2015年11月29日

思考の歴史というものを考えてみたい(前編:中世、そして、15-16世紀)

何のためかはひとまず置いておいて、先日、ふと思い立って、15世紀から19世紀にかけての芸術や科学にまつわる歴史的な出来事を中心に気になるトピックをポストイットに書き出し、並べてみるという1人ワークをやってみた。



やってみると、やはり面白いものでいくつか時代の変換点といえる地点が見えたり見えなかったりしたので、今回はそれをざくっとまとめてみる。

中世までは

まずは、対象外としての中世から。
「15世紀から19世紀にかけて」という視点では対象外なので、ほんと、思いつくまま、こんな特徴をあげてみた
  • 中世の部屋はほとんど家具がなかった
  • 印刷以前、オリジナルの著作はなく、本をつくることはモザイクの作成だった
  • 人は旅をするようになった

このリストの最初にあげた「家具がなかった」という話はマクルーハンの名著『グーテンベルクの銀河系』より。

ジークフリート・ギーディオンが『機械化の文化史』のなかで指摘しているように、中世の部屋にはほとんど家具というものが置かれていなかったのである。グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために、すべてのもののうえに光を要求することとなった。また新しく生まれた時間と空間の観念は、時間と空間を事物や活動によって満たされるべき容器と見なしはじめたのである。だが、視覚が触覚と密接な関係にあった写本時代には、空間は視覚的容器ではなかった。
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』

そして、「本をつくることはモザイクの作成だった」という話も同じ本の別の箇所から。

印刷以前の執筆活動はオリジナルな行為というよりも、モザイクの作製であった。
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』

「人は旅をするようになった」という話はイアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートンによる『知はいかにして「再発明」されたか』からで、著者らは「巡礼や商人や兵士や吟遊詩人や説教師がキリスト教圏の至る所に向かい、十字軍がキリスト教圏の外に散った。この新たな繁栄のなかで、大勢の若者が知を探求しようと旅に出た」と書いている。
そして、この旅が中世のギルドの形成や、その延長線上に大学=ウニベルシタスを生み出している。

ギルドもまた、中世の都市が流動性を持つようになったからこそ生まれたもので、中世の人々はまるで「シャボン玉を吹く子どものように」次々に団体を作った。都市の自共同体や職人の組合だけでなく、教会の参事会や王国や帝国までが、ウニベルシタスと呼ばれた。
イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

著者らによると、「元来大学にはキャンパスも建物も」なく、「レンガやモルタルで作った建物は存在」しなかったそうで。「ウニベルシタス(universitas)という言葉そのものも、物理的な場所ではなく一群の人々を指す言葉だった」そうだ。

こんな家具や建物などが未発達の流動的な空間、モザイク的に手書きで製作される本という、固定された形式をもたない社会環境が中世だったというのが前提として、ヨーロッパ社会はそのあと大きく変化していく。

1445年:グーテンベルク革命が開いた世界

その大きな変換点のきっかけを作ったのが、やはりグーテンベルクによる活版印刷術の発明だったと思う。

  • 1445年頃、グーテンベルクが印刷術を発明。印刷本は最初の大量生産品として、印刷業者に現在に連なるマーケティングの仕組みや国際的な販売網などのインフラを用意させる
  • 15世紀の中頃には、読書が読者個人の責任で行われるようになる。それまでは師のいう通りに解釈していた
  • この頃、国際的な文字の共和国が存在していた。手書きの郵便書簡と印刷された書籍やパンフレットがつなぐ科学者などの国際的共同体
  • 1453年、東ローマ帝国滅亡。それをきっかけに東ローマ帝国に残っていたプラトンの著作が西に流出しはじめる。1462年頃、メディチ家のコジモが、フィレンツェにプラトン・アカデミーを創設。フィチーノにプラトン全集の翻訳を行わせる
  • 15世紀の初め頃に建築家のブルネレスキが遠近法を方法化。被写体と見る目の分離が行われる。主客の分離のはじまり。
  • ルネサンス期の絵画は、ミメーシス、自然の模倣を重視した。「自然よ止まれ、汝は美しい」
  • 1492年にはコロンブスによる新大陸発見のニュースが印刷物を通じて知れ渡る。また同年のグラナダ陥落でレコンキスタ終了。ここからもイスラム諸国に残っていたアリストテレスらギリシアの思想家たちの著作が発見される

