観察者の系譜/ジョナサン・クレーリー

なぜ20世紀のはじめに突如として抽象画が生まれたのか?
画家たちはなぜ急に、ずっと続いた自然の模倣をやめたのか?

あるいは、その予兆として、19世紀の終わりに印象派が、15世紀以来続いていた遠近法的な視点を放棄したのは何かきっかけがあったのか? よく言われるように、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが印象派を30年も先取りした絵を1840年代には描き始めていたとしたら、何がターナーにそうさせたのか?



なんと、そのきっかけがゲーテが1810年に出した『色彩論』だったというのが、本書『観察者の系譜』の著者ジョナサン・クレーリーである。

クレーリーは、ヨーロッパにおいて「観察者」というものが大きく変化したのが1820年からせいぜい1830年頃にかけてだと言っている。いや、正確には「観察者」の立ち位置が変化したというよりも、その頃にはじめて「観察者」という概念が生まれたのだとクレーリーは言う。

ゲーテは『色彩論』の「まえがき」で「色彩は光の行為である。行為であり、受苦である」と書いている。
これこそ、視覚という概念の大きな転換であり、「観察者」を生みだしたゲーテの発見である。クレーリーが本書で言っているのは、まあ、そういうことだ。

行為としての色彩。
つまり、このとき、はじめてデカルトやニュートン以来ずっと機械的なものと考えられていた視覚が生理学的なものに変わったのだ。いや、より正確に言うなら、そのとき、はじめて「生理学」的なる考えが生まれたのだとクレーリーは指摘している。

機械的な視覚から、生理学的な視覚へ。
それがどういう意味をもつのか? どんな変化をもたらしたのか? それが本書『観察者の系譜』が論じている点である。

ターナーの「光と色彩(ゲーテの理論)-大洪水の翌朝-創世記を書くモーセ」

機械的な視点というのは、ルネサンス期に遠近法が確立されて以来、ヨーロッパの視覚を支配したカメラ・オブスキュラの単眼的視点である。

デカルトは1637年に公刊した『方法序説』のなかで、レンズの研究を元にした光学的思考を展開する『屈折光学』という論を著しているが、ここでデカルトは彼の懐疑論にもつながる「事物とわれわれの距離を知るためのあらゆる方法が不確かなものだと言わざるを得ない」と述べている。
その「あらゆる方法」のひとつがいうまでもなく遠近法なのであるが、16世紀にアルベルティが「正しき手法(コストルツィオーネ・レジティマ)」と呼んだ遠近法を、デカルトは「円は別の円によってではなく楕円によってこそもっと巧みに表現され、正方形は正方形ではなしに台形によってこそ巧く表現され、他の図形についても全く同じことが言えるからである」として、正確に見えるように描こうとすればするほど、描かれる図は実際のもの(円、正方形)に似ていないがゆえに「不確かだ」と言っている。

ただ、デカルトは遠近法が実際の人間の視覚と異なるから「不確かだ」と言ったわけではない。むしろ、人間の実際の視覚も遠近法と同じだから、人間の視覚そのものが不確かであると言ったのだ。そう。それが彼の懐疑論の根本にあるものの1つだ。
その際、デカルトが念頭に置いていたのが、カメラ・オブスキュラの単眼的視点なのである。デカルトは人間の視覚を、カメラ・オブスキュラのような外部からの刺激に基づいて機械的に像を結ぶものと捉えていたのだった。

そのデカルト的な視覚の概念が、ゲーテの『色彩論』までずっと維持されていたのだ。それに対して、ゲーテは、視覚というものは外的刺激に対して機械的に像を結ぶようなものではなく、観る人によっても、いや同じ人でさえ、観る状況によって変化するきわめて人間的で、生理学的なものであると指摘したのである。

ゲーテはその説明に、太陽を見たあとに目の裏側に残る残像を使った。太陽をしばらく見た後では、目をつぶっても残像が見える。それは人間の視覚とは、外側の刺激そのものが目を通して入ってくるのではなく、身体自体がなんらかのしくみで像を生み出しているからにほかならないと言ったのだ。

そのゲーテのことばをそのまま絵に転換したものこそ、1843年にジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーによって描かれた「光と色彩(ゲーテの理論)-大洪水の翌朝-創世記を書くモーセ」という作品だろう。一見抽象画にさえ見える作品は、まさにゲーテが『色彩論』で提示した残像のイメージそのものなのだ。


ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー「光と色彩(ゲーテの理論)-大洪水の翌朝-創世記を書くモーセ」(1843年)


生理学という学問の台頭

このゲーテの『色彩論』をきっかけに、生理学という学問が台頭してくる。ただし、それは「生理学」と名付けられることもない、様々な研究者が様々に試行錯誤した結果の集積だった。
ゲーテとショーペンハウアーとが主張した、観察者に新たなる知覚の自律性を与える主観的視覚は、観察者を新しい知や新たなる権力の諸技術の主題=主体にすることと軌を一にしてもいた。一九世紀において、これら二つの相互に関連した観察者の形象が浮上してくる領域こそ、生理学という科学だったのだ。一八二〇年[代]から一八四〇年代にかけての生理学は、後に専門科学となったときの姿とは随分異なっていた。当時生理学は、公式の制度的身分をまったくもたず、さまざまに異なる学問分野出身の、お互いつながりのない人々の仕事の集積として生まれ始めていた。
ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』

