シンボルの修辞学/エトガー・ヴィント

ダニエル・アラスの『モナリザの秘密』書評)に続いて、同じ美術史家である エトガー・ヴィントの『シンボルの修辞学』を読んだ。



アラスの本がラジオ番組を元にして作られたこともあって非常に読みやすかったのに比べると、こちらの方がすこしむずかしくはあった。アラスが1944年生まれで2003年に亡くなっているのに対し、ヴィントはもうすこし前の時代の人で1900年にドイツで生まれ、1971年イギリス・ロンドンで亡くなっているということで、より時代背景的に身近なアラスのほうが共感しやすいというのもあるだろう。
でも、むずかしくはあるが、理解できないような本ではないし、ちゃんと読めばすごく面白くて、僕の関心ごとにどんぴしゃな本だった。僕がどれだけこの本を読んだのをきっかけに考えさせられたかは、すでに「プラトンにとって、芸術は一種の魔術だった」という記事でも紹介している。

アラスとヴィント

アラスとヴィント、この2人の美術史家に共通するのは、文化史との関係から美術を観ることだ。

作品を文化的な背景から切り離して様式やらから単独で読み解くのではなく、その絵がどんな文化的環境を文脈として描かれたのかという観点から考えるので、絵の意味、思考がうまく読み解かれ、立ち上がってくる。
先の記事でも紹介したプラトンの時代の芸術とそれ以後の芸術という大きな括りでもそうだし、ヴィントがこの本で紹介しているようなすでに宗教の時代ではなくなった20世紀に、ルオーやマティスのような画家がいかに神を描いたのかという個別の作品に照らした小さな視点でも、そこにはそれぞれの時代の文化史的背景との関係で芸術を観る視点がある。

ちなみにルオーもマティスもともに1870年前後に生まれ、1950年代の半ばに亡くなっているので、ヴィントのすこし年上だが同時代を生きた画家ということになる。その二人の画家を一つ前の記事「北方ルネサンスの画家たち:クラーナハ展を観て」でもすこしだけ紹介した16世紀のドイツの画家グリューネヴァルトの「イーゼンハイム祭壇画」と関係付けて語るところはなんとも感心させられた。それはもうすこしあとでまた書くとしよう。

その前にまずは、アラスやヴィントに共通する「文化史との関係から美術を観る」という視点がどこから来て、それにより何がもたらされたのか? そのあたりからヴィントのこの本を紹介してみたい。

ヴァールブルクの影響

ヴィントはドイツで生まれ、ハンブルグの大学では著名な美術史家であるエルヴィン・パノフスキーに学んでいる。その後、美術史家としては有名で歴史的にも重要なアビ・ヴァールブルクに出会い、その研究所の図書室の助手になったのが1927年。その後、ユダヤ人であったために1933年にドイツを去って、研究所とともにロンドンに移転する。副所長を務めていたが、39年には研究所組織の改変があってアメリカに移住。ニューヨーク大学やイェール大学などで務めた後、55年にオックスフォード大学初の美術史専任教授として招かれたのをきっかけにロンドンに戻っている。

ヴィントにとっては、やはりヴァールブルクの影響が大きかった。
本書でも第2章に"ヴァールブルクにおける「文化学」の概念と、美学に対する意義"という1930年にハンブルクの学会で発表された講演が掲載されているが、その内容と本書におけるヴィント自身の美術史の読み解き方を比べると、ヴィントがどのような部分でヴァールブルクに影響を受けたがわかってくる。

例えば、ヴィントは「ヴァールブルクは、イメージを、一つの全体としての文化と分かちがたく結びついているものだとみなしていました」と書くが、それはまさにヴィントも同様である。ヴィントはヴァールブルクによる美術品の見方において「彼にとって問題であるのは、目を訓練して、見慣れぬ線的様式の形態上の分岐を追跡したりそれを楽しく味わってみることではありません」と書くが、それもまたヴィントも同様であって、二人とも「重要なのは、特殊なものの見方の中に含まれている当初のものの考え方を、それが陥ってしまっている暗闇の状態の中から蘇らせる」という視点で作品を読み解こうとする。