今度はマクルーハンのもう1つの代表作『メディア論』から引用すると。

商品が画一で定価がついているというのは、こんにち当然のことと考えているが、それは印刷術が地盤を用意してくれるまで不可能なことであった。「後進」の諸国が経済の「離陸」に到達するのに長い時間がかかるのは、印刷が画一と反復の方向に心理的条件づけを与えるという大規模な加工を経験していないからである。
マーシャル・マクルーハン『メディア論』

大量生産品である印刷本と、1つ1つ生産され完全に同一のものは2つとない手書き写本では、同じ商品だとしても大きく違う。それはほかの製品でも同様で、工業的に製品が大量生産され、あれとこれは同じものという画一性が生まれてはじめて定価という考えが生じる。

『印刷という革命』という本で、著者のアンドルー・ペティグリーは、手書き写本から活版印刷本への変化により、本という商品の売り方が根本的に変わったことを次のようにあらわしている。

当時の本の売買は個別注文が基本であり、しばしばきわめて個人的な取引になった。それに対し、大量にある在庫の中から一冊の本を選んで買うのは、まったく事情が異なる。買い手の側が意識を変革して、個人的に発注したのではない本を欲しがるようになる必要がまずあった。
アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』

画一的に大量に生産される本だからこそ、同じ本を欲しがり、実際に購入してくれる人もそれだけの数必要になる。ある意味、生産されるものが複数同一のものとなったことで、同じタイプの人という消費者分類のような考えもここで同時にはじめて生まれてくるわけ。

そして、印刷された本として工業的な形で生産されるようになったとはいえ、初期の印刷本は十分に効果で誰もが買える代物ではなかったわけで、数百冊の単位で印刷したものを売り切ろうとすると、それなりに広範囲に買い手を求める必要で、結果、初期の印刷業者は最初からグローバルな市場というのものを想定して、流通や販売のインフラ、そして、マーケティング施策を考えることになった。
その際、役に立ったのが実は中世以来の大学を中心とした、知の流動性だったりもする。それが先のリストで「国際的な文字の共和国が存在していた」と書いたことで、『知はいかにして「再発明」されたか』のなかにこんな記述がある。

この本の目次に挙げたさまざまな知の制度のなかで、平均的な教育を受けた読者に聞き覚えがないのは、たぶんこの文字の共和国だけだろう。だが、エラスムスやコペルニクスやガリレオやデカルトやニュートンやベーコンといった西洋の偉大な思索家を次々に生み出した、というよりも育んだのは、この制度だったのである。(中略)文字の共和国とは、手書きの郵便書簡からはじまり、やがて印刷された書籍や雑誌によって縫い合わされることとなった学問の国際共同体であって、この言葉の起源は、ユリウス・カエサルに勝るとも劣らぬローマの雄弁家で、専制に抗して共和制を擁護し、マルクス・アントニウスの配下に殺されたキケロにまで遡ることができる。(中略)その人が暮らす特定の町における権利を保障していた中世の都市の市民権とは異なり、文字の共和国の市民権は、国境とは関係がなかった。それに、中世のウニベルシタスのようなギルドの市民権とも異なり、携行できる証明書や学位や正式の信用状は不要で、その意味でも国際的だった。規則に従って市民として振る舞う者は、だれでもこの国に所属することができた。文字の共和国は、パリやボローニャのような具体的なノードを持たない。場所とはまったく無縁のネットワークだったのである。
イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

こうした場所にとらわれないネットワークと、そのネットワークの共通言語としてあったラテン語のおかげで、初期の印刷業者はヨーロッパ中にみずからの商品の顧客をつくることができた。

初期の印刷本は、あらたに書き下ろされたその当時の現代作家の作品ではなく、古典的な作家のものが大半であったことも、そこに由来している。写本の時代からすでに知られた古代や中世の作家であれば、作品そのものの認知を広げるというマーケティング的課題はより少なく済んだはずだから。