ゲーテの残像の研究を影響を受けた研究者の何人かは、太陽を見すぎて失明したりするほど、いまだ生理学者としての一体感をもてずにいた異なる学問分野出身の研究者たちに「共通していたのは身体についての興奮と驚き」であり、それほど、この時期、生理学的なものが注目されていたのだ。

残像の研究は太陽を見るだけでなく、フェナキスティスコープのような残像実験の器具を生む。



視覚の生理学的性質という意味では、残像によるものだけでなく、カメラ・オブスキュラや、一点透視図法が頑なに守っていた単眼的視覚をくつがえす両眼視による立体の認識を示すステレオスコープ(いまでいう3Dメガネ)も生理学の分野の実験器具として登場した。

生理学と19世紀絵画

こうした生理学的研究が進むにつれ、芸術家たちの視覚表現も変化してくる。それはすでに印象派以前の19世紀半ばの作家にも見られる変化であることをクレーリーは指摘する。

例えば、ステレオスコープの影響であれば、こんな指摘が見られる。
一連の一九世紀絵画も、ステレオスコープ映像のこうした特徴のある部分を露わにしている。クールベの『村の娘たち』(一八五一)は、大いに注目の対象となっているその人物集団や面の不連続な途切れによって、ステレオスコープの寄せ集め的空間を示唆するものだし、『出会い』(一八四五)における同様の要素もそうである。『皇帝マクシミリアンの処刑』(一八六七)や『万国博覧会の光景』(一八六七)といったマネの作品や、そしてまちがいなくスーラの『ラ・グランド・ジャッド島の日曜の午後』(一八八四ー−一八八六)もまた、擬集性を与えられた空間の局所的、離散的な集合としての領域−あるいは、立体感を与えられた深度と、切り抜かれたような平べったの両者−によりピースミールに組み立てられる。
ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』

いまの映画の3Dでも、立体的な映像がいくつかの層をなした書き割りのように見えることがあるが、まさにギュスターヴ・クールベ「村の娘たち」などの作品には、そうした書き割りじみた表現が見られる。それをステレオスコープの影響と結びつけるクレーリーの視点は圧巻だ。

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ギュスターヴ・クールベ「村の娘たち」(1851年)


クレーリーはこうした生理学的実験ツールが絵画に及ぼした影響が、写真の登場による影響に先行することを強調する。
動きを錯覚のうえでシミュレートする器具の一つであるフェナキスティスコープは、網膜残像についての経験科学的研究の過程で発明されたものだし、またステレオスコープも、半世紀以上にわたって写真映像の支配的な消費形態となりはしたが、もともとは両眼視の生理学的作用を量的に測定し、形式化しようとする努力のなかで発展していったものだ。そうだとすれば、ここで重要なのは、一九世紀の「リアリズム」や、あるいは大衆的視覚文化のかかる中心的構成要素が、写真の発明に先行しており、写真的な手法や、あるいは[複製イメージの]大量生産の技術すら、いかなる意味においても必要とはしていなかった、ということであろう。
ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』


そうした実験ツールの映像と、絵画における表現の直接的なつながりだけでなく、そもそも最初に書いたように、生理学の影響の何より大きな点は、人間の視覚イメージはそもそも外部の刺激そのものなのではなく、人間(の身体)自体がある程度の自律性をもって生成するものであるという認識が、「自然の模倣」に縛られない、印象派やキュビスム、さらには抽象画といった自由な表現への道を開いたということだろう。

この意味でこそ、「プラトンにとって、芸術は一種の魔術だった」という記事で紹介した美術史家ダニエル・アラスの「14世紀初頭から19世紀末にかけてのヨーロッパ絵画を特徴づけるのは、それが自然の模倣という原理のもとで描かれているということです」という言葉の意味がまた別の角度からとらえることができて面白い。
去年の7月頃に読み終えたこの1冊をあえて、このタイミングで紹介しようと思ったのは、アラスの『モナリザの秘密』との関係で僕自身、この本を思い出したからだ。

生理学と産業革命期以降の人間の管理

さて、この生理学研究がなぜこの時代にこれほどまで盛り上がったのかということについて、クレーリーがまた別の角度から指摘していることについても最後に書いておこう。

クレーリーはこう記す。
人間諸科学において賭けられているのは、むしろ、身体-労働者、学生、兵士、消費者、患者、犯罪者としての身体-やその機能の様態に関する知を通して、いかにして人間主体を権力の新しい配置=配列に適合的な存在にするかという課題なのである。
ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』

生理学が台頭した時代、それはまさに(1つ前の記事で紹介した『鉄道旅行の歴史』で著者のヴォルフガング・シヴェルブシュが詳しく記してくれたように、鉄道が普及し始めた時代でもある。それは人間の交通を変え、人間が生きる環境を大きく変えた。移動がすくなく、ひとつの街ごとに閉じていた生活、経済は外に向かって開かれ、それまでとは異なる管理法が求められるようになった時代でもある。

だから、なのだろう。
視覚自体も測定可能なものにはなるだろう。だがフェヒナーの方程式のなかでおそらくもっとも重要なのは、[人間主体を]均質化していくその機能だ。それは、知覚行為を営む人々を、管理可能、予測可能で生産的な存在とし、そして何よりも他の合理化の領域と連動するような存在と化すための手段なのである。
ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』

生理学は、産業革命が切り拓いた新しい人間環境のなかで生じた人間の新しい行動をいかに管理できるようにするか?という観点でも研究が進められたわけである。
その生理学とともに大きく変化しはじめた視覚芸術がその後、政治的なプロパガンダや経済的な欲求増幅のツールにも応用されるのはむしろ当然の成り行きだったのかもしれない。



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