「さよならだけが人生だ」という言葉がありますが、「サーフェスの変形だけが人生である」とも言えると思います。たとえば、化粧や料理はサーフェスにあるもともとの意味を残しながら、その意味を強調するというレイアウトの修正です。強調しすぎれば仮面のようになってしまったり、食べられなくなってしまいます。創造というべきか発見というべきか、われわれは、サーフェスのレイアウトを変形しレイアウトの5種類の性質を使って、サーフェスに新しい意味を作っている。後藤武、 佐々木正人、深澤直人『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』
ここでいうレイアウトとは、ジェームス・J・ギブソンが生態学的にみた環境における「ミーディアム(媒質、medium)」と「サブスタンス(物質、substance)」とそれらの境界となる「サーフェス(表面、surface)」の3つが織り成す大小さまざまなレベルの形態の違いを指す言葉です。
レイアウトには視覚によって感知されるものもあれば、そのほかの聴覚や触覚、味覚などによって感知されるものもあります。いや、正確にはそうした五感それぞれを人が個別に感知するということはなく、統合的な感覚によって人は環境のレイアウトを感知しています。そして、人はさまざまなレイアウトの変化を感知すると同時に、みずからの行動によって環境のレイアウトを変化させている。それはデザインという意志によるものもあれば、単純に自らが動くことによって周囲のレイアウトが変化するという無意識的行為によるものもあるはずです。
そうした意味において「サーフェスの変形だけが人生である」という言葉は非常に僕にはしっくりくるものでした。
レイアウトの5種類の性質
さて、上の引用で、佐々木さんが「レイアウトの5種類の性質」といっているのは以下の5つです。- 平坦性:表面の凸凹、平ら具合、湾曲具合
- 閉じ具合:表面がどのように閉じているか、「形」とは別の言い方では「閉じ具合」
- 引き延ばされ具合:繊維や棒のような細長いもののサーフェス
- サーフェスの結合の仕方:ひび割れとか隙間のようなもの
- 囲い方:隠れられるかどうか
人間が関心をもっている環境のレイアウトの要素は以下の5つなのだそうで、佐々木さんは「デザイナーやものを作る人たちが、考えているレイアウトの性質を非常にシンプルに言うとこの5つということになる」とも言っています。
新石器時代から何万年かの人類の歴史に存在した14種のモノ
もう1つアメリカの生態心理学者であるエドワード・リードによれば、考古学の史料をたどると、新石器時代から人類の歴史を何万年かたどると、以下の14種類のものがずっと人の周囲にあったのだそうです。- 容器
- 棒
- スポンジ
- くし
- 叩き切るもの
- 楽器
- ひも
- 衣服
- 装飾品
- 尖ったもの
- 縁(へり、edge)のあるもの
- 顔料
- 寝床
- 火
周囲にある「もの」を見てみると、何千年、何万年前と本質的にはあまり変わらない。だから、極端に言うと、われわれは14種のものの、5種類のレイアウトの性質をおそらく嫌というほど探求してきた存在であって、文字や絵画を発明するずっと前から、われわれはサーフェスのレイアウトをデザインしていた。後藤武、 佐々木正人、深澤直人『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』
そして、こうしたモノのレイアウトのデザインを行う自分の手の痕跡に気づいたとき、手の痕跡を具体的にサーフェスの上に残す絵や文字が生まれた。
3つのサーフェスの変形の仕方
この時点で、人は環境そのものと自分の関係性によるサーフェスの変更、環境にすでにあるもののサーフェスを人工的に変更するデザイン、そして、自然に存在するサーフェスの上に自らの手の動きの痕跡を残すことによるリプレゼンテーションという手法という、3つのサーフェスの変形の仕方を学んだことになります。そして、現在のコンピュータによる情報デザインも最後の手の動きの痕跡を残すリプレゼンテーション手法の延長にあるもので、決して目新しいものではないのだと思います。
モノのデザインと情報デザインの違いをどう考えればよいかとずっと考えていたのですが、モノをつくるというデザイン行為とそれを行う手の動きの痕跡のリプレゼンテーションという風に両者を捉えると、非常にその差異をイメージしやすい気がします。
後者を前者のリプレゼンテーションと考えるなら、それはすでにあるもののファウンド・オブジェクトなのでしょう。そして、その元となる前者のモノのデザインそのものがすでにある環境のサーフェスのレイアウトを変更するという意味でのファウンド・オブジェクトなのだとしたら、それはそもそも人が自ら動くことで環境との関係が変化し、サーフェスの変更が起こることの単に延長線にあるものだと考えられます。
エクスペリエンス・デザイン。
それはもしかしたら人々のエクスペリエンスをデザインすることだけを意味するのではないかもしれないなと思います。
それは自身の行動にともなう周囲の環境のサーフェスが変わることを経験する、デザイナーに限らないすべての人が日常的に発見する可能性のある行為なのかもしれないと思うわけです。
Webのデザインに関わっていると、情報デザインというものが非常に非身体的なもののように感じられたすることもありますが、実際はそうではなく、あくまで自然環境の中で生きる人の身体性に深く関わるデザインなのだと思います。
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