北方ルネサンスの画家たち:クラーナハ展を観て

雨の降る日曜日に、上野の国立西洋美術館へ「クラーナハ展」を観に行った。
会期終了が迫るなか、唐突に観に行こうと思ったのは、そういえば北方ルネサンスのこと、よく知らないなと思ったからなのと、ちょうど読んでいた『シンボルの修辞学』で著者のエトガー・ヴィントが、同時代のドイツの画家グリューネヴァルトに関して論じるなかで、クラーナハや同じく北方ルネサンスを代表する画家であるデューラーの話をこんな風に持ち出していたからである。
グリューネヴァルトはクラーナハによる聖ゲオルギウスの木版画を知っていたにちがいなく、それはデューラーの人体を手本に制作されたものであった。もしデューラーのものを近代性の指標として認めつつ、制作年代どおりデューラーを最初に、グリューネヴァルトを最後にして3点を並べるなら、それらが示すのは後退性である。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

デューラーの絵は実物を美術館などでちゃんと観たことはあまりないが、それでも図版などで何点か観て知っている。グリューネヴァルトに関しては、その代表作ともいえる「イーゼンハイム祭壇画」をフランスのコルマールで観て、すごいと思ったので印象に残っている。


グリューネヴァルトの「イーゼンハイム祭壇画」の展示風景
ウンターリンデン美術館が改装中だったため、近くのドミニカン教会で展示


ただ、その2人と同時代を生き、ともに北方ルネサンスを代表する3人の画家のひとりに数えられるクラーナハに関しては、あまりよく知らなかった。だから、土曜日に、上の引用を含む話を読んでいて、ちゃんと観ておかなくてはと思ったのだった。

3人の画家のコントラポスト

先の引用部のあとには、こう続く。
デューラーの人体は、はっきりと古典的コントラポストを示し、それゆえ近代的である。クラーナハではコントラポストが保持されているものの、手の込んだ空想的混合を示す環境描写が付け加えられている。グリューネヴァルトはコントラポストを完全に放棄して、中世的姿態に立ち戻った。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

「コントラポスト」とは、体重を片方の脚にかけて立った人を表現した視覚芸術を指す用語である。有名なところではミケランジェロの「ダビデ像」などがその典型だ。

このコントラポストについて、3人の北方ルネサンス画家の作品を比較したのが、上の指摘である。
具体的にはこれら3つの作品についての評価となる。

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アルブレヒト・デューラー「パウムガルトナー祭壇画」(1503年)※左の人物と他2作品を比較



ルーカス・クラーナハ「聖ゲオルギウス」(1506年)



マティアス・グリューネヴァルト「聖エラスムスと聖マウリティウスの出会い」(1524-1525年)※前面左側の鎧を着た黒人を他作品と比較


確かに、ヴィントのいうとおり、デューラーの描くコントラポストが古典を参照したルネサンス的な人体であるのに対して、グリューネヴァルトのものはバランスが悪い。

背景の文脈から対象を切り離すことで、それに誘惑する力を与える

では、グリューネヴァルトやクラーナハは本当に単純に中世へと後退したのだろうか?

イタリア・ルネサンスのような古典主義的な観点からすると確かにそうともいえる。
けれど、僕が今回展覧会で観たクラーナハの作品の印象は必ずしも後退性を示すものばかりではなかった。

むしろ、クラーナハには、イタリア・ルネサンスとは別の意味で近代的な方向性がみられた。
それはピカソやデュシャンのような20世紀の芸術家もその作品を参照させるに至るクラーナハの対象をエロス化する力だ。
例えば、このヴィーナス。こんな誘惑するヴィーナスをほかに観たことがない。



クラーナハは対象を背景にある文脈から切り離すことで、その対象だけを視線の誘惑の的へと仕立てあげる視覚表現を発明したのだと思う。この何もない黒い背景に切り出されたヴィーナスの裸体などはその典型だ。

イタリア・ルネサンスが遠近法というツールを用いて、あたかも自然を模倣しているかのような錯覚をうみだしたのだとすれば、クラーナハがやったことはまず対象を背景とは切り離された不自然な状況に置く(ちなみにほぼ同時代のオランダの画家たちは、むしろ、その背景であった風景を描きはじめる。このあたりもまた面白いので機会があったら記事にしてみたい)。

不自然に写実的な細部が誘惑する

そして、それと同時に、対象には細部までしっかり描きこんだ写実的な描写を行うのだ。
写実的な描写はヤン・ファン・エイクやピーター・ブリューゲルなどにもみられる北方の画家の特徴ともいえる。けれど、クラーナハはそれを前面の対象だけに対して極端なまでに徹底する。その徹底は細部に気をとられすぎるあまり全体のバランスを欠いた状態さえ生む。しかし、その極端な執着があらわれた細部とその結果の歪みが観る者を誘惑する罠と化す。

クラーナハがそのことに無自覚かといえば、まるでそうではない。
その証拠に画家は観る者を誘惑する女性の像を様々な形で描いている。

時には敵の司令官ホロフェルネスを誘惑して殺したユディト、また時には舞踏の褒美に預言者ヨハネの斬首を要求したサロメや、サムスンの髪を切ってその怪力を封じたデリラなど。クラーナハにかかればヴィーナスやイヴさえもが単なる誘惑の対象に変わってしまう。



いくつか前の「モナリザの秘密/ダニエル・アラス」という記事で、「遠近法は、人間にとって測定可能な、人間が計測することのできる世界の像を構築する」という美術史家ダニエル・アラスの言葉を紹介した。そのイタリア・ルネサンスの魔術である遠近法とは異なる方法で、クラーナハは、人間を誘惑することのできる世界の像を構築している。どちらも中世までの神の世界の像を描く芸術から、人間的世界を描く近代性へと踏み出していることに違いはないように思う。

なんとなく僕には、このクラーナハによる対象をより独立したモノ化して魅惑的に描く術こそが、すこしあとのジュゼッペ・アルチンボルドのような画家の描く絵にもつながっているように感じた。
そのあたりも含めてもうすこし北方のルネサンスについて勉強してみようと思う。



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