余計なことをしたくないということが前提ですからね。でもそれは最初から余計なことをしたくなかったわけではなくてむしろ余計なことをしてきたのです。古典的ですし、バウハウス的な感覚もどちらかというとあるし、ミース・ファン・デル・ローエに対する憧れもある。すばらしいものはもう過去に達成されていると思います。すべて完璧に達成されてしまっている。後藤武、 佐々木正人、深澤直人『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』
昨日の「成功の障害としての「わかってるつもり」」とも関係すると思いますが、結局、いまを生きる僕らが行うべきは、すでに完璧に達成されたものをいまの文脈において再生することではないかという気がするのです。
発見
ようするに僕らは過去を発見し、そこからそれを利用していまの文脈における新しいものを生み出していく必要があるのだと思うのです。発明ではなく、発見なのだと思う。それは自分のものの見方、自分の殻をやぶって外に出ることだと思います。そして、それは過去の発見という手法でなされるのだと思う。
科学的な分析力がこれほど力をもつ以前のより総合的な力が必要とされたルネサンス期以前のものを発見することが大事なことだと強く思います。
総合力
例えば「IDEOにおけるデザイン・プロセスの5段階」で紹介したデザインの5つのプロセスの最初の2つの段階である「理解」や「観察」などは、レオナルド・ダ・ヴィンチやル・コルビュジエはこれでもかというほど、行っています。「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣/茂木健一郎」で紹介したようなレオナルド・ダ・ヴィンチがもっていた「総合的な知性」は、多少近代ということで範囲は狭まっている感はあるもののル・コルビュジエの仕事からも同じように感じました。そして、現在の細分化されすぎた仕事の領域がもたらす問題はあきらかにこの総合力を人から奪う傾向があると思います。これは個々の人々が自ら克服していくべきものだと考えます。
トレース
深澤直人さんは先の引用に続いて、こんなことも言っています。われわれが新しい時代を迎えて新しいものを生み出しているという感覚はまったくないわけです。むしろ達成された過去を、7、80年間くらいの人生の中で同じようにトレースできるかどうかのほうに興味があります。後藤武、 佐々木正人、深澤直人『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』
自分たちがまったく新しい手法をいま生み出しているなんて思うことは大きな勘違いのような気がします。それらはすでに過去に達成されたものだろうと思うのです。それほど人類が積み重ねてきた歴史というものは価値があるものだと思います。
その歴史の遺産を有意義に使わない手はありません。そして、過去の遺産を利用したからといって、それは単なる過去の焼き直しにはなりえません。文脈が異なればそれは違う価値をもつのだから。
新しいものを生み出すためにこそ、過去に学ぶ必要があるのだろうと最近強く感じるのです。
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