プラトンにとって、芸術は一種の魔術だった

ひとつ前の記事で紹介した『モナリザの秘密』という本のなかで、著者のダニエル・アラスはこんなことを言っている。
14世紀初頭から19世紀末にかけてのヨーロッパ絵画を特徴づけるのは、それが自然の模倣という原理のもとで描かれているということです。
ダニエル・アラス『モナリザの秘密』

一見どうということのない当たり前のことを言っているようにも思える。
だから、つい読み飛ばしそうになる一節だが、これ、ちょっと立ち止まって考えてみると結構いろんな疑問が浮かび上がってくる発言だと思う。

例えば、
  1. 「14世紀初頭から19世紀末にかけて」がそうだったら、その前はどうで、その後はどうなのか?とか
  2. というか「ヨーロッパ絵画」というけど、絵画以外ではどうなの?とか
  3. で、結局のところ、それはどういうことなの?とかとか

ちょっとした文章でも読み飛ばさず、疑問をもって考えてみることって大事だよねと思う。

で、ひとつひとつ考えてみると、それぞれこんな風に答えることができる。
  1. その前のヨーロッパ中世の時代は神の世界を描いてたし、その後の19世紀末くらいからはターナー、そして、印象派をはさんで抽象的表現が主流となり、自然の模倣から離れていく(その変化の起点ともいえるターナーに影響を与えているのがゲーテの『色彩論』における残像であり、そしてそれを起点に展開される生理学的な視覚論などだけれど、いってみればそれは17世紀以降のデカルト〜ニュートン由来の機械論的な視覚論&光学の見直しだった)
  2. というわけで、絵画以外ではどうなの?という問いについては、中世は絵画はまったく芸術における中心的な地位を占めてしなかった。建築や彫刻、ステンドグラスやタペストリーなどの複合的なものの統合によりキリスト教世界を表現していたのが中世までの芸術だ。一方、20世紀以降の抽象絵画以降の現代においても同様で絵画は芸術における中心的な位置を占めていない。そこで僕らはあらためて気づく。絵画中心の芸術観自体がむしろ「14世紀初頭から19世紀末にかけて」の特殊例なのだと。
  3. そして、絵画が芸術の中心を占めていた「14世紀初頭から19世紀末にかけて」こそが絵画のような静的なイメージによる思考の時代であり、同時にそれは機械論的な因果関係が信仰されていた時代であったのが、現代ではそれが動画的な落ち着かないイメージだったり、CGのように現実界にオリジナルももたなければ、場合によってはプログラムによる生成などによりオリジナルの作者性さえ危うくなったイメージに取って代わられており、そのイメージの自在な可変性がそのまま複雑系の答えが予測できない世界像に反映されていたり、無限に複製可能で可変性のある信頼ののおけないイメージよりも、ライブでの体験に価値が感じられるようになっていたり、と、ある意味、いま絵画中心の時代の美術史を語る意義そのものが問われているわけだ。

これだけが正解というのではなく、あくまで解答例ね。


14世紀以前の中世美術を集めたパリのクリュニー中世美術館の展示
タペストリーや祭壇などが展示されているが、それらは個別の作品というより教会といキリスト教的空間を織り成す一部だ


前の記事でもダニエル・アラスが芸術を歴史的な視点でみる際、アナクロニスムに気をつけろという指摘をしているという話をしたけど、「14世紀初頭から19世紀末にかけて」以外では、芸術も違うし、その環境も違うし、人々の考え方も違う。もちろん、その「14世紀初頭から19世紀末にかけて」の内側でだって、芸術も環境も考え方も変化してる。でも、やっぱり大きな区分として「14世紀初頭から19世紀末にかけて」の内側と、その外側にある前と後ろの違いのほうが大きい。

例えば、前であれば「プラトンにとって、芸術は一種の魔術である」ような芸術観だったし、そういう価値観をつくりだす社会環境だったわけだ。ちなみに「プラトンにとって、芸術は一種の魔術である」といったのはドイツ生まれの美術史家エトガー・ヴィント(エドガー・ウィントと表記される場合もある)で、著書『シンボルの修辞学』のなかでそう書いている。

そして、なぜ、こんな話をはじめたかというと、ちょうど一昨々日の夜、元同僚と3人で新年会をした際に、プラトンのイデアと美の話になって、『シンボルの修辞学』中のプラトンの芸術観についても話したからだ。今日はそのあたりの話をあらためて文章にしてみたい。

