モナリザの秘密/ダニエル・アラス

さて、2017年。今年はできるだけ小出しに自分が考えたことを外に向けて言葉で表現していく年にしようと思う。

というわけで、手はじめに年末年始にかけて読んだ、ダニエル・アラスの『モナリザの秘密』という本を紹介したい。



ダニエル・アラスはイタリア・ルネサンスを専門とするフランスの美術史家。惜しくも2003年に59歳で亡くなっている。この本が僕にとっては最初のアラス体験だったが、読んでみて、すでに亡くなっていることを惜しいと感じた。そのくらい、僕にとっては、このアラスという人の考え方は興味深く好感をもてた。

さて、そんな感想をもったこの本は、そのダラスが死の数ヶ月前まで担当していたラジオ番組が元になっている一冊だ。ダラスは不治の病を悟って、この番組を担当することにしたそうだ。
講演集や対談集などもそうだが、しゃべったものを文字にした文章というのは比較的読みやすいものが多いと思う。この一冊もまさにそう。平易な言葉選びと、それほど複雑でない論理構造が、理解をしやすくさせていると感じる。
また、ラジオ番組という時間の枠が決まった中で1つの話をはじめ、完結させる必要があることもあり、25の章ひとつひとつがとてもわかりやすい流れではじまり、まとまっていく。そんな25の小分けの話がたがいにつながったり、つながらなかったりしながら、展開されていく構成は、読む側も肩肘張らずに気軽に読める感じがまた良い。
もちろん、そんな読みやすさを抜きにしても、僕にとってはアラスの思考自体がとても面白かったので、読み始めてすぐにこの本を気に入った。

アナクロニスム:絵画にまつわる時代錯誤

僕がこの本を面白いと思ったのは、アラスの「絵画のもつ思考を読みとる」という姿勢だ。

もともと僕は、思考と方法の深いつながりに興味をもっていて、その歴史的な変遷について調べたり考えたりするのが好きなのだけれど、その観点からも、アラスの絵画に向かう姿勢には常に、絵画というイメージによる思考に向き合う態度が見られる点でとても興味をひかれた。

アラスは「アナクロニスム」というワードを用いながら、美術史家が避けて通れない絵画を巡る時代錯誤な眼について語っている。そして、その考えの背後に絵画をめぐる2つの時間の存在をあげる。

まず1つめは、現代の時間とは異なる絵画が実際に描かれた時間。
この時間があるために、現代を生きる僕らは絵を観る際の社会的背景を絵が描かれた時代の人々と共有することが難しくなる。現代の社会背景と当時のそうが異なるからだ。その社会的背景の違いゆえ、絵がもつ思考を読み解くことが困難になる。

もう1つは描かれた時間とそれを観る現代を隔てる時間という2つの時間のあいだを隔てる時の流れである。
この時の流れは絵そのものを退色させたり、破損したりなどと様々な形で物理的に大きく変化させてしまう。

この2つの時間の存在が、美術史家にアナクロニスムに陥らずに絵画の思考を読み解くことをむずかしくさせる。

というのも、何を考え、何を思うかは、どんな方法・道具を用いて考えるかに左右されるからだ。
方法や道具が違えば、考えられること、思い浮かべることはとうぜんながら違ってくる。方法・道具はといえば当たり前のように時代によって変化するのだから、時代の違いはそのまま思考の違いにもなるはずである。そのことを無視して、過去の絵画を現在の思考においてとらえようとすれば、とうぜん大きな勘違いが発生する。

アラスは「アナクロニスム」という語を持ちだして、そうした思考の方法と道具、そして思考の内容それ自体の関係に最大限配慮した上で、美術史を語る。

アラスの「近接絵画史」

とはいえ、アラスはこの絵画に生じる「アナクロニスム」な変化を必ずしも悪いものとばかりは捉えていない。それが生じることには注意すべきではあるが、同時にそれが避けられず生じてしまうことを認めている。

例えば、絵画が描かれた時間と現代の時間の隔たりについても、その隔たりがもたらすアナクロニスムなものを好意的にもとらえるアラスがいる。描かれた当時は教会などの壁にかけられていたがゆえに近くで見ることができなかった絵画が、いまや美術館の壁にかけられた形で間近に観られたり、書籍やネット上の写真画像として観ることができるようになったことで、絵画が違うものとして見えてくる場合などがそうだ。

それで何が起こるかというと、かつては画家本人以外には観ることができなかった細部をそれ以外の人でも観ることができるようになり、画家だけしか知らずに終わるはずだった絵画の思考がアラスのような美術史家によって明るみに出ることがすくなくない。


アンドレア・マンテーニャ「ゴンザーガ家”夫妻の間”の天井画」


そのひとつの例としてアンドレア・マンテーニャがマントヴァ侯ゴンザーガ家に招かれて「夫妻の間」に描いた壁画装飾のうちのひとつでる天井に描かれた絵のなかに、通常誰もが確認できる9人の天使(その他にキリストと3人の人間がいる)に加えて、もうひとり、10人目の天使の存在を見つけたことを報告している。10人目の天使は普通に床に立った状態ではわからない存在であり、写真でまじまじと見たからこそ見つけられた存在である(どこにいるかはぜひ本書を読んで確かめてほしい)。

