれているのも、そもそも、図で考えられることと文章で考えられることに差があるからだ。
いうまでもなく文章もツール、図もツールである。
職人が道具を選び、時には自分自身で道具を作るように、僕らは思考の際にどんなツールを使うか?ということにもうすこし意識的であってよいのだろう。
パリの街のコンコルド広場にたつオベリスク。
古代エジプト期に多く建造された記念碑としてのオベリスクに記されたヒエログリフは、
ヨーロッパでは長く、神的な秘密を記述した文字として考えられていた
さて、そんな話のつながりでマクルーハンが最後の著書『メディアの法則』でこんな文章を紹介したい。
人工物はすべて人間が発したもの、外化したものであり、そうだとすれば、言語学的・修辞学的な存在である。マーシャル・マクルーハン『メディアの法則』
言語、特に、話し言葉は人間にとってはきわめて原初的なツールだといえる。その言葉と同様にほかの人工物もまた言語的だというマクルーハンの指摘が、最初に書いた「どのように考えるかは、どんなツールを使って考えるか?に大きく依存する」という話につながってくるのは容易に想像してもらえるのではないか。
今回は、ずっと言葉にしようしようと思って、できていなかった、そのあたりの話をついに書いてみようと思う。
すべての人工物を言語的にみる
マクルーハンは先の本のなかで、こうも言っている。人間が手を加えた人工物はそれぞれは実際にはある種のことば(語)、経験をある形式から別な形式へ翻訳する一種の隠喩であるということである。マーシャル・マクルーハン『メディアの法則』
これはユーザー中心のデザインとか、ユーザーエクスペリエンスなどの研究で知られるドナルド・ノーマンが言っている、ある道具を使うということは人間にとって道具を使う以前と以降の作業内容を変えることだという話にも近い。例えば、PCなどを使ってテキストを書く作業は、手書きでひとつひとつ文字を書きだす作業を、文字を選択しながら打ちだす(入力する)作業へと変換する。結果、PCやスマホを使いなれると、漢字などが書けなくなる。それはテキストを書くという作業が手書きとPCなどでの入力とでは別物になっているからだ。そのような意味で、人工物は経験をある形式から別な形式へと翻訳する。
もうひとつマクルーハンがこの本を書く拠り所にしているのは、物理的な道具(鉄道や宇宙船、ラジオやコンピュータ、スプーンなどのハード)でも、概念的な道具(科学上の理論や法則、哲学的な体系、医学における治療法、芸術の形式などのソフト)でも、人工物はどれもメディアとみなして差し支えないというものだ。
そして、
すべて同様に人工物であり、同様に人間から引き出されたものであり、同様に分析可能で、同様に構造上言語と同じ構造をもっている。マーシャル・マクルーハン『メディアの法則』
とマクルーハンは言っている。
つまり、マクルーハンは言語というツールを分析するように、人工物=メディアの分析を行うことが可能だと考えている。
印刷本が生まれる前の手書き本。装丁の豪華さからも書物のもつ意味がまるで今とは異なっていたであろうことがわかる。
クリュニー美術館での展示より
アルファベットの登場が人間の感覚を大きく変化させた
マクルーハンは初期の著作である『グーテンベルクの銀河系』以来、一貫して、古代ギリシアにおける書き言葉としての文字、表音アルファベットの使用の普及が人間の感覚を大きく変化させたと考えている。それは視覚空間という僕らにとってはあるのが当たり前だと思っている空間を、新たに用意した要因だとマクルーハンは言うのだ。視覚空間は聴覚空間と異なり、人為的なもの、つまり表音アルファベットの使用によってもたらされた一種の副作用なのである。アルファベットは、視覚の働きを強化し、他の感覚の働きを抑圧するように作用する。マーシャル・マクルーハン『メディアの法則』
その変容は古代ギリシアで起こっている。そして、そのギリシアにおける変化がいわゆる自由七科と呼ばれるリベラルアーツを用意したことをマクルーハンは指摘する。