プラトンのイデアと芸術観

プラトンのイデアについて雑に説明すると、純粋な魂が知覚する対象であり、さまざまな存在にとっての真の姿ということになる。一方、人間が通常目にしている物事の形象はイデアの影であって、その似姿でしかない。イデアはその原型として純粋な魂だけが感知できるとするのが、僕が雑に理解したプラトンのイデアである。例えば、僕らが普段感じる「美」がある一方、その原型として「美のイデア」があって、僕らが感じる「美」はその似姿であるというのがプラトンの考えだと僕も思うし、一昨々日の新年会でもそんな話になった。

だから、そうした立場をとるプラトンが、自然の似姿を模倣して表現する芸術家の仕事を真のイデアとは異なる偽物の再生産者として軽視していたというのは比較的知られた話だ。

でも、僕が新年会で話題にしたポイントはそこじゃない。
もちろん、これから書くような話を新年会の場で話したわけではないが、そのときに僕の頭にあったことやその後に考えたことなどを含めて、ここでは書こうと思う。
新年会の場では、ヴィントが『シンボルの修辞学』で書いていたこんな話を話題にあげた(実際は、先にFacebookにこの部分の引用をシェアしてたので、2人ともそれを見てたという前提)。
プラトンは、芸術家の権利を社会の要請のために犠牲にする。彼は立法者に要求する。芸術家には英雄の業績を称え彼らを模倣するよう促す主題だけを再現させろ、また魂を鼓舞し眠らせないような表現だけを使わせろ、そうしなければ町から追放するぞと脅せ、と。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

「表現の自由」だなんて概念を知っている僕らからすれば、なんとも違和感を感じる姿勢である。
けれど、僕らの時代の感覚のまま、プラトンのこの立場をみてしまうと、それこそアナクロニスム(時代錯誤)な考えになってしまう。

芸術は一種の魔術である

こう書きながらヴィントは、プラトンの晩年の著作『法律』から引く。
『法律』のなかでプラトンは「酩酊」の問題を取り上げる。酒に飲まれて酩酊せず、酒と上手に付き合う方法を覚えることは、音楽において調和を生み出すことに近いのだ、と。
「音楽教育が目指すのは、早期の魂を、のちに徳とみなすようになるものに合わせて調律しておくことである」。この調律が個人と社会における、律する力としての理性と衝動的な欲望との間の調停に重ねられ、「立法者の最終目的、個人と社会全体の幸福は、この調律、すなわち洞察と衝動の「調和」が達成される場合にしか、保障されないからである」という形で、立法者による調和のための行動の必要性が指摘される。
この調和のためにプラトンは立法者に「芸術家の権利を社会の要請のために犠牲にする」よう要請するのだ、とヴィントはいう。

もし、それが行われないと、次のような不協和が生じる。
この不協和−−ここでわれわれは決定的な問いに触れている−−は、芸術が国家の拘束から解放され、それ自身の協和のために、快楽と苦痛を最終的な審判者として設定するときに起こるにちがいない。というのは、芸術作品が感覚に働きかける魅力は多様であり、それが反映する種々さまざまな形式は無限であり、唯一の真理と唯一の徳に支えを求めるかわりに多様な形式に身を委ねる魂は、形をなくし、軟弱になり、あらゆる善悪の感覚を喪失するからである。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

だからこそ、「プラトンにとって、芸術は一種の魔術である」のだ。それは単にイデアという真の知から遠ざける偽物を芸術家が生産してしまうという話ではなく、それは人を変えてしまう魔力をもった術だからこそ、プラトンは警鐘をならすのだ。
それは人間に浸透し、その人を変えてしまう。だからこそ、国家は芸術を、魂を形づくる手段として用いなければならないのである。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

この言葉も現代の感覚から受け取れば違和感でしかないだろう。
「国家により統制されれば国家のためになる力も、それが抑制されない場合には、国家に背を向け、人間の統一に背を向けるからである」ともプラトンは考えていたようだ。

でも、こうした考えに現代の基準から無邪気に違和感を表明するのは馬鹿げている。それよりもむしろ、プラトンがなぜ、こんな考えをもつに至ったかを考えたほうが、実は僕らの芸術観や社会環境がとらわれている枠組み、制約が明らかになるのだから有意義なはずである。