アラスはこうした近距離から絵画を読み解くことで繰り広げられる新しい美術史の形を「近接絵画史」と呼ぶ。
近くで絵を観ることができる時代の美術史は、遠くからしか絵を観ることができなかった時代の美術史とは必然的に内容が変わってくる。それもまた思考の内容と道具・方法のつよい結びつきゆえである。
むしろ私にとって問題なのは、一枚のタブローのなかで、私の心を打つものが何であるかを探すことなのです。
ダニエル・アラス『モナリザの秘密』

といったアラスの表明などはまさに近接美術史家ならではの関心を示しているともいえる。

遠近法と受胎告知

つまり、どう考えるかは、どんなツールを使って考えるかに大きく依存している。
僕がもともと持っているこの思いをアラスによるこの本はより強くさせてくれたというわけである。

特に、この本でアラスが取り上げるものでは「遠近法」こそ人間の思考を大きく変えたツールのひとつだと僕は思っている。
「遠近法は、人間にとって測定可能な、人間が計測することのできる世界の像を構築する」とアラスはいう。

この本での前半部にあたる遠近法に関する話の展開は何よりの見せ場だ。
アラスはまず遠近法が生まれたばかりの頃に描かれた絵画について「受胎告知」を題材にした複数の作品をあげて説明を進める。
例えば、ひとつの例はフランチェスコ・デル・コッサによる受胎告知だ。


フランチェスコ・デル・コッサ「受胎告知」


この絵の空間構成を読み解きながら、実は大天使ガブリエルの位置からだと柱が邪魔になってマリアが見えないはずであることを指摘しつつ、画面右下前面を這うカタツムリは空間内にいるのではなく、まさにフレーム上を這っていることであることを指摘したりと、細部のおかしな点から絵画における思考を読み解く「近接美術史」の面目躍如といった形で話を展開していく。

そんな風に様々な画家によって描かれたいくつかの「受胎告知」作品を例に遠近法の展開について紹介したあと、唐突に、遠近法を使った初期の作品に受胎告知が多く描かれるのは偶然ではないと言いだす。

アラス曰く。
受胎告知とはそもそも「フランシスコ会の説教僧であるシエナの聖ベルナルディーノによれば、無限が有限のなかに、測定不可能なものが尺度のなかに、やって来る瞬間」のことである。だからこそ、測定可能な世界の像を構築する役割をもつ「遠近法をその限界とその表象可能性に向き合わせる特権的な主題」として受胎告知なのだ、とアラスは言う。

そう。遠近法で描かれた受胎告知をテーマとする絵に共通して表されているのは、測定可能V.S.測定不可能であり、人間的なものV.S.神的なものという図式だ。これが神的なものがマリアという媒介を通じて人間的なものとして生まれでることを可能にする受胎告知の瞬間と重なるというわけだ。

遠近法という思考法

そこでアラスが例としてあげるのが、アンブロージョ・ロレンツェッティによる受胎告知である。


アンブロージョ・ロレンツェッティ「受胎告知」


アラスは、絵の左側の大天使ガブリエルと右側のマリアのあいだにある金の柱に注意をうながす。
この柱は、上部においては金色の背景に曖昧に溶け込むような形で描かれており、その物性がきわめて希薄な状態にあるが、反対に下部においては、マリアの衣服がその柱に遮られて隠れているようにしっかりと物性を主張したものに変わる。
この非物質的な状態から物質的な状態への転換こそ、受胎告知における神から人間へ、測定不可能なものから測定可能なものへというテーマに重なるというのだ。

面白かったのは、このあと1500年に入るとすぐに遠近法は時代遅れになっていくという指摘。
レオナルド・ダ・ヴィンチも『最後の晩餐』くらいまではまだすこし幾何学的遠近法を用いながら、それ以降は空気遠近法にシフトしていく。
16世紀におけるこの遠近法の危機と、17世紀におけるその栄光に満ちた回帰とのあいだに、何が起こったのでしょうか。私は、偉大な数学者でだまし絵の大家であるポッツォ神父によるローマの聖イグナティウス教会のことを考えます。二つの世紀のあいだには実際、たくさんのことが起こりましたが、遠近法とそれが含みうる内容の観点から見れば、とても重要なことがあります。つまりこの間に、世界は無限であることが認められたのです。世界は無限になったのです。
ダニエル・アラス『モナリザの秘密』

ここで指摘されている「だまし絵」の話。16世紀と17世紀にはアナモルフォーズと呼ばれる幾何学遠近法の原理を使った錯視の実験が数学、光学の観点から画家よりも数学者、思想家を巻き込んで繰り広げられる。忘れてはならないのは、そのひとつの中心にデカルトもいたこと。ここはアラスの本では語られていないけど、デカルトの「我思う故に我あり」といった考え方それ自体も、光学的な錯視の考察を行った結果のものといっても過言ではない。そのあたりはいつかまた書こうと思う。

もう一方で、遠近法が廃れていったことの背景としてアラスがあげるのが、ジョルダーノ・ブルーノによって世界自体が無限であると主張され、それが認められていったということ。この指摘も面白かった。世界自体が無限であれば、受胎告知が描いた無限から有限への図式が成り立たなくなるわけだから。

と、こんな具合に、絵画と世界の見方の関係について教えてくれる本書は、ひさしぶりに人におすすめしたくなる一冊でした。