そこにタイミングよく、東ローマ帝国の滅亡や、スペインでのレコンキスタの終了によって、東ローマ帝国やスペインのなかにあったイスラム世界にのみ保存されていたプラトンをはじめとする古典時代の本が再発見される。
メディチ家の当主コジモは1439年のフィレンツェ公会議の際、東ローマ帝国の哲学者が行ったプラトン講義をきっかけにプラトン哲学に関心をもった一人で、1462年頃にフィレンツェ郊外にプラトン・アカデミーを創設して、古代のアカデミアに憧れる人文学者たちを集めている。
そして、コジモは滅亡した東ローマ帝国から写本を入手し、1463年にネオプラトニズムの影響を強く受けたエジプトの文書「ヘルメス文書」を、1469年にプラトン全集を、アカデミーの中心人物であったマルシリオ・フィチーノに翻訳させている。これがきっかけにルネサンス以降のヨーロッパの思想を下支えすることになるネオ・プラトニズム思想が根付いていく。

そして、このネオ・プラトニズムが芸術家の神化を用意する。

魔術的な自然教説と関聯したこの〈ネオプラトニズム〉は、このように主体の、とりわけ〈主観主義的な〉芸術家の、一種の〈神格化〉へとみちびかれるのである。すでにヴァザーリにとって、イデアは芸術家の表象能力の同義語となっている。とはいえ、ヴァザールの場合、イデア−観念はなお自然−依存の域にとどまっている。16世紀の後半にしてはじめて、芸術家は、あらゆる規則全般の創始者となる。
グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』

ただし、これが起こるのは、まだもうすこし先の話で16世紀のマニエリスム期を待つ必要がある。
むしろ、初期ルネサンスはミメーシスの時代。自然を模倣することに芸術家の意識はあり、遠近法の確立によって見られる対象と見る目の関係が分断された形で固定化されていく。

一点透視画法の発見が、眼に見える「被写体」と見る「眼」とを同時に肯定することを意味していたのと同じように、初期ルネサンスでは最初から、現実の芸術的対象とならんで現実の芸術家の主観が前提とされていた。
エルヴィン パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

この自然を正しく観察しようとする目は、のちに当時の科学としての博物学などの分野での蒐集行為や解剖学の分野へとつながっていくが、一方、芸術の分野においては、その視点は外から内側へと反転することになる。先に指摘したネオ・プラトニズムの影響や16世紀に入っての世相の混乱などの影響によって。

1517:マニエラの時代(宗教革命、パラドックス、カタログ)

16世紀は社会が大きく混乱した時代である。宗教改革によるカトリックとプロテスタントとの敵対関係、それに乗じた権力抗争、はたまたルネサンスの発明である印刷術、航海術、望遠鏡などがもたらした従来ヨーロッパにはなかった情報の大量の流入によって、社会は既存の枠組みの更新を大きく迫られる。

  • 16世紀になると、プラトン的イデアの世俗化が進んだと言われている。
  • ミメーシスを重視した初期ルネサンスからマニエリスムに移行するなかで、心の内面でとらえた世界は静止どころか、絶え間なく変転していることに芸術家たちは着目する。芸術家たちは、隠された謎を読み解くことを意識するようになる
  • 芸術においては主観的要素の台頭が起こる。グロテスク文様、蛇状曲線、ヒエログリフ、インプレーザ
  • 14世紀の作家ペトラルカは17世紀に先んじて、コンチェット(詩的綺想)にエンブレム的要素をもたせた作品をだしたものとして、この時期、再発見されている
  • 社会的には、16世紀は不安の時代。1527年にはカール5世によるローマ略奪。1572年にはフランスの内乱のなかで聖バルテルミーの虐殺が起こっている
  • その背景にあるのは宗教的対立で、きっかけは1517年のルターによる「96箇条の論題」
  • このルターの著述が黎明期の印刷業界を成長させる1つの要因となる
  • 同様に、エラスムスのような売れっ子作家が誕生。同じくフランソワ・ラブレーも1532年の「パンタグリュエル」を皮切りに、ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語を出していく
  • アカデミーが数多くできたのもこの頃、オペラやバレエはそこから生まれている
  • 1543年にはコペルニクスによる「天体の回転」が出る。同じ1543年には、アンドレアス・ヴェサリウスによる解剖学書「人体の構造」も

まず、芸術の分野では、先のルネサンスのミメーシスの外の世界を観察する目は反転し、内側に向けられるようになる。

ミメーシスの概念、つまりルネサンスに支配的な自然の模倣としての芸術の概念は、実際には「止まれ、汝は美しい」なるポーズとして固定された静止的な世界を前提としていたが、いまや16世紀になると、心の内面でとらえられた世界のイメージは静止的どころか絶え間ない変転にほかならないとする理念が生み出される。まさにこれはウェルトゥムヌスの領国である。そこから芸術家にふさわしいのは、単なる自然の模倣から解放された表象としての、すなわち自律的な噴出によって紙の上に投影された創意としての「内的ディセーニョ」である、とみなされるようになった。
マリオ・プラーツ『官能の庭』