筆記が始まって以降、ロゴスは粉々に砕かれて、口誦時代の既成権威はインクの海に沈んでしまった。その古いシステムの断片はほどなくして回復され、後に三科と四科、あるいは「自由学芸七科」になる様式にかたちを変えた。三科は文法学、修辞学、弁証学からなっていた。四科とは、算術、天文学、幾何学、音楽であった。そして三科こそが私たちの関心事であって、それはその三要素すべてが言語についての技術と科学であるからだ。マーシャル・マクルーハン『メディアの法則』
メッセージを扱うか、メディアそのものを扱うか
文法学、修辞学、弁証学。いうまでもなく文法学は書き言葉、文学に関する研究で、一方の修辞学が話し言葉に関する研究、詩や弁論において聴衆にどう訴えかけるかという研究だ。そして、残りの弁証学は論理学と哲学からなる言葉の抽象的な研究である。三科はそれゆえ、文学や詩に関わる文法学と修辞学がパトス(感情)的なもの、哲学と論理学に関わる弁証学がラツィオ(理性)的なものとして対立することをマクルーハンは指摘する。伝統への保守的な愛着のため、文法学者と修辞学者はずっと「古典学派」と呼ばれてきた。一方、それぞれの時代において、知識と思想と試みを組織化するために驚くべき新しい体系と手法を提供してきた弁証学者は「現代学派」と呼ばれてきた。よく知られたこの二者間の競い合いはそのまま残り、両者の知的抗争はその当事者たちにはあまり知られていないが、今日まで連綿と続いているのである。マーシャル・マクルーハン『メディアの法則』
と、古典学派と現代学派の対立を指摘した上で、
メッセージとは性質を異にするものとしてのメディアの問題を扱うために、過去数十年、数世紀に及ぶ「現代学派」による科学の展開の無益さに対抗して、私たちは本書『メディアの法則』をもってこの闘いにおける新たな運動に踏みだそうとしている。マーシャル・マクルーハン『メディアの法則』
と、言葉やその他の人工物をメッセージ=内容としてばかり扱う現代学派的な態度ではなく、「メディアはメッセージである」という有名な言葉どおり、言葉や他の人工物といったメディアそのものがもつメッセージ性=思考や感覚を変えてしまう力について研究した結果を『メディアの法則』のなかで展開している。
パトス対ラツィオ
ここでもう一冊、別の本を紹介したい。エルネスト・グラッシの『形象の力』という本だ。ここで、この本を紹介するのは、まさにグラッシがパトスの言語とラツィオの言語の区別について言及しているからだ。
われわれは論理的、合理的図式におさまる論証言語と、純粋に説得的修辞的言語とを区別しなければならない。では両者の関係の本質は何か? 両者は根拠の提示から出発している。一方は〈ラツィオ〉、悟性に関わる根拠であり、他方は形象に関わる根拠であり、〈パトス〉、情熱に働くものである。エルネスト・グラッシ『形象の力』
修辞学言語は、パトスに関わり、形象を根拠とするとグラッシはいう。タイトルが「形象の力」であるとおり、グラッシは本書で修辞学的なものが論理的・合理的なものの前提になるものだと論じる。同時に、副題が「合理的言語の無力」であるとおり、論理的・合理的なものの根拠のなさによる無力さも暴きだす。
もちろん、グラッシがそのような論をわざわざ展開するのは、通常は逆に捉えられることが多いからだ。修辞学的・文学的言語は根拠に乏しく、論理的・合理的な言語には客観的で明確な根拠がある、と。だから、哲学的な思想や科学的な論考からは、文学的・詩的な言説は不要なものとして排除される。
けれど、グラッシは、この見方がそもそも歴史的なものであることも示す。
一般にデカルトを魁とする現代思想の開始とともに、合理的、すなわち科学的弁論と、パトス的な、すなわち修辞学の弁論とが分離され、そうして弁論術、つまりは形象言語が、哲学的学問から締め出されたのである。エルネスト・グラッシ『形象の力』
と、17世紀のデカルトの時代が合理的言語が完全に優勢になった時代であるとする。もちろん、このあとにはイギリスにおける科学者たちの集まりである英国王立協会があいまいさを排除した言語として普遍言語の研究を進めたり、シェイクスピアに代表される演劇の実施を取り締まったりといった流れが続く。
ラツィオ(理性)がパトス(感情)に対して優位をもつ時代がそのあと、現在にいたっても続いているといえる。
印刷本もまだ普及せず、多くの人が文字にふれることなく、文盲だった時代。
大聖堂などを飾るステンドグラスは、壁に刻まれた彫刻やタペストリーに描かれた図像などとともに、