良き隣人の法則

それにはただ作品だけを見ていたのでは、読み解く手立ては見つからない。作品と隣り合った様々なものとともに作品を読み解くことが必要になってくる。
そのためには、まず、あらゆる種類の文献を厳密に検討して、それが当該のイメージに結びつく可能性のあることを歴史学の批判的方法によって確認しなければなりません。そして、個別に確定するほかはない当初の諸観念を一つの全体としての集合体にまとめあげ、それが当のイメージの形成に貢献したのだということを状況証拠によりながら証拠しなければならないのです。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』という本(書評)で著者の田中純は、ヴァールブルクの「良き隣人の法則」について紹介している。
すでに知っている本ではなく、それに隣り合った未知の書物こそが必要な生きた情報を含んでいるということがままある。ヴァールブルクにとって書物は研究のための単なる手段ではなく、集められ分類されて「良き隣人」の連鎖をなすことにより、人間精神の本質とその歴史を表現する媒体にほかならなかった。
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

この隣人の連鎖のなかに本だけでなく、美術作品もともにある。だからこそ、ヴァールブルクも、ヴィントも「文化史との関係から美術を観る」ために隣人に目を配る努力を惜しまなかった。

ルオーとマティスの宗教画

そんなヴィントが同時代を生きた画家であるルオーやマティスによる宗教的作品を論じる視点がとても興味深かった。

まずヴィントは、ルオーやマティスの作品を読み解くのにあたって、先にも書いたように16世紀のドイツの画家グリューネヴァルトによる「イーゼンハイム祭壇画」の第1面に描かれたキリストの磔刑図を参照する。



このグリューネヴァルトによるキリストの磔刑図はキリストの苦悶を描いたものとして1つの極限にあるものとされる作品である。僕も数年前にコルマールで実物を観たとき、なんとも恐ろしい姿で描かれたキリストの姿に異様なものを感じた。

しかし、それは500年も前に描かれた作品でもある。ルオーやマティスの時代からでも450年以上前、ちょうど1517年にルターが『95ヶ条の論題』を打ちつけることではじまる宗教改革前夜に描かれた作品だ。
それを皮切りにプロテスタントによる偶像破壊が行われたりもして、ルオーやマティスの時代には芸術は完全に宗教から自由になっていた。そんな時代にグリューネヴァルトのように聖痕が痛々しいキリストの身体を描くことで観る者の信仰心を駆り立てることにつながるだろうか?とヴィントは問う。

けれど、そこでヴィントは、1947年に教皇ピオ12世によって出された回勅「メディアトル・デイ」が十字架の犠牲に触れることの重要性を示していることに言及する。
同じ回勅が現代の芸術家に対して次のように警告しているのは、きわめて筋が通っています。「十字架上の救い主の像が、救い主の身体が受けた痛々しい傷を示さないよう作られることを命ずる者は、正しい道から逸れている」と。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

この回勅の影響のせいばかりではないが、当時の画家であるグレアム・サザランドやピカソがキリストの磔刑をグリューネヴァルト的な恐怖をもよおす姿で描いていることをヴィントは指摘する。
その一方で、ルオーやマティスの描く磔刑図は、ともに聖痕を描かない。グリューネヴァルト的な恐怖を斥け、はるかに穏やかな形で磔刑を表現する。
このように信心深いルオーと、信者への大いなる共感をもつ寛容な異教徒マティスとは、ともに信心のための芸術を生み出しました。それはグリューネヴァルトの恐怖を斥けましたが、マティス自身はこの巨匠に敬意を払い、イーゼンハイム祭壇の《受胎告知》から、祈りに折り畳まれた聖母の両手をコピーしています。この見事なドローイングは「グリューネヴァルトに倣って」と記されていますが、それは単に殉教を描く名人としてのグリューネヴァルトの模倣に対する雄弁な抗議であり、この古の画家がより世俗的な尊敬の意外なモデルたりうることを示しているのです。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

単に、ルオーやマティスによる全く性格の異なる2つの宗教画をかつての宗教画と異なると論じるのではなく、回勅「メディアトル・デイ」を介して、グリューネヴァルトの磔刑図との関係を明らかにする。こうした読み解き作業が、絵画の意味を浮かび上がらせる。

こうした読みは、何も美術史に限って必要とされることではないと思う。
表面的に見ただけでは見えない意味を読み解かなくては、新しい価値を紡ぎ出すことが求められるイノベーションの時代に必要な問い立てはむずかしいのだから。

そんな観点から考えれば、このヴィントやアラス、そして、「鉄道が標準時をつくった」で紹介したような文化史の視点から学ぶことは多い。そして、何より、これらの見方で得られる知見は面白く、興味はつきない。



関連記事