書き言葉というツールがギリシア社会にもたらした変化

ヴィントはそうした方向へと僕らを導くために、プラトンが生きた時代の環境について、こんなことを教えてくれる。
紀元前五世紀から四世紀へと移るあいだに、ギリシア芸術の諸部分は洗練され、おのおのが別々のアイデンティティを主張していた。プラトンはみずからの論理と弁舌のすべてを注いで、これに反対した。演劇は礼拝との結びつきを捨て、より心理学的な洗練を追い求めた。彫刻は、フェイディアスの様式からより軟弱なプラクシテレスの形式へ転じた。壺絵では、純粋に線的な描写が自由な筆による技法に道を譲り、精確な輪郭とそのシルエット効果を失くして多彩色の効果に取って代わられ、ついには劇場ふうの遠近法空間に見せかけて壺表面さえ突き破るようになったのである。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

芸術が社会から孤立せず統合された状態から、芸術個々の洗練とともに、それらがすこしずつバラバラになっていく。プラトンはそれを嘆き、その上で、国家による芸術の拘束を要求したのだ。この変化の兆候に対する憂いを理解せずに、単にプラトンの「国家による芸術の拘束」という主張を捉えたのでは大きな誤解を招くだろう。

さらに、この当時のギリシアの状況をより理解するためには、マクルーハンが『メディア論』中で指摘している、ギリシア社会で文字文化が浸透するにあたってのこんな変化を参照するとよい。
村はすべての人間機能を低強度の形態で制度化していた。この穏やかな形態のなかで、各人は多数の役割を演ずることができた。参加度が高く、組織度が低かった。このことが、いかなるタイプの組織においても安定のための公式である。(中略)にもかかわらず、村の形態が拡大して都市国家になると、さらに緊張が必要になり、こと緊張と競争に対処するために不可避的に機能の分離が必要となった。村人たちは全員が季節の祭儀に参加していたが、それが都市国家では特殊化したギリシアの演劇となった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論』

ギリシアの都市国家以前の村では、各人の役割の機能分化の度合いはきわめて低く、それゆえさ様々な祭儀に際しては村人全員が参加し祭儀をつくった。それが都市国家になると役割の機能分化がはじまり、祭儀はその形式を模倣したギリシア演劇となっていく。その変化の要因をマクルーハンはギリシア社会に文字が浸透していたことに見ている。

一昨日の新年会の話題では、ヨーロッパ音楽における記譜法の話が出て、記譜法により、より長い曲、複雑な曲の作曲、演奏が可能になったという話になった。書き言葉の場合も同様である。話し言葉に加えて、書き言葉というツールを使えるようになると、より複雑な話を組み立てられるし、話の構造を分析することも可能になる。社会における役割の機能分化も同様だろう。組み立てできる、分析できるということは、編集行為により、専門分化させた表現が可能になるということだ。そして、それがプラトンが不安を抱いたギリシア芸術の変化につながったのだろうと想像することはむずかしくない。

14世紀までは芸術はまだ統合されていた

けれど、ギリシア以降、芸術が急激にバラバラになっていったかというと実はそうでもない。最初にすこしだけ触れたように14世紀以前の中世までは絵画は芸術の中心ではなかったし、そもそも何かひとつの表現形式が芸術の中心を占めるということはなく、むしろ、建築、彫刻、ステンドグラス、タペストリー、その他様々な工芸品を含めて、キリスト教の世界を表現するために統合的にあったいうことができる。


ランスのノートルダム大聖堂のファサードの彫刻。彫刻も単独で成立していたのではないのがわかる。


エルヴィン・パノフスキーに『イデア』という本がある。だいぶ前に紹介したが、その本のなかでパノフスキーは、プラトンだけでなく、それ以降の新プラトン主義においても非人格的な世界精神として捉えられてきたイデアが、アウグスティヌスによってキリスト教的な人格神へと置き換えられたことを指摘している。
イデアが人格神の思惟となったとき、芸術家は、本来神の思惟であるイデアを神秘的な直視により捉える能力をもったものと見做されるようになる。そして芸術家が直視したイデアを、神のイデアの模倣としての準イデア的なものと考えるようになったのが中世であるとパノフスキーは指摘している。
神のうちで生みだされ抱かれたこの像が、それでもなお、一般に人間と関係をもつことが考えられるとすれば、それはたいていの場合、論理的認識の対象や像家低的な模倣の対象としてではなく、むしろ神秘的直視の対象であった。とはえいもちろん、芸術家の精神がその内的表象と外的作品に対してもつ関係は、神の知性がその内的イデアと彼によって想像された世界に対してもつ関係と平行していると考えられた。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