キリスト教の物語を伝えるためのメディアであった。
クリュニー美術館での展示より
人間は〈世界未決〉の状態で生まれる
しかし、グラッシは合理的言語自体が実は明確な根拠をもたないことを指摘する。例えば、公理のように明確な根拠をもって断言するようなものでさえ、実は普遍的な妥当性をもつような根拠をもたず、証明はできず、あくまでその断言的性質は「○○は××である」と超越的な指示によるものでしかないことを、グラッシは指摘する。
解釈言語は意識過程に根差し、公理の持つ断言形式ではありえないが、その理由は公理の持つ断言形式がそれ自体その必然性からも普遍妥当性からも証明不能で、徹底的に指示的であるからである。エルネスト・グラッシ『形象の力』
グラッシは「証明することをそもそも初めて可能にするのは、公理の指示的性格による」と、その神による指示のような超越的なものの指示的性格以外に、公理の正しさをいう根拠はないとしているが、この指示的言語とはそもそも詩や修辞学的弁論がもつ〈パトス〉的なもの以外の何物でもない。
だから、グラッシは「芸術とは、自然的、経験的、日常的な現象世界突破する試みであり、その〈背後〉にある根源的なものを暴き出す試みである」という風に、日常的な根拠のあやふやさ、その指示性を暴きだす機能を芸術的なもの、修辞学的なものの内にみるのだ。
そして、グラッシが合理的言語の無力をいい、形象の力を根拠とする修辞学的・芸術的言語の力を解く根拠となっているものが面白い。それは、人間が動物と違って、自分の生きる環境の意味を生得的に把握するような形では生まれてこないということ、そのこと自体だからだ。
動物は自分の環境に生きる。自分の行動様式は自分が使用する意味指示に生れながらに規定されているのだ。〈自分を形成する〉のは、動物には該当しない。それに対し人間の方は〈世界未決〉である、あるいは—別のまとめ方をすると—世界を持たない。人間は自らを〈形成〉しなければならないのだ。エルネスト・グラッシ『形象の力』
動物の場合、世界から受けとる刺激はそのまま意味をなすのに対して、人間の場合、世界から受けとる情報の意味を自分たち自身で解釈し、自らの行動の理由としなくてはならないというのだ。
当然ながら、ある情報をどう受けとるかという解釈の仕方は、歴史によって変わる。
その変化に、この記事のそもそもの議題であった「どのように考えるかは、どんなツールを使って考えるか?に大きく依存する」ということが深く関係していることはいうまでもない。
考えるためのツール、マクルーハンでいえば、ハードもソフトも含めた意味での人工物=メディアこそが人間が世界をどう解釈するかを決めるものである。メディアこそが〈世界未決〉の状態で生まれた人間に対し、世界の意味を形成する手助けをする。
グラッシが次のように書くとき、動物の声を人間の言葉に変えるものこそ、マクルーハンのいうメディア、つまり人工物をつくるということである。
一方、人間は現象の生得的解釈を支配していない代わりに、現象の〈一義的〉直接的支持に従う能力もまた持たないのである。この欠如こそ、動物の声ー起源と人間の言語ー起源の間の本質的違いを表す最初の決定的徴候である。人間の言語は固定した意味付与の指示的図式に根を下ろすものでないゆえに、人間は声に意味付与し支持するものをまず自分で求め作り上げねばならない。エルネスト・グラッシ『形象の力』
そして、この言葉をつくるということこそが「人間は自らを〈形成〉」することにほかならない。それはグラッシがいうように、どこまでも指示的で、いわゆる客観的な根拠などをもたない。きわめて恣意的で、けれど、神話的な次元での指示性をもつような、合理的なものとはかけ離れたものである。
だからこそ、それはマクルーハンがいうようにメッセージを扱う弁証学の範疇にあるものではなく、メッセージが載るメディアそのものを修辞学的に扱うべきものなのだ。
どのように考えるかは、どんなツールを使って考えるか?に大きく依存する。
だからこそ、僕らはどんなツールが僕らがいま見ているような世界を僕らに見せているかということにもっと自覚的でなくてはならないのだと思う。
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