本を読むときに何が起きているのか/ピーター・メンデルサンド

僕らはごく普通に「あの本はわかりやすい、この本はわかりにくい」などと言ったりします。
でも、そもそも「本がわかる」というのはどういうことなんでしょうか?



作者の綴る言葉から何がわかればわかったと感じ、わからない場合はどういう意味でわからないと感じるのでしょう。作者の言うことがそもそもわからないのか、何を言っているかはわかっても、だから何なのか?がわからないのか。
そして、わかりやすさやわかりにくさは、そもそも、それぞれの本がもつ特性なのでしょうか?

ある本は、ある人にはわかりやすく、また別の人にはわかりにくいかもしれません。ある人にとってわかりやすい本でも、それがおもしろいかどうかはまた別物だったりするし、その面白さもまた人によって異なるでしょう。

百聞は一見にしかずと言いますが、本を通じてわかることは、何かを見てわかることと同じなのでしょうか。
複数の人が同じ何かを見た場合、その視線でとらえたものに大きな違いはないと思われますが(見た後の解釈は除けば)、本を読んで感じることは人によって大きな違いがありそうです。
名もなき一匹の猫は誰が見ても、そう大きな違いを生じずに同じ一匹の猫として認識されそうだけど、「吾輩は猫である、名前はまだない」と書かれた文章から想起する猫は読んだ人のあいだでまったくバラバラになりそう。まさに「百聞は一見にしかず」で言葉をどんなに積み重ねても、目で見て誰もがわかるのとように、文章を通じて誰もが同じようにわかる状態をつくりだすのはかなりむずかしそうです。

それなのに、僕らはごく普通に「あの本はわかりやすい、この本はわかりにくい」などと言ったりします。
本を読んでわかるということ、いや、本を読むとはどういうことなのか?を深く考えたりもせずに。

本を読むときに何が起きているのか

誰もが深く考えずにやりすごしてしまっている「読書」に関する、こうした問題に、あらためて疑問を投げかけたのが本書『本を読むときに何が起きているのか ことばとビジュアルの間、目と頭の間』です。

著者のピーター・メンデルサンドは、カリスマ装丁家。
さすが装丁家だけあって、この日本語版でも豊富な図版、巧みにデザインされたレイアウトで、文章のみならず、その視覚的なデザイン性によっても僕ら読み手にメッセージを発します。

そのメッセージの多くは、僕らにとって「読書」「本を読む」という行為が、目で世界を見て理解するという行為といかに異なるものであるかということをあらためて思い出させてくれるものです。原題は”What We See When We Read”ですが、まさに文を「読む」ことによる理解と世界を目で「見る」ことによる理解の差異がこの本の主題にあるといえるでしょう。



目で直接世界を見るとき、いかに特定の対象に集中しようとしても、周囲の世界も僕らの視界に飛び込んできて、対象を単独で見るということはなかなかできません。けれど、本という、誰か自分とは異なる人間である作家を通して世界を見ようとする場合、対象は通常の世界からは切り離された状態で見ることができるようになります。いや、できるようになるというよりも、切り離された状態でしか見れなくなるというほうが正しいでしょうか。

作家が「とらえた」物は、現実の世界で、その事や物が存在していたはずの文脈から外される。作家は、海で波を見たとしても、その波について言及するだけで、その波は海という文脈から外れ、「波」単体として固定させることができる。その波は、それを取り囲む個性なき水の集合体から外される。この波を取り出し、「波」という言語で固定させることによって、流動体としての波ではなくなり、まるで静止画のような不動の波になる。

作家が自分で海をみたときには波は海とともにあったはずです。けれど、作家が言葉を紡ぐ際に、海から波のみを切り出すことで「静止画」としての波、不動の波が生まれます。言葉を紡ぐ過程で捨てされた海に、本を通じてしか波に触れられない僕らには、決して出会うことはありません。

そんな「静止画」としての波を本はつくる。
ここで簡単に、作家が波を切り取る作業を「静止画」を描くことに準えていますが、歴史的な視点で見れば、逆に、本を読むという行為がある時期以降、社会に広く浸透したからこそ、「静止画」というものが生じたということはマーシャル・マクルーハンの理論に慣れ親しんでいる人であればわかっているはずです。
このブログではよく言及している、マクルーハン的なグーテンベルグ革命と遠近法的絵画の登場の強い影響関係ですね。

活字印刷が写本に変わって、より広い層に向けて本というものの流通を可能にしたときから、静止画として世界を切り取るような遠近法的な物の見方が生じたのだということをマクルーハンは指摘しています。さらに、そうした物を世界から切り離された静止画として見方がさらに人間社会に浸透すれば、百科全書のような世界から切り取られた言葉と図版の共犯による「世界の理解の新しい形」が生じてきます。その言葉と図版の共犯関係がさらに細分化されて分類学的な整理が可能にしていくとともに、微細なレベルまで編み上げられた言葉と図像の共犯関係をもとに、多くの小説が書かれるようになります。
マクルーハンは『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』のなかで活版印刷技術の浸透した社会における視覚偏重の文化においては「視覚だけを抽象して強調する営みは、物と物とをただ突き合わせるというマッチング操作だけを真理の基準にしてしまった」のだと書いていますが、まさに小説という芸術はこのマッチング操作に習熟した人たち向けの芸術であり、言葉と物とのマッチングをごく自然にできる人にしか伝わらない表現形態だということを僕らは忘れています。