そして、すでに引用した文にあったように16世紀の後半において「芸術家は、あらゆる規則全般の創始者となる」にいたる。
プラトンにおいては、唯一者のものであったイデアが、中世において神のものになったのを経て、16世紀の後期ルネサンス=マニエリスムの時代においては才能をもった人間=芸術家のものになる。

パノフスキーによれば、16世紀には、プラトン的イデアが世俗化される。すなわち、ある〈人間的な〉能力となるのである。ひとつの芸術作品は、芸術家のあるイデアの所産であって、自然の模倣ではない。
グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』

人は、神や自然の模倣を離れ、真の創造者になっていくのがこの時期だ。
ヴィレム・フルッサーが『サブジェクトからプロジェクトへ』で書いているように、「かれは、もはや神の前で拝跪するのではなく、物の上に屈む」。

それは「1+1が2であることを、神がわれわれより良く知っているわけではないから」というよりは、神の法が言葉によってコード化されているのに対して自然法則が算法(アルゴリズム)によってコード化されているためである。思考のコードを文字のコードから数のコードへと切り替えることは、1つの大転換であった。

ここから先に、文字のコードと数のコードの分離が起こってくるのも、ある意味必然だった。ただし、それが起こるのはもうすこし先。17世紀の半ばに入ってからだ。

一方、この時期、印刷本は徐々に読者層を広げていき、本を読むという行為自体を別のものに変えていく。

1529年、神聖ローマ帝国カール5世は、ルターの説に従う者の一切の権利を剥奪したが、これに対して14の自由都市とルターの説に従う6人の皇子たちは強く抗議する。教会のあり方に異議を唱え、後にまさにプロテスタントと呼ばれるようになった人々は、「神の栄光と救いと我々の魂の永遠なる生命に関しては、誰もが、神と単独で向き合い、自ら説明をしなければならない」と考えたのである。
アルベルト・マングェル『読書の歴史』

「誰もが、神と単独で向き合い、自ら説明をしなければならない」。それが可能になるのは、それぞれがぞれぞれの聖書をもつという印刷本の普及を前提としている。

実際、初期の印刷市場を、ラテン語で書かれた古典作品中心の市場から、各国の俗語で書かれたより一般の人々に向けた市場へと開いていくきっかけになったものこそ、ルターというベストセラー作家が登場したからこそだった。

この時期は、ルターと印刷業にとって怒涛の日々であった。いや増しに熱狂の度を高めてゆく印刷産業にとって何がもっとも驚きであったかといえば、それはルターが物書きとして、思いがけない腕前に気づいたことである。95カ条の論題に対する反響から一躍時の人となったことで、ルターはとんでもない勢いで生産性を発揮しはじめた。
アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』

ルターの著作に対して人々が多大な関心を寄せたことは、ヴィッテンベルクの印刷業者たちにとっては前代未聞の好機到来となった。ルターの初期の著作群が、どちらかといえば資本が不足気味でまだ十分に成熟していなかった書籍産業に対して、利益を上げるための最高の機会を提供してくれたことが何より役立った。なにしろ分量が短く、すばやく生産できて、たちどころに完売するのだから。
アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』

ルターが聖書を重視したこと自体、印刷本によって書籍が個々人に行き渡りやすい状況が生じていなければ、人々をそのような方向へ導くことなどありえなかっただろう。「誰もが、神と単独で向き合い」が可能になるためには、誰もが聖書を手にする可能性が開けていないといけない。

そして、そんな印刷本の普及を支えたのは、ルターのような宗教的な作品のみならず、エラスムスやラブレーのような流行作家の登場もその1つの要因であった。

そして、このエラスムスやラブレーなど、ルネサンス期の作家に共通するものが「パラドクス」である点を指摘したのは、『パラドクシア・エピデミカ』のロザリー・コリーである。