中世においては、こうした形でキリスト教的な神の世界と芸術が統合されていたので、プラトンが怖れた分解は一気に起こらなかったといえる。

しかし、あの「14世紀初頭から19世紀末にかけて」という変化はやってきた。

シラーの美的自由

引き続きパノフスキーを引けば、その変化はこうなる。
かつての問いは、人間はどのようにして芸術作品を造るのか、というものであった。これに対して、いまやそれとはまったく別の、中世にはまるで縁のなかった問いが立てられる。すなわち、自然に立ち向かうことが必要になったとき、それを上手にやり遂げるためには、人間には何ができなくてはならないのか。とりわけ、何を知らなくてはならないのか。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

中世まではどう造るかだけが問題だった。それがルネサンス以降は「自然に立ち向かう」ためには「何を知らなくてはならないのか」が問われることになる。世界といっしょに在ったがゆえに自然な立場で造ることだけができた中世までとは異なり、ルネサンス以降、人は世界から切り離され、あらためて「自然に立ち向かう」ために「何が必要なのか」を問うことが求められるようになった。


アヴィニョンのプチ・パレ美術館での初期ルネサンス絵画の展示風景。
遠近法により描かれた受胎告知図などが見受けられる。自然の模倣の時代へ。


この変化を明確にするために、ヴィントは18世紀のドイツの詩人で思想家であるフリードリヒ・フォン・シラーの「美的自由」という考え方を紹介する。

シラーにとって、芸術の「遊戯」における自然的なものから道徳的なものへの移行性は、純粋に道徳的なものでもなければ純粋に自然的でもない人間本性の特徴をよく表したものである。そこで彼は言う。「人間が遊ぶのは、言葉の完全な意味において人間であるときだけであり、彼が全き人間なのは、遊んでいるときだけなのです」。しかしこのアフォリズムが暗示しているのは、完全に人間的であることが可能なのは、きわめて例外的な場合だけなのであり、彼の言葉で言えば「美的気分」という、稀な時間においてだけだということである。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

後に20世紀になってジョルジュ・バタイユが『エロスの涙』のなかで、人間の歴史においては労働は芸術にはるかに先行しており、つまりなんらかの有益な結果を生産するための労働よりあとに「芸術作品が完成され、真の傑作において、労働が部分的に効用性の配慮への応答とは別のもの」として芸術は生まれたことを指摘している。そして、バタイユはこのとき、芸術を産むために必要とされたのが「労働ではなくて、遊びなのだ」と言っている。

かつての魔術が、癒しの道具に

シラーのいう遊戯、そして、それこそが人間の道徳的状態と自然的状態をつなぐのだとヴィントは言う。
「かくして美的生活は、この移動性によって、最も重要な教育手段、唯一の解放手段となる」のだと。

しかし、ヴィントはこの点でこそ、シラーの時代とプラトンの時代の歴史的な差異を強調する。
だがこの移動性こそ、人間には危険な力であるとプラトンが恐れ、慎重に制限しようとしたものだった。その同じ移動性が、個々ばらばらに縛られた人間存在を解き放ち、市民意識に欠くことのできない支えとなる。不幸なことに、そうできるのは、人格の全体性を失った後に束の間それを回復しようとする人だけである。つまり、プラトンの同時代人とは条件が逆の人だけである。プラトンと同時代の人はまだ人格の全体性を保持していて、これからそれを失おうとするところだったのだから。プラトンが危険の源と見た芸術が、突如、癒しの道具となる。これは、プラトンが最も煩わしいものと見た特徴のおかげ、すなわち、人を想像力で誘惑し変形する力のおかげである。
エトガー・ヴィント『シンボルの修辞学』

「プラトンが崩壊から守ろうとしたギリシア的統一は、シラーの目には、もはや取り戻せないものに映った」のだとヴィントはいう。
シラーはプラトンのようにバラバラになることをもはや恐れてはいない。もはや個々人はそれぞれの役割をもったバラバラの状態なのだから、その状態でも類としての人間全体をよい方向に導くためには何が必要かを問い、その答えとして芸術のもつ遊戯性、道徳と自然をつなぐ移動性を言ったのだ。

プラトンの時代と、シラーの時代は違う。
だが、最初に示したとおり、シラーの時代は「14世紀初頭から19世紀末にかけて」の自然を模倣した絵画の時代であり、もはや今はその時代とも異なっている。
だから、当然、芸術のもつ役割はシラーの考えた遊戯性や、道徳と自然のあいだの移動性を促すものでもなくなっているはずである。

そうした違いを念頭におきつつ、ルネサンス期の芸術をみると、すごく多くのことが学べる。

   

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