小説が社会に登場してくるなかで、例えば、海から切り離された「静止画の波」が白鯨とエイハブ船長の戦いの背景として描かれたりするのです。世界から切り離されたバラバラの破片の描写の連続からストーリーを読み取る術を僕ら読書家は知らないうちに身につけているのでしょう。

ナンセンス、意味のない言葉に連なり。それは理解と紙一重

バラバラの破片がうまく作家によってつなぎ合わされたとき、なんらかのストーリーが浮かびあがる。それはマンガという表現形式において、バラバラの静止画からストーリーが生じるのと同じです。

マンガの一コマ一コマをバラバラに切り離して、その破片をランダムに並べ直しても、意味がわからなくなってしまうように、そもそも文章を織り成す言葉もバラバラの破片です。そんなバラバラの要素である言葉を元に文章をつくるということは、文脈によって意味を生成するということに他ならないはずで、それはマンガのコマをストーリーが生まれるよう並べるのと同じです。

けれど、問題は「その文脈とは誰の文脈か?」ということです。

本の中で言及されている対象がわからない文章を読んでいる時、(不注意に一節読み飛ばしてしまった時など)、まるで、構造的には正しいが意味的には機能しない、意味のない「ナンセンス」な文章を読んでいるような気分になる。その文章は意味ありげな雰囲気を持っているため、意味深長に感じ、その文法と構造が私を先へと押し進めるのだが、実際には私は何も理解して(そして思い描けて)いない。

バラバラの破片である言葉の連なりである文章を読んでいれば、その破片のうちの1つや2つが自分にとって身近でなく見覚えなく得体の知れないものであることは頻繁に起こり得ます。
ただ、それでも、その得体の知れない代物がはまりこんだ文脈そのおのが自分にとって身近であれば、得体の知れない代物自体は不明のままでも、そのまま、なんとか読み進めることができ、そのうち、得体の知れない代物の正体もなんとなくわかってくるようになることもあります。

けれど、文脈自体もよくわからない場合、単語ひとつひとつは理解できるものでも文章自体はまるで意味がわからず、引用にあるとおり、そもそも、この文章自体がナンセンスではないかと感じられることもあるはずです。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』などはまさにこうした言葉(特に小説の言葉!)がそもそも持つナンセンスな性格を巧みに用いた作品です。
冒頭で書いた「この本はわからない」という評価もそうしたナンセンスに感じられる文章がどれだけの割合で本の中身を占めているかで決まるのでしょう。

ただ、このナンセンスに感じる文章が本当に無意味かどうかは、書き手の側だけの責任ではないでしょう。むしろ、どう文脈を読み取るかは読む側の経験、学習、想像力などによって大きく左右されるはずです。
だから、あの本はわかりやすい、この本はわかりにくいと能天気に判断してしまうのは、それこそナンセンスで、ある本がわかりやすく、また別の本がわかりにくいのは単に読んだ人との関係性で決まるのであって、必ずしも本そのものの属性だけによって決まるのではないことは理解しておく必要があるでしょう。

それでも、僕らは作家の顕微鏡を通して見ることしかできない

けれど、当然ながら、どう解釈するかは読み手である僕らの責任なのだとしても、作家が記してくれた範囲をはるかに超えて、読み手が世界を読み解くことはできません。

ディケンズは「銀色の日溜り」を、彼の顕微鏡を通して見る。ディケンズはこの出来事を取り出して、設置し、まるでスライドガラスの上の溶液のように収容し、読者のために拡大してくれたのだ。私たちが見ているものは、せいぜい、顕微鏡のレンズを通して歪んだ像だ。最悪の場合は、その顕微鏡のレンズそのものしか見えていない(科学哲学の言葉を借りれば、我々はその物を観察しているのではなく、我々がその物を観察するために組み立てた道具を観察しているにすぎない)。

どう読み解くかは読み手の自由であったとしても、僕らが読んでいるのは結局、世界そのものではありえず、作家が世界を読み取ったその残滓でしかないのかもしれません。作家が顕微鏡で見たものそのものではなく、あくまで、その顕微鏡のレンズと一体化した作家の目自体を僕らは見ているのかもしれません。

本書の著者が書いているように、僕らはどんなに想像力をたくましくしようと、トルストイの『アンナ・カレーニナ』やフローベルの『ボヴァリー夫人』が実際にどんな容姿をしているかを完全に思い浮かべることができません。作者自体がその容姿が完璧に思い浮かべられるよう意図して、その容姿を描写していませんし、そもそも、どうすれば誰もが同じようにある人物の容姿をイメージできるような文章を書けるのでしょう。

文章を読みながら、僕らがイメージするアンナ・カレーニナやボヴァリー夫人のイメージは常に部分的で、ぼやけていて、不完全です。



でも、それはそもそも僕らが世界を知る際に行っていることそのものではないでしょうか?
僕らは本を介さず、直接世界を見る際でも、世界の一部を切り取り、抽象化して、バラバラになった素材を自分自身の文脈にあうよう当てはめて自分自身の物語として構築しなおすことで、世界を解釈している。それは本を読む際の思考の動きとまったく異ならないのではないか。

本を読むことは、読者が世界を知るためのこの手順の反映である。世界についての真実を物語がおしえてくれるということでは、必ずしもない(教えてくれることもあるかもしれないが)。本を読むという活動は、意識そのもののように感じ、また、意識そのもののようなものだ。つまり不完全で、部分的で、かすみがかっていて、共同創作的なものである。

わかるということと本を読むということの類似性。それは間違いなく、現代を生きる僕らの思考性の特徴なんだと思います。
けれど、それは僕らの思考の特性であって、読書が一般化して以降の社会の特性だということも忘れてはならないのだと思います。



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