例えば、エラスムスの『痴愚神礼讃』を読んで「痴愚神は自ら言うところでは、歯に衣着せずずばりもの申す、というかずばり物に申させる」という。

あるがまま、見えるがままいうのであるが、見掛け上客観的/即「物」的そうなこの身振りも実は主観的/即時的なものと判明するが、ある集合の一要素、というかおそらくその集合そのものにさえ他ならない彼女が集合の他の要素、その集合の定義を同時に、口にしようとしているからである。口にするのは残らず愚行のことで、礼讃とはつまりは自己礼讃に他ならない。いつも自分自身にもの申させているわけだが、主客融解して同語反復、無限後退と化しているからである。

先に書いたように、遠近法的視覚効果により主客の分離がなされるのがルネサンスである。その主客の分離を斜めからみて分離しきれない様を浮かび上がらせるのがエラスムスの痴愚神というわけだ。ただし、これは単なるルネサンス以前への後退というのではない。パラドキシカルに主客分離システムの限界を問うことで、むしろ、主客分離システムを強化してるのだとさえいえる。16世紀にあらわれたマニエリスム的な戦略というのは大抵こうしたパラドキシカルなものであり、それはラブレーの百科全書的な書きっぷりにもあてはまる。

さまざまな業態の人間がどういう生業を営み、自分たちのより大きな世間をどう見ているか、その使う言葉や如何にということへのラブレーの関心の強さは、そうした職能語へのパロディぶりからも、作品を中断しやまぬ百科事典さながらの一覧表趣味、この寛容きわまる本の宇宙が容れるさまざまな理解能力の世界の多様さからもわかる。そのリスト狂い、叙事詩的カタログへのパロディ好きは、勢い物語の模範的進行とは直には合わない多くの話柄に作家を拉致していく。(中略)ルネサンス軍隊の階級名、火砲類、ルネサンス紳士階級の衣服、馬上槍試合の人馬がつける防具各種、猟獣や肉獣、ヨーロッパ中の湯治場、動物の鳴声、異端の種類とその処罰の種類、怒った人間の口をつく怒号等々、皆リスト化される。身体各部位、体の働き、肉体の疾病や不調およびそうした部位、病と失調への手当てや療治に夥しい紙幅が費やされるのは、風刺にしろそうでないにしろ、ラブレー自身が医家であったことからして当然のところである。カタログのカタログまで登場するに及んでは、ほとんど列挙の叙事詩の感さえある。

列挙し、一覧化し、とにかく、いろんなものを詰め込むことで、解釈と無意味のあいだをパラドキシカルにつないでいく。

この自然の事物や人工的な事物をとにかくリスト化し、カタログ化する思考のあり方が16世紀に成立することの意味を問うたのが『自然の占有』のポーラ・フィンドレンだ。

カタログは、コレクションが生み出したもっとも重要な所産である。所蔵目録が明らかに中世から存在していたのに対して、カタログは初期近代の発明である。目録は、ミュージアムの内容を記録する。目録は、対象に分析的な意味を与えることなく、その一覧を作成することによって、ミュージアムの現実を量として示す。これに対してカタログは、解釈しようとする。16世紀後半にカタログが出現したことは、ルネサンスの蒐集家たちの実践がいかに新しいものだったかを示唆している。
ポーラ・フィンドレン『自然の占有』

印刷された本のなかに、ミュージアムという物理的な空間のなかに、カタログ=リスト化された知がつくられる。それが16世紀の知の形であって、印刷本によりより重視されるようになったアリストテレスを中心とした古典的権威を下敷きにしつつも、自らの観察と経験の重視というルターの思想にも通じる姿勢は、この時代の博物学者にはあって、それがコペルニクスの地動説やアンドレアス・ヴェサリウスによる『人体の構造』の出版などにもつながっている。

こうしたパラドックスを含んだコレクションの不明瞭性をガリレオのような実験科学を重視する人たちが嫌悪を示すのは17世紀に入ってからだ。

ガリレイが嫌悪をあらわにしたのは、奔放に展開されるクンストカマー(収集室)に対してである。このタイプのコレクションの主張は、ちょうどナポリ人フェランテ・インペラートの展示が明快に見せてくれるような、人工物、科学器械および鉱物、植物、動物の3界からなる自然物を構成することであった。
ホルスト・ブレーデカンプ『芸術家ガリレオ・ガリレイ』

ただ、17世紀のこの転換に関しては、この記事もあまりに長くすぎたので、次回にゆずろうと思う。
というわけで、続く……。

   
   
  
posted by HIROKI tanahashi at 18:41| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする